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第3話 極秘同居開始

 目が覚めたとき、見慣れない天井があった。  一瞬だけ、どこだここ、と本気で思った。だが次の瞬間、昨夜の記憶がまとめて蘇る。発情の乱れ、冬真の車、整いすぎた部屋、そして――最悪の相手の家。 「……っ」  低く息を呑んで身を起こす。熱は昨夜より引いていたが、身体の芯に残るだるさは消えていない。ベッド脇には水と体温計、見覚えのないパッケージの下着と、シンプルな部屋着がきちんと畳まれていた。  几帳面かよ。  心の中で毒づきながら、恒一は額を押さえた。夢じゃない。ほんとうに橘冬真の家で一晩を明かしたのだ。  客間を出ると、すぐに香ばしい匂いがした。キッチンから小さく音がする。恐る恐る覗けば、冬真がフライパンを片手に朝食を用意していた。 「……何してんだ」 「見てわからないなら、まだ寝てろ」  振り向きもしない言い方が腹立たしい。だがその足元には二人分の皿が並んでいて、恒一は言葉に詰まった。 「食えるなら食え。空腹のまま薬を飲むな」 「お前、誰にでもこんな面倒見るのか」 「お前は誰にでも倒れかかるのか」  即座に返され、恒一は黙った。口調は相変わらず可愛げがないのに、やっていることだけが妙にまともだ。だから余計に調子が狂う。  テーブルにつくと、冬真は水と薬を寄せた。 「熱は」 「少し下がった」 「測れ」 「子ども扱いすんな」 「だったら自己申告だけで信用させるな」  ぶっきらぼうに体温計を押しつけられ、恒一は舌打ちしながら受け取った。測ってみれば微熱。昨夜よりはましだが、普段通りとは言いがたい数字だった。 「今日は休め」 「無理だ。午前の打ち合わせが――」 「オンラインに切り替えられるやつだろ。資料はお前の共有フォルダに上がってた」 「……勝手に見たのか」 「昨日、お前が倒れたあと連絡が必要なら困ると思っただけだ」  そこまで言って、冬真は一度区切る。 「必要なところしか触ってない」  妙なところで律儀だ。恒一はトーストを噛みながら、ますます顔をしかめた。助けられている自覚があるから、簡単に噛みつけないのが悔しい。  食事を終えると、冬真が淡々と告げた。 「いくつか決める」 「は?」 「同居のルールだ。今だけとはいえ、曖昧なままだと面倒だろ」  さらっと同居と言われて、恒一は眉を寄せた。今だけ。保護。そういう名目なのはわかっているのに、その単語だけ妙に引っかかる。 「会社ではいつも通り」 「願うところだな」 「家のことは誰にも言わない。体調が怪しいときは隠さない。寝室は分ける」 「最後のは当たり前だ」 「お前が警戒すると思ったから先に言った」 「してねえよ」 「してる顔だ」  むっとして睨めば、冬真は気にした様子もなくコーヒーを口にした。ほんとうに腹が立つ。なのに、昨夜から一度も無理に踏み込んでこないのが厄介だった。  午前中は、結局在宅で仕事をすることになった。恒一は借りたノートPCの前に座り、冬真は少し離れたダイニングで自分の端末を開く。同じ空間にいるのに、互いに仕事に入れば空気が切り替わるのが不思議だった。  打ち合わせの画面越しでは、冬真はいつも通りだった。無駄がなく、愛想もない。恒一が少し言葉に詰まったときだけ、さりげなく話を拾って流れを戻す。それが露骨なフォローに見えないよう、ぎりぎりのところでやるから腹が立つ。  会議が終わるなり、恒一はノートPCを閉じた。 「……余計なことすんな」 「何の話だ」 「さっきの」 「お前が止まったから繋いだだけだ」 「だからそれが」 「仕事に支障が出るほうが面倒だろ」  つれない返事に、文句の矛先が鈍る。守られている、なんて思いたくない。だが少なくとも、晒されてはいない。それだけは事実だった。  昼過ぎ、少し横になるつもりで客間に戻ったら、気づけば一時間ほど眠っていた。起きると、だるさはさらに軽くなっている。リビングへ出ると、冬真がソファに凭れて資料を読んでいた。 「起きたか」 「……ああ」 「水飲め」  テーブルにはまた新しいグラスが置かれていた。言われるままに手を伸ばしてから、恒一は自分が素直すぎることに気づいて眉をひそめる。 「お前さ」 「何だ」 「会社でも、家でも、ずっとそんな感じなのか」 「そんな、って」 「管理してるみたいで気分悪い」  冬真は書類から目を上げた。数秒、恒一を見て、それから小さく息を吐く。 「悪かった。けど、お前が無理するの、見ててわかる」 「知ったように言うな」 「知ってる。昨日も、その前からも」  思いがけない言葉に、恒一は黙る。その一瞬の隙を埋めるみたいに、冬真が続けた。 「お前、限界の手前で誤魔化す癖があるだろ」  図星だった。言い返せないことが、こんなに苛立たしいとは思わない。  気まずさを振り払うように、恒一はキッチンへ逃げるふりをした。だが棚の位置も何もわからず、結局その場で立ち尽くす。背後で椅子の軋む音がして、冬真が立ち上がった。 「何探してる」 「別に」 「カップなら上。触るな、危ない」  すぐそばまで来た気配に、恒一の肩がこわばる。冬真は棚からマグカップをひとつ取って、何事もない顔で流しに向かった。距離は近いのに、触れもしない。そのくせ、恒一の動きはきちんと視界に入れているのがわかる。 「はい」  差し出されたマグカップを、恒一は妙な気分で受け取った。自分の分として用意された物が、もうこの家の中に自然に存在している。その事実が落ち着かない。  夕方、薬を飲むころには、熱もほとんど平熱まで戻っていた。もう帰れるかもしれない、と口にしかけて、やめる。冬真に言えば、どうせ顔を見て却下するだろう。そしてたぶん、いまの自分はそれを完全には否定できない。  夜、先に客間へ引っ込もうとした恒一の背に、冬真の声が落ちた。 「何かあったら呼べ」 「……何もない」 「ならいい」  それだけだった。甘くもなく、特別でもない、ただの確認。けれど昨夜とは違って、その声が妙に耳に残る。  客間のベッドに潜り込み、天井を見上げる。会社では最悪の同期だ。皮肉で、嫌味で、腹の立つ男。なのにこの家にいる冬真は、必要なことだけをして、必要以上には踏み込まない。  その距離が、一番厄介だった。  閉めたはずの扉の向こうに人の気配があるだけで、昨夜よりずっと楽に息ができる自分を、まだ認めたくない。  ――ほんと、何なんだよ。  小さく吐き捨てて目を閉じる。  眠気が落ちてくる直前、恒一の頭に浮かんだのは、「いつまでここにいることになるんだ」という苛立ちではなく、明日の朝もまた、あの不機嫌な声で起こされるのだろうか、というどうでもいい想像だった。 つづく

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