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第6話 一番ほしい言葉
翌朝、目が覚めた瞬間、恒一は天井を見たまま固まった。
知らない天井では、もうない。けれど慣れたと思った瞬間に、昨夜のことまで鮮明によみがえってくるのが厄介だった。
冬真の肩に額を押しつけたこと。腕の中で落ち着いてしまったこと。あげく、ずるい、なんて拗ねたようなことまで言った気がする。
最悪だ。
薄く息を吐いて身を起こすと、テーブルには水と薬、それから簡単な朝食が並んでいた。キッチンのほうから物音がして、すぐに冬真が振り返る。
「起きたか」
「……うん」
自分でも驚くほど素直な返事が出て、恒一は眉を寄せた。冬真は何も気にした様子もなく、マグカップを置く。
「体調は」
「平気」
「なら飯食え。薬はそのあと」
昨夜のことには、ひとことも触れない。
それでいいはずなのに、胸の奥に妙な空白が残った。蒸し返されても困る。何事もなかったようにされても困る。そんな自分勝手を抱えているのが、ひどくみっともない。
出社すると、冬真はいつも通りだった。会議では容赦なく意見を返してくるし、資料の不備も遠慮なく指摘する。恒一も反射で言い返したが、以前ほど調子が出ない。
「白瀬、そこ数字ずれてる」
「見ればわかる」
「わかるなら直せ」
「今やる」
短いやり取りに周囲は何も思わないだろう。普段通りの、犬猿の同期だ。
なのに会議が終わったあと、修正版の参考データがすでに共有されているのを見つけて、恒一は奥歯を噛んだ。送信者は冬真だった。余計な一言もなく、必要なものだけが揃っている。
昼休み、給湯室の前で足を止めた時、奥から女子社員たちの声が聞こえた。
「橘くん、ほんと完璧だよね」
「実家もすごいんでしょ。結婚とか早そう」
「この前も、お見合いみたいな話あるって誰か言ってなかった?」
心臓が、嫌な音を立てた。
聞かなかったふりをしてその場を離れる。別に関係ない。冬真に何があろうと、自分には関係ない。そう言い聞かせるのに、足取りだけが少し重かった。
帰宅後、恒一はネクタイを外しながらソファに沈み込んだ。疲れている。仕事のせいだけじゃない。
「コーヒー」
差し出されたマグを受け取る。指先が触れそうで触れない距離に、昨夜を思い出してしまって、恒一はすぐに目を逸らした。
「……ありがと」
ぽろりと零れた言葉に、自分で驚く。
冬真も一瞬だけ目を細めたが、何も言わなかった。ただ向かいの椅子に座る。
静かすぎる空気だった。
前なら気にならなかったはずの沈黙が、今日はやけに重い。昨夜あれだけ近くにいたのに、今はその続きをどちらも口にしない。冬真が何も求めないことが、誠実だとわかる。わかるからこそ苦しい。
「……もう、だいぶ落ち着いた」
先に口を開いたのは恒一だった。
「そうか」
「薬も安定してきたし、仕事も戻れてる」
「無理はしてる」
「してないとは言ってない」
少しだけ、冬真の眉が寄る。
その顔を見ていると、余計に言いづらくなる。けれど、今言わなければもっと駄目になる気がした。
「だから、そろそろ出ていく」
言った瞬間、喉の奥がひりついた。
「いつまでもここにいる理由ないし。迷惑かけた分は、ちゃんと――」
「迷惑だとは言ってない」
「でも事実だろ」
冬真は黙った。否定しないわけではない。ただ、慎重に言葉を選んでいる沈黙だった。
本当は、別の言葉がほしかった。
行くな、とか。まだここにいろ、とか。そんな勝手な一言を、たった一つ。
けれど冬真が口にしたのは、静かな声だった。
「お前がそう決めたなら、止めない」
胸の奥が、すうっと冷えた。
ああ、そうかと思う。そうだよな、とも思う。冬真はずっとこうだ。勝手に踏み込まない。欲しい言葉を押しつけない。恒一の意思を、ちゃんと尊重する。
それがこの男の誠実さで、だから好きになってしまったのに。
「……そっか」
平気な顔で言えたつもりだった。けれど声は少し掠れていたかもしれない。
冬真は何も指摘しない。ただ「荷物、足りないものがあれば言え」とだけ告げて立ち上がる。その背中はいつも通りで、昨夜の熱も、今の痛みも、何も残っていないみたいだった。
自室代わりに借りている部屋に戻り、恒一はベッドの端に腰を下ろした。
ここへ来た時は、一刻も早く出たかったはずなのに。
今は、出ていくことのほうがずっと苦しい。
荷物をまとめるために鞄へ手を伸ばしかけて、止まる。視界の端に、冬真が無造作に置いた替えのシャツが見えた。水の場所も、薬の時間も、もう身体が覚えている。
こんなふうに馴染んでしまった自分が、ひどく惨めで、どうしようもなく寂しかった。
「……勘違いする前で、よかった」
小さく呟いた声は、少しも強くなかった。
それでも、そう言うしかなかった。
そうでもしないと、今すぐ部屋を飛び出して、止めてくれと縋ってしまいそうだったから。
つづく
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