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番外編
蒼太はふぅ、と息を吐く。そして意を決したようにソファに座ってスマホを眺めている藍を見た。
蒼太は今、愛しい愛しい恋人である男の自宅にいる。国民的アイドルである水樹藍、彼とめでたく両想いになり付き合い始めた蒼太は、今でもこの事実が夢なのではないかと疑ってしまう程だった。その原因も、蒼太にとって藍という存在が高校の頃からの憧れだったからなのだろう。こうして休日を藍と共に過ごせるなんて、文字通り蒼太にとって夢のような事だ。
洗い物が終わった蒼太は蛇口を下げ、横にかけてあったタオルで自身の手を拭った。そして気付かれないように再度藍に視線を送り、歩みを進める。すとん、と藍の隣へ腰を下ろした蒼太は、横から藍の事を抱きしめた。首元に顔を埋めると、藍の甘く魅力的な匂いがふわっと蒼太の鼻腔を刺激する。そそられるその匂いに、蒼太は鼻をすんすんと動かした。人一倍鼻がいい蒼太からしたら、藍の香りは言わずもがな興奮材料の一つだった。
蒼太の愛おしさはどんどん膨れ上がり、思わず抱きしめる腕に力を入れた。しかし、当の本人である藍は全くの無反応であった。スマホの画面から一ミリだって目を逸らしてはくれず、鼓動だって一定のままだ。
「藍無視しないでよ」
一切の反応を見せない藍に、何としても自分の方を見てほしいと躍起になった蒼太は藍の身体をそのままソファへ押し倒した。ここまできたら強硬手段に入るしかない。
「ねぇ藍…今日はシてもいいかな…?」
上から藍を見下ろす形で、蒼太は思い切って誘いの言葉を口にする。いつまで経っても藍を組み敷いているこの状況に慣れない蒼太は、優越感で背筋がゾクリとした。藍を見下ろすという最高の瞬間、今だけは藍よりも上に立てたような気持ちになれる。
流石にスマホから目を離した藍。キリッと鋭い瞳が蒼太を見つめる。お互いの瞳が絡み合い沈黙の時間が続いた。そんな沈黙は「あのさ」という藍の一言によって破られる。
「一つだけ言っていい?」
「ん?」
「普通にウザイ」
「え…っ」
やっと口を開いたかと思えば、藍の口からは蒼太を押しつぶすような衝撃の一言が発せられた。
──あ…今日は終わったな…。
照れ隠しなどではなく本当に蒼太をウザいと思っているのであろう藍は、物凄く冷めた瞳で蒼太を見つめている。今日のお誘いは失敗してしまったのだと、蒼太は嫌でも察することとなった。
同じベッドで寝ることも拒否された蒼太は、大人しく一人床に敷いた布団の上で身体を倒していた。自身のベッドで横になっている藍は既に寝入っているのだろう。普段からとても静かな睡眠をしている藍は今日もいびきどころか寝息すらも聞こえないせいで寝ているのか判断することは出来ないが、寝つきがいい藍の事だからきっと今は夢の中だ。
藍とは反対に全く眠る気になれない蒼太は、もし藍の反応が肯定的なものだったら今頃自分たちは…と妄想してしまい慌てて頭を横に振った。藍だって気分ではない時があるに決まっている。しかし、付き合ってからの藍の反応を振り返ると、藍から好意的に誘われた事がないことに蒼太は気がつく。
付き合い出してからの藍の態度は以前とほとんど変わり無かった。基本二人きりで会ってもご飯を食べ駄べりゲームをする、そんな友人の延長戦のような関係が続いていたのだ。
かと言って恋人がするような行為を一切していない訳では無かった。キスやスキンシップ、そして片手で数える程度だが恋人同士の営みもしっかりと行っていた。しかしそれら全て蒼太から誘う事しかなく、藍からの誘いは今のところゼロだった。
本当に藍は自分の事を恋愛感情として好きなのか、そんな不安を蒼太ももちろん抱いた。けれど藍は確実に自分に好意を寄せてくれている、そう断言出来る根拠が蒼太にはあったのだ。
他人よりも優れた聴力を持っていた蒼太は、三十センチ程の距離ならば他人の鼓動を聞くことが出来るといういわば能力とも呼べる特性を持っていた。普段の藍の鼓動はとても静かで一定であり、ほとんど変化はしないのだった。けれど蒼太が触れると藍の鼓動はバクバクと激しく音を鳴らすのだ。緊張や興奮が入り交じったようなその音は、藍が蒼太に対して好意を持っていることを示していた。素っ気ない態度のせいで分かりずらいが、藍はしっかりと蒼太に好意を寄せていた。
高校時代から藍に対して想いを寄せていた蒼太にとっては、藍が自分の事を恋愛感情として好いてくれている、その事実だけで幸せが溢れ出てしまうほどだ。けれど人間という生き物はどうも欲求深い。藍と付き合い出してから数日、いざ恋人という関係になってしまうと蒼太の欲は肥大化していく一方だった。そしてついには、藍から誘われてみたい、という贅沢な願望が蒼太の中に芽生え始める。
