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第2話 秘密共有と一晩の保護

 車が走り出してからしばらく、恒一はほとんど口をきけなかった。  窓の外を流れていく街の灯りが、滲んで見える。冷房は効いているはずなのに、身体の奥だけがじくじくと熱い。ジャケットを掛けられているせいで、まだかろうじて人前に晒されていない気がしたが、そのぶん余計に惨めだった。  よりにもよって橘冬真に助けられるなんて。  ハンドルを握る横顔は、腹が立つくらい普段通りだった。焦った様子も、面倒くさそうな溜め息もない。ただ前を見て、必要なだけ車線を変え、赤信号では静かに止まる。その落ち着きが、かえって恒一の神経を逆撫でした。 「……どこ行く気だ」  ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。 「俺の家」 「は?」  即座に拒絶したかった。だが息を吸っただけで喉が熱を帯び、言葉がうまく続かない。 「ホテルじゃ人の出入りがある。お前の家まで一人で帰らせるのも無理だ」 「勝手に決めるな」 「勝手に倒れかけたのはお前だろ」  冷たく言われて、恒一は奥歯を噛んだ。言い返したいのに、反論できないのがいちばん腹立たしい。  車内に沈黙が落ちる。  そのあいだにも、自分から漏れているかもしれない甘い匂いが気になって仕方がなかった。冬真がそれをどう感じているのか、考えるだけでぞっとする。  やがて車が地下駐車場に滑り込み、停まった。エンジンが切れると、急に静かになる。 「歩けるか」  問われて、恒一は「歩ける」と返したつもりだった。だがドアを開けて立ち上がった瞬間、膝が笑った。壁に手をつくより早く、腕を取られる。 「だから無理するな」 「……離せ」 「転ばないならな」  あくまで事務的な口調が癪に障る。けれど、振り払えるほどの力は残っていなかった。  エレベーターを降り、オートロックの扉を抜け、冬真の部屋に入る。整いすぎているくらい整った室内だった。余計な物が少ない。生活感がないわけじゃないのに、どこにも隙がない。  そういうところまで、本人に似ていてむかつく。 「座れ」  リビングのソファを示され、恒一は睨みつけるようにして腰を下ろした。じっとしているだけでも心臓が速い。冬真はキッチンへ向かい、グラスに水を注いで戻ってくる。 「飲め」 「毒でも入ってるかもな」 「そんな手間かけるくらいなら最初から拾わない」  言いながら差し出された水を、恒一は数秒睨んでから受け取った。口の中がからからで、意地より先に身体が欲しがる。一口飲むだけで喉が少し楽になった。 「追加の薬は」 「……ない」 「家にも?」 「ある。けど、今から取りに帰るのは無理だ」  答えてしまってから、はっとする。ずるずると会話に乗せられている気がした。冬真はそれ以上責めるでもなく、ただ頷く。 「どれくらいで落ち着く」 「知らない。今回みたいに乱れたの、久しぶりで……」  そこまで言って、恒一は口を閉ざした。自分から秘密の中心へ踏み込んでしまったことに気づく。冬真もまた、そこで初めて視線を寄越した。 「久しぶり、ってことは初めてじゃないんだな」 「……」 「普段はどうしてる」 「なんでお前にそんなこと」 「対処するためだ」  あまりに真っ当な返答で、詰まる。  脅すでもなく、面白がるでもなく、本当に必要だから聞いているだけの声だった。  恒一はグラスを握る指先に力を込めた。 「普段は、薬で抑えてる。多少の波なら休めば引く」 「今回は多少じゃない」 「わかってるよ」  思ったより強い声が出て、冬真が黙る。  悔しさに胸が詰まった。自分がいちばんわかっている。こんな失態、認めたくないのに。 「……会社には、絶対」 「言わない」 「俺がΩだってことも」 「言わない」 「簡単に言うな」 「簡単だから言ってるわけじゃない」  冬真の声音がわずかに低くなる。  恒一は反射的に顔を上げた。視線がぶつかる。 「見た以上は放っておけない。でも、ばらして得することもない」 「得とか損で測るな」 「じゃあ訂正する。お前が嫌がることはしない」  静かな言葉だった。  それが妙に真っ直ぐで、恒一は一瞬だけ言葉を失う。  冬真が視線を外し、テーブルの上に小さな箱を置いた。市販の解熱剤や経口補水液、体温計が入っている。 「途中で買った。必要そうなものだけ」 「……用意よすぎだろ」 「お前がふらついてる間にコンビニ寄っただけだ」  さらりと言われて、恒一はまた腹が立った。助けられている自覚があるせいで、その腹立ちがどこにも向けられない。 「帰る」  衝動的に言って立ち上がる。  だが二歩も進まないうちに視界が揺れた。壁に手をつく前に、冬真が前へ回る。 「ほら見ろ」 「触るなって……」 「なら自分で立て」  言い方は冷たいのに、支える手は必要以上に強くない。逃げ道を塞ぐためじゃなく、ほんとうに倒れない程度にだけ触れている。  その距離感が、余計に調子を狂わせる。  冬真はそのまま恒一をソファへ戻し、少し離れて立った。 「今のお前を一人にしたら、帰り道でまた悪化する」 「……」 「自宅まで送ってもいい。でも部屋に入るまで持つ保証がない」 「だからって」 「会社に知られたくないんだろ」  その一言で、反論が止まる。  知られたくない。絶対に。  誰か一人でも気づけば、噂は回る。配慮の顔をした線引きや、遠慮の混じった扱いが始まる。今まで積み上げてきたものが、性別の一種みたいな記号に塗りつぶされる。  それだけは耐えられない。  冬真が言う。 「薬が安定するまで、ここにいろ」  まるで決定事項みたいな口調だった。  恒一は唇を引き結ぶ。 「冗談だろ」 「冗談でこんな提案しない」 「お前の家に?」 「今夜だけじゃ済まないかもしれない」 「そんなの、無理に決まってる」 「無理なのは外に出ることだ」  淡々と、逃げ場をひとつずつ潰される。  けれどそこに優越感はなく、ただ現実だけがあるのが厄介だった。  恒一はジャケットの裾を握りしめた。冬真の匂いがわずかに残っていて、それがまた苛立ちを煽る。 「……お前、なんでそんな平気なんだよ」 「平気には見えないか」 「見える」  冬真は少しだけ黙った。それから、珍しく曖昧な顔をする。 「平気じゃない。けど、今お前まで取り乱したら困るだろ」  その答えに、恒一は何も返せなかった。  助けられている。  秘密を握られている。  なのに、脅されてもいない。  最悪のはずなのに、ここがいちばん安全だと身体が理解してしまっているのが、ひどく癪だった。  しばらくの沈黙のあと、冬真が背を向ける。 「客間、使え。着替えは新しいの出す」 「……」 「返事は今じゃなくていい。立てなくなったら意味がない」  そのまま廊下の奥へ消えかけた背中に、恒一はほとんど反射で声を投げた。 「……今だけだからな」  足が止まる。  冬真は振り返らなかった。ただ短く、 「ああ」  とだけ答えた。  その一言で、本当に逃げ道がなくなった気がして、恒一は深くソファにもたれた。  喉の熱はまだ引かない。頭の中もぐちゃぐちゃだ。  けれど少なくとも今夜、人目に晒されることはない。  それを安心だと思ってしまった自分に、いちばん腹が立った。 つづく

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