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第7話 むかしのはなし

 俺・一ノ瀬海斗が藤森有に初めて会ったのは、小学校五年生――10歳の時だった。  俺が通う小学校に有が転校してきたのだ。 『……初めまして。藤森有です』  黒板の前に立って、頬を染めながら小さな声で自己紹介をした有を、クラスのやつらは息をつめて見つめた。  ほっそりとした肢体にどこか物憂げにうつむく端正な顔立ち。細い首に着けられたカラー。その佇まいは、子供の目から見ても思わず目を引きつけられるような魅力があった。  まるで泉から自然に清涼な水がわき出すように、有の身体からにじみ出ているもの。それはフェロモンと呼ばれるものだった。有は早熟なオメガだったのだ。    クラスの中でオメガは有だけだった。もともとオメガは全人類の0.5パーセントほどだと言われている。まあまあ大きな小学校だったが、校内を探してみても一人もオメガはいなかった。そうなれば当然、有はクラスの中でかなり浮いた存在となったのだ。  『初めて学ぶ第二性』という特別授業を担任が始めたのは、それからすぐのことだった。明らかに有のための授業だったが、担任の気遣いは逆効果になったように思えた。  だって有はその特別授業のあいだ中、身体を強ばらせてじっと机を見つめていただけだったし、そんな有にクラスのやつらはちらちらとあからさまな視線を向けているだけだったからだ。  こういうときに子供は残酷だ。自分たちと違うものは排除しても許されると思っている。 「藤森ってオメガなんだろ? 発情期って犬みたいになるってほんと?」  その授業から数日たった放課後のこと。学校近くの通学路で、有が同じクラスのやんちゃな男子たちに囲まれている現場に出くわした。  あからさまな侮辱の言葉を投げつけられても、有は肩を強ばらせ、まるで命綱を掴むようにランドセルの肩ベルトを掴んでじっと地面を見つめている。 「ってかさあ、オンナなの? オトコなの? はっきりしろよ」 「ちげえよ、オメガだってば」 「ちんこってどうなってんの?」 「脱いで見せてみろよ」  男子たちは有の肩をつかみ囲い込むと、ズボンをすり下ろそうとしている。有の顔が恐怖と羞恥で歪む。 「や……やだ……やめ――」  か細い小さな声が有の唇から漏れた瞬間、身体が反射的に動き、俺は気が付くと有たちの前に飛び出していた。 「おい! やめろ!」  いきなり現れた俺の姿を見て、クラスの男子が怯んだのがわかった。  そのころから俺は身長も高く、力の強さも成績も周囲よりずば抜けていた。俺はアルファだったのだ。そのためか周囲からは少し浮いていて友達はいなかったが、ここにいる四人が一斉に飛びかかってきても、喧嘩で負ける気はしなかった。  俺がにらみつけると、男子たちはあわてて有から手を離して後ずさった。   「な、何にもしてねえよ」 「おい、もう行こうぜ!」  ばたばたと男子たちが走り去っていき、俺は通学路に突っ立っている有に視線をやった。 「大丈夫か?」  俺が声をかけると有ははっと顔を上げた。正面から目が合い、俺ははっと息をのんだ。  色素の薄い茶色い瞳に透明な膜が張ってきらきらと輝く様は、信じられないほどに美しかった。 『運命の番』  まるで雷に打たれたような衝撃のあと、授業で習ったばかりのその言葉が頭の中に浮かんだ。  ――運命の番。そうか、この子が俺の運命だ……。  呆然と立ち尽くす俺を見て、有もまた、目を見開き言葉を失っているようだった。やがて有がはっと我に返ったように小さな声を出す。 「あ、あの……一ノ瀬くん、だよね? 同じクラスの」  鈴を転がすよう可愛らしい声に、俺の胸は高鳴った。「……あ、ああ」と夢見心地のままで頷いた。 「あの、ありがと……」  有はそう言うと、ぽろぽろと涙を流し始めた。  きっと大人数で囲まれ、怖かったのだろう。    そんな有を見ていられず、俺は気が付くと彼を抱きしめていた。 「え……っ? あの、一ノ瀬くん?」 「もう大丈夫だから」 「う、うん……」  最初は戸惑ったように身を固くしていた有だったが、しばらく無言で抱きしめていると、だんだん身体の力が抜けていき、最後には俺に体重を預けてくれた。  有の身体は小さかった。柔らかくどこもかしこも細く頼りなげで、甘くとろけるようないい匂いがした。  ――俺がこの子を守る。  胸の中に決意が生まれた瞬間だった。  それ以来俺は努力を始めた。勉強も運動も習い事も対人関係も、すこしも手を抜かず全力を尽くした。すべては有のためだった。  いつかは有を守れる男になれるように。  いつかは有のすべてを手に入れることが出来るように。  俺はひとときも有のそばを離れず、すべてを有に捧げた。有もそのすべてを俺に捧げてくれた。 「有、愛してる。高校を卒業したら、番になろう」 「……うん、僕も海斗の番になりたい」    身体の関係はまだだったが、俺たちの心は強く結ばれていた。  ――そのはずだったのだ。  だが有は、高校三年生のある日、外出先で突発的な発情に襲われた。不幸なことにその場に俺はいなかった。そしてもっと不幸なことに、有は発情を抑える抑制剤を持っていなかった。   強力なオメガフェロモンを放った有は、偶然となりにいた見ず知らずのアルファの男に襲われ、うなじを噛まれてしまった。  運命の番であるはずの俺ではなく、ただの通りすがりのアルファの男と番関係が成立してしまったのだ。 「ごめん海斗……ごめんね……」  ようやく面会できたバースセンターの病室で、有は涙をぽろぽろと流して泣いた。 「有……大丈夫だから……愛してるよ……」  俺は有を抱きしめてキスをしようとしたが、唇が触れた瞬間有は身体を折り曲げ苦しそうにえずき吐瀉した。  拒絶反応だった。  他のアルファと番になってしまった有のオメガの本能が、俺を異物として拒否したのだ。 「いやだああああぁ!!!! そんなのいやだああああ!!」  有が錯乱し泣きわめく中、俺は言葉が出なかった。まるで刃物で全身を切りつけられているような凄まじい痛みと絶望に襲われ、身体が動かなかった。  それからバースセンターの職員が駆けつけてきて俺たちは引き離され、次の面会はなかなか実現しなかった。有が体調を崩して、面会できる状態ではないというのだ。  俺はただ待った。  ――俺と有なら乗り越えられる。  そのときの俺は、暢気にもそんなことを考えていた。  だが有はそのあと姿を消したのだ。そして風の便りに、有が首のフェロモン分泌腺の切除手術を行ったという噂を聞いた。  ――そして今。  白いシーツの上、身を投げ出すようにして有が眠っている。俺は有の白く細い首元にかかる髪の毛をそっと払った。  そこには二つの傷跡がある。一つはさっき俺が嚙みついた歯形の跡。  そしてもう一つはオメガフェロモンを分泌する分泌腺の切除手術の跡だ。  オメガのフェロモンは、首のうなじにあるフェロモン分泌腺から放出される。  不幸な事故によって番が成立してしまった場合、その分泌腺の一部を切除すれば番関係を解消することが出来るのだ。  しかしその手術には大きなリスクがある。  まず、あらゆるアルファのフェロモンを認知できなくなる。  ヒートも不安定になる。  そしてアルファと番を結ぶことも難しくなる。  それがオメガの人間の身体に大きな負担を掛け、その結果、記憶障害を起こしたり、性格が大きく変わったりすることがあるのだ。  有の場合もそうだった。  有はこの分泌腺の切除手術によって、番だった見知らぬアルファとの番関係を解消することはできたが、それと引き換えに、大きな記憶障害を抱えることになってしまったのだ。  有は記憶を失った。  俺のこともすべて忘れて、昔自分がどんな人間だったかさえも忘れたのだ。 「――有……」  俺はうなじの二つの傷跡をそっとなぞり、柔らかな頬に触れた。  あどけない顔で眠る有は、高校生の頃の面影を濃く残している。だけど目が覚めているときは別人のようだ。思慮深く物静かな有はこの世のどこにもいない。 「それでもいいんだ……」  小さな声で呟くのは俺の心からの本心だった。    有が目の前から消えた七年間は、地獄そのものだった。  バースセンターから有が姿を消して……失踪してからの一年間を、俺はよく覚えていない。抜け殻のように生きていて、ただ死んでいないという状態だったと今になって振り返れば思う。  俺は有を失って一度死んだ。だけどもう一度蘇った。  有への愛と執着がどうしても消えなかったのだ。    ――有を探して、見つけ出す。そして今度こそ絶対に逃がさない。    それだけが俺の生きる目的になり、希望となった。  いつかは有を守れる男になれるように。  いつかは有のすべてを手に入れることが出来るように。  俺は必死に勉強して弁護士資格を取った。  大学時代に投資で稼いだ金を使って、この高級マンションを買った。もちろん有を受け入れるための準備だ。  そしてついに、雇っていた探偵が有を見つけ出した。俺たちはもう一度出会い直したのだ。  誰が何と言おうと、俺と有は間違いなく正真正銘の運命だ。  確かに俺たちはもう番にはなれないかもしれない。だけどそれがなんだと言うのだろう。  他の男に奪われたくないのなら、この部屋から有を出さなければいいだけの話だ。そしてそれを実行する財力を今の自分は持っている。俺は有を守れる男になったのだ。 「もう離さない……。今度こそ幸せになろうな」  俺は有の薄茶色の前髪を掬って、そっと形のよい額に口づけを落とした。   ◆ ◇ ◆ ◇ 『他の男との番を解消したせいで記憶障害になって姿を消したオメガを、ようやく探し出したアルファが取り戻して、今度は逃げられないように大事に大事にしまっちゃう話』 おわり

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