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第31話

 ドアノブに手をかけると、ガチャリと開く感覚に蒼太はため息をついた。どうやら鍵は空いているようで、前回しっかり閉めておけと注意したばかりなのに不用心過ぎるだろ、と呆れながらも蒼太は中に入り鍵を閉めた。  あれから何度も来ている藍の部屋は、蒼太にとって特別な空間だった。藍の香りで満ちているこの空間にいると、何度も訪れているというのに蒼太の心を駆りたてる。ふぅ、と息を吐いた蒼太は藍が居るであろうリビングに足を踏み入れた。 「藍、って何してるの?」 「おー蒼太、どうこれ可愛くね?」  蒼太がリビングに入ると、そこには案の定藍の姿があった。そして机の上にはハンカチやポーチ、Tシャツにパーカーなど、いくつかの物が散らばっており蒼太は不思議に思った。そして極めつけには、ソファに大きな猫のぬいぐるみがTシャツを着て座っていた。 「可愛くねってどうしたのこれ?」 「今度のグッズ、今日サンプルが届いたから一個ずつ見てたんだ」  蒼太はなるほどな、と納得した。床に腰を下ろし一つ一つよく見ていくと、確かに全部の物に藍のマスコットである猫がどこかしらに描写されている。しかし蒼太の疑問は未だ解決されておらず、大きな猫に視線を戻した蒼太は「これも売るの…?」と尋ねた。 「売るわけねぇだろ、こんなでかいの作るのも大変だし、誰も持って帰れねぇよ。こっちが売り物」  そう言った藍は、テーブルに置いてある手乗りサイズの猫のぬいぐるみを手に取った。 「はは、さすがにそうだよね。じゃあこの大きい子は何?」 「んー?なんか面白そうだから作ってもらった」  想像よりも遥かにくだらない理由に、蒼太は「そんな理由かよ」と突っ込んだ。藍は不服そうに顔を顰めるとぬいぐるみの頭をぽんぽんと撫でている。 「可愛いから別にいいだろ」 「あれ?でも小さい方は服着てないよ」 「当たり前だろ、こいつの服は俺が着せたんだから」  藍はぬいぐるみが来ているTシャツの袖をぴらぴらさせながら「可愛いだろ?」と蒼太に問いかけた。そんな藍の無邪気な姿が言葉に言い表せないほど愛らしく、ぬいぐるみの可愛さなんかよりも藍の可愛さに蒼太は悶絶した。しかしそんな事本人に言えるはずが無かったため、なんとか表情筋を引き締め冷静に話を続けた。 「可愛いけど…それよりも俺を呼んだ理由は?」 「ん?暇だったから」  蒼太が理由を聞けばたった一言で返ってきた。やはり蒼太の予想通り、藍が蒼太を呼んだ理由は今回もしょうもないものだった。 「そんな理由でこんな夜中に呼ぶなよな」 「嫌だったら来なきゃいいだけじゃん、お前に文句を言う資格はありませーん」  藍の言うことは最もだった。嫌なら来なければいい、ただそれだけの話だ。けれど蒼太にはその選択肢はなかった。 「まぁその通りなんだけどさ。でも仕方ないよ、藍が俺の事求めてくれるんだって思ったら行かないなんて選択出来っこない」  蒼太の素直な意見に、藍は「その言い方気持ち悪いからやめろ」と言い返した。しかし気持ち悪いなんて軽口は蒼太からしたらもう慣れたもので、それぐらいでへこたれたりはしなかった。 「全く素直じゃないなぁ」  蒼太は愛おしさから思わず頬が緩む。藍の暴言ですら喜びに感じてしまうなんて、俺は案外マゾなのかもしれない、と蒼太は冗談めかして考えた。 「別にお前を呼んだ理由なんて特にない、ただ誰でもいいから傍にいて欲しかったんだ」  誰でもいい、藍はそういった。この言葉から分かるように、藍からしたら別に誰でもよかったのだろう。それでも蒼太は嬉しかった、藍が今求めているのは春斗や大晴ではなく、自分なのだから。 「誰でもよかったってこと?」 「んー、でも蒼太以外のやつはこんな時間に呼んでも絶対来ないからなー」  藍の正論に、蒼太は言い返すことができなかった。確かにその通りであり、要件も伝えられずこんな夜中に呼ばれてわざわざ友人の家に来るやつなどなかなかいないだろう。  蒼太はひとつため息を吐き「ほんとだよ、俺ってつくづく藍に甘いよな」と呟いた。 「あっ、そうだ藍。改めて写真集の発売おめでとう」  蒼太は思い出したかのように、藍に写真集が無事発売した事への祝いの言葉を口にした。 