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第10話 恋から番へ
ほどなくして、オートロックの解錠音がした。
エントランスを抜け、見慣れた階へ向かう。前にここへ来た時は、まともに立っていることすら難しかった。今は違う。心臓はうるさいほど鳴っているのに、足だけは止まらなかった。
扉の前に立つと、すぐ内側で気配がした。
開いたドアの向こうで、冬真が息を呑む。
「……恒一」
名前を呼ばれただけで、胸の奥が熱くなる。冬真は何か言いかけて、結局黙ったまま体を引いた。
「入れ」
短い声に頷いて、恒一は部屋へ入る。整った室内も、静かな空気も、全部覚えていた。たぶん、自分が思っていた以上に。
扉が閉まる。ふたりきりになった途端、さっきまで整理できていたはずの言葉が喉につかえた。
冬真は急かさない。ただ少し離れたところで、恒一が口を開くのを待っている。
その待ち方が、この人らしいと思った。
「……話、したくて来た」
「うん」
「昨日の、お前の言葉……ちゃんと、うれしかった」
冬真の目がわずかに揺れる。
恒一は息を整えた。ここで逸らしたら、また同じだ。
「でも、あの場で頷けなかったのは、お前を信じられなかったからじゃない」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「俺、自分のことをずっと隠してきた。隠して、ひとりで何とかして、それで立ってるつもりだった。でも実際は、誰にも頼れないまま怯えてただけだったのかもしれない」
冬真は何も挟まない。
「今日、人事に話した。全部じゃないけど、必要なことは伝えた。今後のことも相談した」
そこで初めて、冬真が目を見開いた。
「……そうか」
「怖かった。でも、逃げるためじゃなくて、これからもちゃんと働くために、自分で決めた」
言葉にしてしまえば、不思議と腹が据わる。
「だから、今なら言える」
恒一は冬真をまっすぐ見た。
「助けてもらうためじゃなくて来た。選ばれるだけで終わりたくない。俺も、自分の意思でお前を選びたい」
短い沈黙のあと、冬真が一歩だけ近づいた。
「……それ、期待していいのか」
低い声が、ほんの少しだけ掠れている。
恒一は唇を噛んで、それから観念したように笑った。
「ここまで言わせておいて、今さら引くかよ」
冬真の目元が、わずかにやわらぐ。
次の瞬間、伸びてきた手が頬に触れた。熱を確かめるみたいに慎重な手つきで、恒一はかえって息を詰める。
「恒一」
「……ん」
「今度は止める」
その言葉に、六話の夜の痛みがふっとほどけた。
「もう行くな」
欲しかった言葉だった。
ずっと、たぶんあの時から。守るでも、見張るでもなく、ここにいていいと言ってほしかったのだ。
恒一は目を伏せ、触れていた手に自分の指を重ねた。
「行かない」
答えると、冬真がゆっくり息を吐く気配がした。張りつめていたものが、ようやく緩んだように見えた。
「ただ、一個だけ言っとく」
「何だ」
「また面倒見てもらうつもりで来たわけじゃない」
冬真は少しだけ眉を上げる。
「知ってる」
「世話焼きすぎるのも禁止」
「無理だな」
「即答すんな」
思わず返すと、冬真がほんの少し笑った。その顔を見た瞬間、胸の奥の最後の強張りが消える。
気づけば、自分から一歩踏み出していた。
近づいた恒一に、冬真が動きを止める。触れていいのか確認するような沈黙が落ちた。
五話の夜とは違う。熱に浮かされてもいない。逃げ道をなくされたわけでもない。
それでも、今は触れたいと思った。
「……今は、熱のせいじゃない」
そう言うと、冬真の瞳が深くなる。
「俺の意思で、お前のそばにいたい」
次の瞬間、抱き寄せられた。きつすぎない腕の力に、恒一は目を閉じる。落ち着く、と思った。処置みたいに楽になるんじゃない。ただ、この腕の中にいることが、ひどく自然だった。
耳元で、冬真が低く言う。
「番だからじゃない。最初から、お前だった」
恒一はその胸元に額を押しつけた。
「……知ってる。もう、勘違いだとは思わない」
しばらくそのままでいたあと、冬真が少し体を離す。
「今日は帰す気ないけど」
「お前、そういうとこ急に雑だよな」
「嫌なら止める」
試すような言い方に、恒一は首を振った。
「帰らない」
言い切ると、冬真の指先が髪を梳いた。
避難先だった場所が、帰る場所に変わっていくのがわかった。
その夜は、何かを急いで決めることはしなかった。ただ同じ部屋で、同じ温度の中で、これから先の話を少しだけした。仕事のこと。体調のこと。番については、焦らず、ちゃんとふたりで決めようということ。
本能じゃなく、選んだ先にあるものとして。
翌朝、目を覚ますと、やわらかな生活音が聞こえた。
寝室を出ると、テーブルの上に水と朝食が並んでいる。見覚えのある光景なのに、前とは意味が違った。
冬真が振り向く。
一瞬だけ目が合って、それから当たり前みたいな声で言った。
「おかえり」
恒一は少しだけ目を見張って、それから笑う。
「ああ。……ただいま」
最悪の事故から始まったはずの関係は、もうどこにもなかった。
そこにあったのは、選び合ったふたりの、これからの朝だった。
終
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