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第4話 嫌いなはずなの
朝、目が覚めてすぐ、ここがどこか考えなかった自分に気づいて、恒一は小さく舌打ちした。
薄い光の差す客間。扉の向こうから食器の触れ合う音がする。たぶんキッチンで、たぶん冬真だ。
――慣れるな。
そう思うのに、身体は昨日より軽かった。熱もほとんど引いている。ベッド脇の水を飲んでから、恒一は客間を出た。
朝食の匂いがした。キッチンでは冬真がフライパンを振っている。
「遅い」
「今起きた」
「十分遅い」
「お前の基準で言うな」
吐き捨てると、冬真は皿を二つ並べた。相変わらず無駄のない動きだ。こういう当たり前みたいな顔が、妙に腹立たしい。
「食ったら薬」
「もう熱ない」
「そういう話じゃないだろ」
言い返し方まで昨日と同じだ。恒一は椅子に座り、出された朝食に手をつけた。こうして世話を焼かれること自体が落ち着かないのに、少しずつそれを受け入れている自分がもっと気に食わない。
十時からの会議は、今日もオンラインで参加した。恒一はダイニングでノートPCを開き、冬真は少し離れた位置で別の資料を見ている。
会議は長引いた。確認事項が増え、画面の文字を追うのが少しだけ鈍る。ほんの一瞬、返答が遅れた、その隙間に冬真の声が差し込んだ。
「その件は営業で補足します」
自然すぎて、他の誰も気づかないだろう。だが恒一にはわかった。あの一拍を拾われたのだ。
会議が終わるなり、恒一はPCを閉じた。
「……余計なことすんな」
「止まっただろ」
「一瞬だ」
「一瞬でも止まった」
冬真が淡々と言う。
「万全じゃないなら、無理するな」
「知ったように言うな」
「知ってる。お前、限界の手前で誤魔化すから」
図星で、恒一は黙るしかなかった。こういうところが嫌だ。正しいことを、正しい温度で言ってくる。反発しにくい。
昼を過ぎて、恒一はソファで資料を見ていた。だが同じページを何度も開き直していることに、自分でも途中で気づく。
「それ、三回目」
不意に言われて顔を上げると、冬真がこちらを見ていた。
「……見てんのかよ」
「視界に入る」
「言い訳になってない」
「お前がわかりやすいんだろ」
あっさり言われて、恒一は目を逸らした。わかりやすい。その一言が、妙に引っかかる。こいつの前でだけ、自分は少し気が緩んでいる。そう思うたびに胸の奥がざわついた。
夕方、シャワーを借りて客間から戻ると、冬真は外出用のスーツに着替えていた。テーブルの上でスマホが震え、冬真が短く画面を確認する。
「出るのか」
「少しだけ」
「ふうん」
それだけの返事なのに、自分の声が妙に乾いて聞こえた。
玄関先ですれ違ったとき、冬真のスーツから微かに甘い香りがした。恒一は思わず顔をしかめる。
「……香水くさい」
「は?」
「いや、別に」
冬真が一瞬だけ袖口を見て、それから眉を寄せた。
「打ち合わせ先の受付だな」
「知るかよ」
頼んでもいないのに説明されて、余計に落ち着かなくなる。別に誰の匂いだろうと関係ないはずなのに、胸の奥だけが無駄に騒いだ。
「一時間で戻る。薬はテーブルに出してある」
「いちいち言わなくても飲む」
「ならいい」
ドアが閉まると、部屋がやけに静かになった。
恒一はソファに座ったまま、浅く息を吐く。さっきから胸の中でざわついているものの正体を考えたくなかった。冬真に相手がいようが、いまいが、こちらには関係ない。
関係ないはずなのに、落ち着かない。
予定より少し早く鍵の音がした。恒一は無意識に顔を上げてしまってから、自分にうんざりした。
「ただいま」
冬真はコンビニ袋を下げていた。
「何、それ」
「プリン」
「は?」
「機嫌悪そうだったから」
「もともとだ」
「今日のは違う」
言われて、恒一は言葉に詰まる。こういうことをされると困る。ただの気まぐれなのか、本気で気にしているのか、判断がつかない。
冬真がネクタイを緩めた拍子に、また甘い香りがした気がして、恒一は視線を逸らした。
「……まだするな」
「匂い?」
「別に」
「気になるなら洗う」
「そこまで言ってない」
妙なやり取りのあと、冬真が低く言った。
「受付でぶつかられただけだ。変な意味はない」
「だから知るかって」
「だったらそんな顔するな」
そんな顔。
むっとして、意地を張って、理由もわからず苛立っている顔。自分がいまそういう顔をしていることに、恒一はそのとき初めて気づいた。
「……お前には関係ない」
「ある。同じ家でずっとその顔されると空気が悪い」
理屈っぽい返しなのに、声は思ったよりやわらかかった。
居心地が悪くて、恒一はキッチンへ逃げた。せめて水でも飲もうと思ったのに、どの棚にカップがあるのか一瞬わからない。
「何探してる」
「別に」
「カップなら上」
すぐ横に伸びてきた腕が棚を開ける。近い、と思う。近いのに、冬真はやはり触れてこない。必要な距離だけ詰めて、必要以上には踏み込まない。
水の入ったマグカップを渡され、恒一は反射的に受け取った。
「……ありがと」
言ってから、しまったと思う。
冬真も少しだけ目を見開いたが、すぐに言った。
「どういたしまして」
「気持ち悪い返しすんな」
「礼言ったのはそっちだろ」
「今のなし」
「無理だな」
ほんの少しだけ空気が緩む。そのこと自体が、また落ち着かなかった。
夜、客間へ戻る前に、恒一は一度だけ振り返った。リビングで冬真が資料に目を通している。会社で見るよりずっと静かな横顔だった。
お前、誰かいるのか。
お前は誰にでもこうなのか。
喉まで出かかった問いは、どれも形にならない。そんなことを聞く権利はない。
「お前――」
思わず零れた声に、冬真が顔を上げる。
「何だ」
「……いや。何でもない」
「そうか」
それだけで終わる。終わるのに、胸のざわつきだけが残った。
客間のベッドに潜り込み、恒一は目を閉じる。
嫌いなはずなのに。
そう思った瞬間、胸の奥がまた小さく波立った。
苛立ちに似ていて、でもそれだけじゃない何かに、まだ名前はつけられない。
ただ、同居する前より今のほうが、よほど冬真に振り回されている。それだけは確かだった。
――最悪だ。
小さく吐き捨てて、恒一は寝返りを打つ。
扉の向こうに人の気配があることを、今夜も少しだけ当たり前に感じている自分には、気づかないふりをしたまま。
つづく
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