「ああ、なんかすごいことになってるみたいだな」  他人事のようにサラッとそう言った藍に「ほんとだよー」と蒼太は苦笑する。 「朝から本屋さんすごいことになってたよ?俺もやっとのことで買えたよ」 「は?お前買ったの?」 「え?うん」 「お前発売前に黒さんから一冊貰ってたじゃん、なんでもう一冊買ってんだよ」  藍は信じられないという目で蒼太を見た。まさかここまで引かれると思っていなかったため、言わなければ良かったという後悔が蒼太を襲う。 「別にいいじゃん…自分の手で手に入れたかったんだもん」 「理解出来ねー、まぁお前からしたら自分の仕事の功績そのものだもんな。こうしてみんなに喜ばれるものを作れたのもほぼお前のおかげだし」  藍の言い方に引っかかった蒼太は「俺のおかげは言い過ぎだろ」と言った。 「いや、お前のおかげだよ。お前は本当の俺を写真に撮ってくれたんだから」  ふわっと藍が微笑んだ。その穏やかな藍の笑みが、以前の藍とは違っていることを表しているようだった。今の藍はこんなにも柔らかな笑顔ができるのだった。 「俺の素を撮ってもつまんない写真になるって言ったけど、お前がつまらなくない表情を引き出してくれたんだ。俺だって藍を演じていない状態でこんな表情出来るんだって初めて知ったし、こんなに沢山の人に喜んでもらえるなんて思ってなかった。この仕事受けて良かったよ」  蒼太は愛おしい気持ちで胸が溢れかえりそうになった。するととすっ、と蒼太の肩に重みがかかる。蒼太は一瞬何が起きたのか理解出来なかった。なんとあの藍が、正面から蒼太の肩にもたれかかるように身体を預けてきたのだ。 「ありがとな、蒼太。お前のおかげでありのままの自分も今はすげぇ好きなんだ」  藍の低くて落ち着いた声が蒼太の鼓膜を刺激する。行き場のない手を宙に浮かせた蒼太の心臓は、これ以上ないほど激しく音を立てていた。藍からの触れ合いなど今までゼロに等しかったせいで、蒼太の興奮は収まることなく増すばかりだった。 「あ、藍…?どうしたの…?」 「んー?別に?なんか人肌が恋しくなったから。この前みたいにさ…抱きしめろよ」  小さな声でそう言った藍は、自身の頭を蒼太の首へぐいっと押し付けた。理性を保とうと必死に葛藤しているというのに、藍は平気で蒼太の理性を崩そうとしてくる。蒼太は堪らずに藍の身体をギュッと抱きしめた。 「いつもなら俺からのボディタッチ嫌がるくせに」 「お前から触られんのが嫌なんだよ」 「なんだよそれ」 「俺から蒼太に触んのはいーの」  蒼太は愛おしさで胸が破裂しそうだった。自分に甘える藍の姿が愛おしくて仕方がない。藍の頭に手を置いた蒼太は、子供をあやす様に優しく撫であげた。 「もぉーしょうがないなぁ。藍くんは甘えん坊さんですね〜」 「うーわうっざ、内心嬉しいくせに何言ってんだよ」 「ははっ、やっぱり藍のこと好きだなぁ」  蒼太が噛み締めるように呟くと、「急になんだよ、キモイわ」と簡単にあしらわれてしまう。好きという気持ちを伝えても藍には届きもしない、それでも蒼太は満足だった。  ぐりぐりと蒼太の肩に頭を擦り付けてくる藍、表情が見えないのはなんとも残念だが、その仕草はまるで幼い子供のようでとても可愛らしかった。  蒼太は常日頃から思っているのだが、藍は猫によく似ている。自由で憎たらしいところや、たまに甘えてくる可愛らしいところが、あの人間達を虜にしてしまう猫のようだった。自由気ままで気分屋の猫のような藍、蒼太はそんな藍の事が愛おしくて堪らないのだ。  しばらくの沈黙が続く中、これ以上は危険だと察した蒼太がゆっくりと藍の身体を離した。すると藍の少し気の抜けた瞳と目が合う。普段は爛々と輝かせている瞳が、今は少しとろんとたれいることに蒼太は言い表せない興奮を覚えた。  藍の赤く主張している唇が目に入る。まるで蒼太を誘惑するような艶やかな唇、蒼太の身体は本能のままに引き寄せられるようだった。  ぼけっと蒼太を見つめている藍に顔を近づけた蒼太は、そのまま藍の唇に触れるだけのキスをした。藍の唇の柔らかな感触、そして人肌の温かさを感じた瞬間、全身に電気が走るような感覚が蒼太を刺激した。ただ唇を合わせている、たったそれだけの事なのにまるで初めてキスをしたかのような味わったことのない感覚に、蒼太はくらりと目眩がした。  蒼太がゆっくりと唇を離すと、ただ蒼太を見つめている奥二重である藍の瞳と目があった。