───俺だって藍に誘われてみたいんだ…っ。
一人悶々としてしまった蒼太は、結局その日はまともな睡眠にありつくことはなかった。
また別の日、今日は藍が蒼太の家へと来ている。車を持っている蒼太が藍の家へ行くことが必然的に多かったのだが、今日は仕事帰りということもあり藍はそのままの姿で蒼太の家へ訪ねてきた。
シャワーを浴びた藍は、蒼太の家に常備されるようになった藍専用のスウェットに着替え、蒼太の部屋で髪を乾かしている。
ピタリとドライヤーの音が止まる。仕事を持ち帰ってきた蒼太は、カタカタとキーボードを打ちながら───今日はどうだ…?と横目で藍の様子を伺う。
「そーた、俺が居るのに仕事なんかしてるなよ」
蒼太の隣へぴと、とくっついて来た藍、蒼太は心の中でガッツポーズをした。
────甘えモードきた…っ。
「仕方ないでしょ?これ今日までに終わらせないとなんだから」
蒼太は藍の柔らかな髪をふわりと撫でた。「んー…」と気持ち良さそうに藍は目を細めている。
藍はごく稀に、蒼太がでろでろになる程甘えてくることがある。恐らくただ単に機嫌が良いのだろう、気分屋の藍の甘えモードは不定期に訪れる。付き合う以前もふわふわとした雰囲気を蒼太に見せていたこともあったのだが、付き合ってからはさらに甘さが増したような気がする。
蒼太に寄り添うように身体を密着させ、口調や声色もどこか幼く聞こえる。以前大晴に、藍が甘えられるのは蒼太だけだ、と言われた時はあの藍が自分に甘えているなどあるわけないと思っていたが、今なら断言出来た。藍は俺に甘えている、と。
「ふーん…お前は俺よか仕事のが大事なんだな」
ツンと少し唇を尖らせた藍。面倒臭い彼女の代名詞のような台詞を藍が口にしても、全然不快な気持ちにならないのが不思議だった。むしろその言葉は蒼太の表情筋を緩ませるだけだ。
可愛い、なんて可愛いのだろうか。蒼太は今すぐにでもこの可愛すぎる男に抱きつきたかった。しかしここで誘惑に負けてしまったら意味が無い。蒼太は決めていた、今日は藍から誘いの言葉が出るまで決して自分からは動かない、と。
なんとか自分の理性に打ち勝った蒼太は「お前は面倒臭い彼女かよ」と冗談めかして笑った。
「さいてー、俺が暇してるのに面倒臭い彼女呼ばわりとか」
「だって今俺忙しいんだもん」
パソコンの画面から決して視線を逸らさないように蒼太は努力する。今日の自分は違うんだ、我慢ぐらい出来るんだ、と蒼太は永遠と自分に言い聞かせた。
「あー、じゃあいいや」
「へっ…?」
予想もしていなかった藍の態度に、蒼太の声は思わず上ずった。つい数秒前まで聞いていた甘ったるい声とは打って変わって、藍は冷めきった態度で蒼太から離れた。
「お前が忙しいなら俺は別に?じゃあ先寝てるわ」
蒼太の思い描いていた反応とは遥かに違った藍の態度に、蒼太は慌てて藍の腕を掴んだ。
「あ、あのね藍…?」
「何?俺もう寝るんだけど」
「いや…っちょっと待ってよ…っ!」
咄嗟に藍を引き留めようとした蒼太は、藍の表情を見てしまった、と感じ取った。
「なんだよ蒼太?」
勝ち誇ったような笑みを浮かべた藍の姿は、まさに女王様と呼んでいいほど華麗だった。
藍は自分が引けば蒼太が黙っているはずないと踏んでいたのだろう。まさにその通りであり、完全に蒼太の作戦は失敗に終わった。藍の方が一枚も二枚も上手だったのだ。
「お前はずるいなほんと」
「は?何が」
蒼太の言葉の意味など理解してるだろうに、藍はとぼけた振りをする。そんな藍が小憎たらしくて、それでも愛おしくて、蒼太は藍の腕を引きそのまま抱きしめた。
「ほんとはこうして欲しかったんでしょ?」
「…それはお前だろ?」
「はは、そうだね」
密着していることで普段よりもより鮮明に聞こえる藍の鼓動。ドクン、ドクン、という鼓動の音は蒼太が聞き慣れている藍の鼓動よりも確実に高鳴っている。
───素直じゃない藍、本当は俺に触れられて嬉しい癖に。ああ、愛おしいなぁ。
「ねぇ藍、今日はシてもいい?」
結局は自分から誘うことになってしまったが、今はそんな事蒼太にとってどうでもよかった。早く藍に触れたい、藍を感じたい。
身体を離した藍はにんまりと口角を上げ「全く、しょうがないな」と満足そうに微笑んだ。
やっぱり俺は藍には敵わない。
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