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 玄関のドアを開けると、雨は止んでいた。あたりは暗くて、すっかり夜。  寝てていいよ、って言ったのに、あみさんは俺を見送るために起き上がった。まだあついからって、スウェットの下だけ履いてる。 「外、ぜったいに出ないでよ。コンビニもダメだからね」  あみさんは、わかったよって感じに頷いた。セックス後のあみさんは、色気がだだもれで、ちょっとどころでなく刺激が強すぎる。(そんなふうに見えるのはゆうだけだよ、ってあみさんは言うけど、そんなことはぜんぜんないんだ。鏡をちゃんとみてほしい)。 「忘れ物は?」 「ん、だいじょうぶ!」  スマホも、家の鍵も財布もある。 「ありがと、あみさん。飯もケーキも、すげー美味しかった。ごちそうさま」  俺は、つっかけていた靴を、ちゃんと履く。それからこっそり、息を深く吸う。あみさんちの匂い。かえりがたい。名残惜しい。けど、あみさんは明日弁当屋で、朝早くて、俺も大学があって。 「ゆう」 「うん?」  呼ばれて、振り返った。くちびるが、やわくあたたくなって、ちゅって音がした。 「……ごめん。もう一回だけキスしたくて」  俺は、喉がぐ、って鳴った。そんなの……ずるい。 「……今のかっこいい、ずるい」 「いや、かっこよくはないだろ」 「なんていうか、大人のよゆうっていうか、見送りっていうか……?」 「なんだそれ」  悔しいから俺もお返しに、同じようにした。なんだかぜんぜん、かっこよくはならなかったけど。  だから、ぎゅって、抱きしめた。あみさんのからだ。あったかい素肌。あみさんのにおい。三回もしたのに。三回もしたから、馴染んで、だからきっと、離れがたい。あみさんの腕が、俺の背中を包む。よしよし、って撫でる。  ……だめだ、このままじゃ、ここで一生、あみさんに甘えてしまう! 「―――~~帰る!」 「ふは」  あみさんは笑って、俺の頬をいちど撫でたあと、ゆっくりと指を離した。 「ん。気をつけて。またな」  必要なくなったビニール傘を揺らしながら、帰る。湿った空気を、吸い込んで、吐き出す。さくらの幹も枝も、道路も、濡れてぺかぺかしてる。あみさんの撮る写真みたい。少し前までの、あみさんの肌みたい。思いながら、浅い水たまりを眺める。  かすれた一時停止線の手前で、俺は振り返った。あみさんのアパート、二階。さくらの木。ベランダにあみさんがいる。あみさんはそこで、俺を見送る、いつも。俺は、心臓がぎゅって熱くなって、叫びだしたくて、でも近所迷惑だから、堪える。  上も着てよ。冷えるよ。えっちだから早く戻って。思うのに、俺は手を振る、あみさんに向けて。気づいたあみさんが、手を軽く上げる。またな。また。  そうだ。ああ、そうだった。  なんだかきゅうに、気づいた。いま、ほんとうにちゃんと、気づけた。あみさんの、またなに救われて、今日まできた。俺は。  俺はスマホを取り出す。開いて、いちばん上にあるアイコンをタップした。しゅんかん、ベランダのあみさんが、はっとして、部屋に戻る。――ふつ、と、電波が、繋がる。 『――ゆう?』  またベランダにやってきたあみさんに、俺は、心臓から指先までしびれる。せつないに近い。けどもっと強烈な、なにかによって。 『どうかした? 何か忘れものか?』  俺は震える息を、深く吸い込んだ。どうしても、どうしてもいま、言いたかったんだ。きっと写真にだって残せない、いまのこのあふれる感情を。 「大好き」  あみさん。あみさんは、びっくりした顔になって。それから……笑ってる。笑ってる。くちに手の甲をあてて、恥ずかしそうに、うれしそうに。 『俺も。大好きだ』  通話を切った俺は、走った。むしょうに、走りたかった。みずたまりを思い切り踏んだけど、きにしなかった。  この先にある角。そこを曲がって、さくらの木の影にはいって見えなくなるまで、きっとベランダにいるあみさんを思いながら俺は、春の夜の匂いを吸い込んだ。

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