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第5話 もう一度、熱が来る
数日ぶりに出社した午後、恒一は資料を抱えたまま、エレベーター前で浅く息を吐いた。
午前中は問題なかった。会議も商談も、多少疲れはしてもこなせた。だから、もう大丈夫だと思ったのだ。
なのに、昼を過ぎたあたりから妙に身体が熱い。
空調のせいか、人が多いせいか、それとも寝不足か。そう言い聞かせようとして、うまくいかない。喉の奥が渇く。耳の奥がじわじわする。皮膚の内側だけが、落ち着かなく熱を持っていた。
「顔色悪いぞ」
不意に横から声がして、恒一は肩を震わせた。
冬真だった。営業帰りらしく、ジャケットを腕に掛けている。
「……平気」
「平気なやつは、そこで五分も立ち止まらない」
「三十秒だ」
「言い返せるならまだましか」
そう言いながら、冬真の視線はまっすぐ恒一の顔を見ていた。その視線が鬱陶しいのに、逸らされるより落ち着かない。
「午後の外回り、代わる」
「いらない」
「いる」
「勝手に決めるな」
「倒れられるほうが困る」
低い声に押し切られそうになって、恒一は舌打ちした。
「……お前、ほんと嫌なやつ」
「知ってる」
冬真は顔色ひとつ変えない。そのくせ、恒一の手から資料だけは当然みたいに取り上げた。
「帰るぞ」
「まだ定時じゃ――」
「今のお前に必要なのは勤務実績じゃなくて休養だ」
反論しかけて、言葉が止まる。腹が立つほど正しい。しかも、周囲に聞かれてもただの体調不良にしか見えない言い方を選んでいるのが、また腹立たしかった。
帰宅してすぐ、恒一はソファに座り込んだ。靴を脱いだだけで、思ったより息が上がる。
冬真がキッチンから水を持ってくる。
「飲め」
「……熱、ぶり返しただけだ」
「それを悪化って言うんだろ」
グラスを受け取る指先が、わずかに震えた。見られたくなくて握り直す。だが冬真は見ていないふりをして、そのままテーブルに薬を置いた。
「今日は早めに飲め」
「まだ時間が」
「ずらしていい範囲だ。医者に言われてるだろ」
「……覚えてんのかよ」
「聞いたことは覚える」
それだけのことみたいに言う。
恒一は薬を飲み込み、ソファの背にもたれた。効くまで少し待てば、落ち着くはずだった。そう思うのに、身体の芯のざわつきが消えない。むしろ、近くにいる冬真の気配ばかりが妙に濃く感じられる。
「……少し、離れろ」
絞り出すと、冬真は一瞬だけ眉を動かした。
「近いと悪い?」
「知らない。ただ、落ち着かない」
「じゃあ向こう行く」
あっさり離れようとした背中に、胸の奥がひやりとした。自分でも理由がわからないまま、恒一は反射的に袖を掴んでいた。
冬真が振り返る。
掴んだ指先が熱い。離すべきなのに、離せない。
「……恒一?」
名前を呼ばれて、余計に息が乱れた。会社では絶対に呼ばない名前だ。
「悪い、今の――」
「離れたほうがいいのか、そばにいたほうがいいのか、どっちだ」
責めるでもなく、ただ確認する声だった。
恒一は唇を噛む。そんなの、自分が知りたい。
ひとりでいると落ち着かない。近くに来られるともっと落ち着かない。なのに、離れてほしいのかと問われると、それも違う気がした。
「……わからない」
やっとそれだけ言うと、冬真は短く息を吐いた。
「じゃあ、ここにいる」
「勝手に決めるな」
「聞いて決めただろ」
言い返す余裕もなく、恒一は目を閉じた。ソファの横に冬真がしゃがむ気配がする。額に触れた指先はひやりとしていて、熱を持った皮膚がびくりと跳ねた。
「熱いな」
「触るな」
「確認だ」
短く言って、冬真はすぐ手を離した。もっと触れてきてもおかしくない距離だったのに、それ以上は踏み込まない。そのことに、妙にほっとして、同時に少しだけ物足りない自分がいて、恒一はますます混乱した。
呼吸が浅い。胸が苦しい。熱のせいだけじゃないとわかるのが最悪だった。
立ち上がろうとしてふらつくと、冬真が咄嗟に腕を支えた。背中に手が回る。たったそれだけで、少し楽になる。
「ベッド行くか」
「……やだ」
「子どもか」
「そういう意味じゃなくて」
客間にひとりになるのが、急にひどく心細く思えた。自分でも馬鹿みたいだと思う。けれど言葉にできないまま沈黙すると、冬真が低く問う。
「ここにいたいのか」
「……」
答えないことが答えになってしまう気がして、恒一は目を逸らした。
冬真はそれ以上追及しなかった。ただソファに座り直し、少しだけ距離を詰める。
「じゃあ、好きに寄りかかれ」
命令みたいな言い方なのに、ひどく甘やかす響きだった。
恒一は逡巡してから、ほんの少しだけ肩を預けた。触れ合う体温が、やけに落ち着く。さっきまで暴れていた熱が、少しずつ形を失っていく。
冬真は何もしなかった。背を支えるだけで、それ以上は求めない。
それが、たまらなくずるい。
「……お前さ」
「何だ」
「こういう時くらい、少しは調子に乗れよ」
自分でも何を言っているのかわからなかった。熱に浮かされているのだと、そう思いたかった。
冬真は沈黙したあと、静かに答える。
「今ここで触れたら、お前はあとで後悔する」
「……」
「楽にするために抱く気はない」
その一言が、熱よりずっと深く落ちた。
本能のせいにできるはずだった。体調のせいだと誤魔化せるはずだった。なのにこんなふうに言われたら、残るのは自分の感情だけだ。
恒一は目を閉じ、冬真の肩口に額を押しつけた。
「……ずるい」
「何が」
「全部」
返事はなかった。ただ、背に回る手がほんの少しだけ強くなる。
それだけで十分だった。
熱が少し引いたあとも、恒一はしばらく動けなかった。動けば、この落ち着きごと壊れそうな気がしたからだ。
こんなの、もう本能のせいじゃない。
そう気づきかけて、恒一は薄く息を吐く。
最悪だ、と心の中で呟く声は、前より少しだけ弱かった。
つづく
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