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第7話 同居終了、距離ゼロから最遠へ
自分の部屋で目を覚ました朝、恒一はしばらく布団の中で天井を見ていた。
見慣れた天井だ。静かで、誰の気配もしない。ようやく戻ってきたはずの日常なのに、胸の奥にあるのは安堵より、妙な空虚さだった。
喉が渇いて起き上がる。けれど、テーブルに水はない。薬の時間を気にする声も、キッチンで食器の鳴る音もない。当たり前のことに、恒一はそこで初めて気づいた。
あの部屋はもう、自分にとってただの避難場所じゃなくなっていたのだと。
「……最悪」
誰に向けるでもなく呟いて、恒一は顔を洗った。
会社で冬真と顔を合わせても、会話は必要最低限だった。
「白瀬、その資料、先方に送る前に見直せ」
「わかってる」
「ならいい」
「……何それ」
以前なら、もっと棘のある応酬になったはずだ。けれど今は、どちらも妙に言葉を選んでしまう。目が合うだけで落ち着かなくて、恒一はモニターに視線を落とした。
昼過ぎ、取引先との打ち合わせが終わったあとだった。エレベーターホールで資料を抱え直したところに、背後から声がかかる。
「白瀬さん」
振り向くと、先方の担当の一人、相沢が立っていた。三十代半ばくらいの男で、愛想はいいが、どこか目が笑っていない。
「さっき、ちょっと顔色悪かったですよね。大丈夫ですか」
「平気です」
「無理してません? 送りますよ」
距離が近い。営業用の笑みを浮かべたまま、恒一は半歩引いた。
「結構です。すぐ戻るので」
「でも、汗すごいですよ」
言われて、恒一は喉の奥がひりつくのを感じた。確かに今日は朝から少しだけ調子が悪かった。寝不足と、慣れない一人暮らしのせいだと自分に言い聞かせていたが、体は正直だったらしい。
相沢がもう一歩近づく。甘ったるい整髪料の匂いに、胃がむかついた。
「……失礼します」
横を抜けようとした瞬間、軽く手首を掴まれる。
「そんなに警戒しなくても――」
「そいつに触るな」
低い声が、鋭く割って入った。
相沢の手が離れる。恒一が息を呑むより先に、冬真が二人の間へ入っていた。
「橘さん」
相沢が取り繕うように笑う。「いや、白瀬さんが少しつらそうだったんで」
「それならなおさら、業務外で引き留める理由にはなりませんよね」
声音は穏やかなのに、空気が冷たい。冬真は恒一を振り返りもしないまま、半歩だけ自分の背後へ庇うように位置をずらした。
「こちらで対応します」
「……そうですか」
相沢は一瞬だけ不満そうな顔をしたが、結局それ以上は何も言わずに去っていった。
足音が遠ざかる。張りつめていたものが一気に抜けて、恒一は壁に背を預けた。
「大丈夫か」
「……平気」
「平気な顔じゃない」
短く返されて、恒一は唇を噛んだ。悔しいほど、その通りだった。
冬真が周囲を一度だけ確認してから、低く言う。
「場所、移すぞ」
非常階段の踊り場まで来て、ようやく人目が切れた。恒一は手のひらを握りしめたまま、うまく息が整わない自分に苛立つ。
「別に、あれくらい」
「嘘つけ」
「放っとけよ」
反射で出た言葉に、冬真の眉がぴくりと動く。
「本気でそう思ってるなら、あんな顔しない」
「……お前には関係ないだろ」
言った瞬間、自分で少しだけ後悔した。けれど撤回する前に、冬真が一歩近づく。
「関係ないわけあるか」
はっきりした声だった。
恒一は息を止める。怒っている。けれどそれだけじゃない感情が、その一言に滲んでいた。
「なんで一人でやろうとする」
「だって、もう……」
もう一緒に住んでいない。もう頼る理由もない。そう言いたかったのに、喉が詰まる。
「……お前に迷惑かけたくない」
「今さら何言ってる」
冬真の手が、恒一の腕を掴んだ。強すぎないのに、逃がさない熱だった。
「離れたからって、放っておけると思うな」
胸の奥が、嫌になるくらい大きく鳴った。
ああ、そういうことを言うのはずるい。止めないくせに、こういう時だけ簡単に踏み込んでくる。
けれど振り払えなかった。振り払いたくなかった。
冬真は数秒だけ黙ってから、少しだけ力を緩めた。
「今日は一人で帰るな。送る」
「……平気だって」
「さっきからそれしか言わないな」
「ほんとに平気なら、俺はここにいない」
返す言葉が出てこなかった。
冬真が掴んでいた手を離す。けれどその熱だけが、皮膚に残る。
「仕事終わったら連絡しろ」
「命令?」
「確認だ」
いつもの無愛想な口調なのに、さっきの一言が耳の奥に残って離れない。
関係ないわけあるか。
その言葉だけで、昨夜まで抱えていた冷たい痛みが、少しだけ形を変えた気がした。
冬真が踵を返す。恒一はその背中を見送りながら、ゆっくり息を吐いた。
離れたはずなのに、結局また守られている。
それが悔しいのか、うれしいのか、もう自分でもよくわからなかった。
ただ一つだけ、わかってしまったことがある。
もし本当に冬真に無関係だと思われていたなら、きっと今の一言はなかった。
その事実だけで、どうしようもなく胸が熱くなった。
つづく
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