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第9話 秘密を捨てる覚悟
冬真と別れたあとも、恒一の胸にはあの声が残っていた。
――番になりたいんじゃない。お前に選ばれたい。
何度思い返しても、うまく息ができなくなる。うれしかった。救われた。ずっと欲しかった言葉だったはずなのに、あの場では頷けなかった自分が情けない。
自宅の鍵を開け、暗い部屋に入る。静かだ。何もない、いつもの自分の部屋。なのに、今夜は妙に広く感じた。
電気をつけて、ソファに鞄を放る。ネクタイを緩めながら、そのまま座り込んだ。
冬真の言葉を受け取れなかったのは、気持ちが足りないからじゃない。
むしろ逆だ。
あれだけまっすぐなものを向けられて、それでも飛び込めなかったのは、自分の中にまだ片づいていないものがあるからだった。
Ωであることを隠してきたこと。
隠さなければ働けないと思い込んでいたこと。
誰にも頼らないことが、自分を守る唯一のやり方だと信じてきたこと。
恒一は顔を覆った。
「……ほんと、面倒くさいな」
自嘲しても、気分は晴れない。
Ωだと知られた途端、態度を変えられるのが嫌だった。腫れものみたいに扱われるのも、値踏みされるのも、どちらも耐えられなかった。仕事で結果を出しても、「Ωなのに頑張ってる」で済まされるのが何より嫌で、だから隠した。隠して、張って、誰にも弱みを見せないで、ここまで来た。
それで守れたものは確かにあった。
でも、失くしていたものもあったのかもしれない。
冬真に助けられて、ようやく気づいた。守られることが怖いんじゃない。守られるしかない自分になるのが怖かったのだ。
翌日、会社に着いても気持ちは落ち着かなかった。
資料に目を通しても頭に入らず、コーヒーを一口飲んでから、すぐに机へ戻す。向かいの島では誰かが笑っていて、少し離れたところでは営業二課の社員が取引先の話をしていた。何でもない朝の風景なのに、妙に遠い。
そんな中で、斜め向こうから視線を感じた。
別部署の男(七話で絡んできた男だ)が、こちらを見ていた。目が合うと、にこやかに軽く会釈してくる。何も知らない顔だ。けれど、あの時の妙に踏み込んだ視線を思い出して、背筋が冷えた。
恒一はすぐに視線を切った。
以前なら、こういうのも一人でやり過ごしていた。気づかないふりをして、やり過ごして、それで終わりにしてきた。
だが今は、それがひどく危ういことのように思えた。
隠すこと自体が悪いんじゃない。けれど、隠すために誰にも頼れず、何が起きても一人で抱え込むしかない状態は、もう限界なのではないか。
「白瀬」
低い声に顔を上げると、冬真が立っていた。いつも通りの無表情で、手には会議用の資料を持っている。
「十分後、三会議室」
「……わかってる」
「顔色悪い」
「寝不足なだけだ」
「そういう顔じゃない」
言い返しかけて、やめた。昨日までなら意地で噛みついていたかもしれないのに、その一言に責める響きがないのがわかってしまう。
冬真は少しだけ黙ってから、声を落とした。
「返事はいらない。けど、何かあったら隠すな」
それだけ言って、すぐに踵を返す。
恒一はその背中を見送りながら、息を吐いた。
待つと言ったくせに、こういうところだけずるい。突き放さないくせに、答えを急かしもしない。だから余計に、自分もちゃんとしなければと思ってしまう。
昼休み、恒一はスマートフォンを握りしめたまま、しばらく社内の連絡先一覧を見ていた。
人事部の産業保健担当。
これまで一度も連絡を取ったことのない窓口だ。
指先が迷う。ここで送れば、少なくとも完全な隠蔽は終わる。何もかもを明かすわけではない。だが、体調管理上の配慮が必要な可能性があることだけでも、自分から申告する意味は大きい。
怖かった。
これで何かが変わるかもしれない。今まで通りではいられなくなるかもしれない。
でも、今まで通りでいた結果が、あの七話の出来事だ。誰にも言えず、一人で抱えて、危ういところまで追い込まれた。
それを思い出し、恒一は短く息を吸った。
画面を開き、簡潔な文面を打つ。
業務継続のため、体調管理について相談したいことがあります。面談の時間をいただけますか。
送信ボタンを押した瞬間、心臓が嫌な音を立てた。取り消したくなる。けれど、もう遅い。
数秒後に返信が届く。
今日の夕方なら対応可能です、と。
恒一は目を閉じた。怖いままだ。けれど、不思議と足がすくむほどではなかった。
逃げるためじゃない。
これからも働くために、自分で選んだのだ。
夕方、短い面談を終えて会議室を出た時には、どっと疲れが出た。全部を話したわけではない。けれど、必要な配慮と緊急時の連絡体制について、最低限の話はした。口にしてしまえば案外それは現実的で、恥でも敗北でもなかった。
むしろ、今まで何をそこまで一人で抱え込んでいたのだろうと思う。
廊下の窓に映る自分の顔は少し青い。けれど、その目は昨日までよりまっすぐだった。
スマートフォンを取り出す。
少し迷ってから、冬真の名前を開く。
守られるだけで終わりたくない。
選ばれるだけで、うなずいて終わりたくない。
自分も、自分の意思で選び返したい。
そのために、今の自分で言えるところまで来たのだと思う。
恒一は短く打ち込んだ。
話したい。今日、会えるか。
送信してから数秒も経たないうちに、返事が来る。
会える。
それだけの文字なのに、胸の奥が熱くなった。
仕事帰り、恒一は見慣れた駅とは逆の方向へ歩いた。冬真の家へ続く道だ。最初にあそこへ行った時は、助けられるしかなかった。転がり込むように、逃げ込むように連れて行かれた場所だった。
けれど今日は違う。
足は震えている。緊張もしている。それでも、一歩ずつ自分で進んでいる。
マンションの前で立ち止まり、息を整える。見上げた先の部屋の明かりがついているのを見て、恒一は小さく笑った。
「……ほんとに待ってるんだな」
誰に言うでもなく呟いて、インターホンへ手を伸ばす。
守られるためじゃない。
今度は、自分の答えを持って隣に立つために。
恒一はためらいを振り切って、呼び出しボタンを押した。
つづく
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