表情からは藍がどのように思っているのか、蒼太には読み取れなかった。それに加え自分の鼓動の音がうるさすぎて、まるで藍の鼓動など聞こえもしない。けれど藍は蒼太を拒絶しなかった。以前蒼太がキスしようと仕掛けた時は、大袈裟に嫌がっていたのに今の藍は嫌がる素振りすら見せず蒼太を見つめている。  蒼太はもう一度藍の唇に自身の唇を重ねた。今度は角度を変え、何度も藍の唇を食むようにキスをしていく。すると藍の口から「んっ…」と鼻から抜けるような吐息が漏れた。蒼太は堪らず藍の唇をペロリと舐める。するとどうだろうか、舌の上に感じる甘い刺激が蒼太をおかしくしてしまうような快感を与えた。そのまま蒼太が舌を入れようと唇の隙間にちょんと舌を当てると、藍は素直に口を少しだけ開いた。 「んっ…んん…っ」  蒼太の舌が藍の口内に侵入する。藍の柔らかな舌を絡み取れば、色っぽい声が藍から漏れる。上顎を舐めると、藍の身体が一際大きく跳ね上がった。蒼太のキスにビクリと身体を反応させてしまっている藍に、堪らなくなった蒼太はジュッと藍の舌を吸い上げた。蒼太が甘すぎる藍の口内を夢中で貪っていると、藍に胸を軽く叩かれる。 「もっ…くるし…っ」  瞳を潤ませながらそう訴えてきた藍に、蒼太は慌てて唇を離した。唾液で口元を濡らした藍は「はぁ…はぁ…」と乱れた息を整えており、その姿に蒼太の下半身は熱を帯びていく。 「藍…」  蒼太が藍の肩に触れようとした時、ハッと目を見開いた藍は蒼太の手をパシリと振りほどいた。  蒼太から視線を外した藍は、自分の口元を押さえ大きく瞳を見開いている。そんな困惑とも捉えられる藍の姿に、心配に思った蒼太は「あ、藍…?」と恐る恐る呼びかけた。 「…帰ってくれ…」  藍は震えた声でそう言った。拒絶とも捉えられる藍の一言に、蒼太の目の前は真っ暗になる。今しがた自分の犯した過ちを自覚した蒼太は、逃げるようにその場から立ち去った。  はぁっ、はぁっ、と蒼太は息を切らしながら夜の街をひたすらに走り続ける。バクバクとうるさい鼓動、蒼太の額には冬だというのに汗が滲み出ており、じっとりと気持ちが悪い。徐々に足取りが重くなり、立ち止まった蒼太は頭を抱えその場にしゃがみ込んだ。 「はぁ…っ、はぁ…っ」  蒼太の手は自然と自分の唇へと伸びた。まだ明確に残っている藍の唇の感触、温もり、そして甘味のような甘すぎる口内、全てが蒼太の心を掻き乱していくようだった。  藍とキスをしてしまった、その事実に蒼太の心臓は忙しなく音を立て続ける。蒼太は耐えられなかった、無防備に蒼太を見つめる藍の姿に、とろんと蕩けたようなあの瞳の前では己の自制心なんてないようなものだった。気がついた時には勝手に身体が動いており、藍の唇に触れていたのだ。  藍とのキスは今までに味わったことのないような興奮を蒼太に与えた。キスなど今までの人生で枯れるほどしてきたというのに、藍の唇に触れた瞬間まるで初めてキスをしたかのような感覚に、蒼太は十代の少年のように夢中になって唇を求めていた。 『帰ってくれ…』  ふと先程の藍の一言が蒼太の頭をよぎった。あの時の藍の震えた声が、蒼太を追い詰めるように色濃く残っている。藍は蒼太とのキスに応えるように身体を委ねていた。けれどキスが終わった後の藍の姿は、とてもじゃないが想い人と口付けした後の反応ではなかった。藍はひたすらに困惑していたように蒼太には見えた。今起きたことが信じられないとでもいうように、藍の瞳には戸惑いの色が見えた。  藍が何故キスを拒まなかったのか、その答えを導き出すには難関すぎて今の蒼太には不可能だった。けれど『帰ってくれ』という藍のあの一言が全ての答えなのかもしれない。結局のところ蒼太は、自分の欲望に負け藍に友人以上の行為を求めてしまった。藍は友人として蒼太を求めていたが、蒼太は藍を友人として見れていなかったのだ。  消えることのない自身の過ち、蒼太を友人として慕ってくれていた藍の好意を裏切り、自分の欲望のまま藍を求めた。藍の他に恋人を作ろうとしても、友人として藍の傍に居ようと意識しても、藍の事が好きだという気持ちが消えることは無いのだから全ては無意味な事だったのだ。決して消えることのないこの事実に、蒼太は後悔することしか出来なかった。

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