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第1話
雨の日が嫌いだ。はっきりとした理由はわからないけれど、なんとなく気分が上がらない。そう感じている人間はきっとこの世にごまんといる。成田(なりた)真白(ましろ)もご多分に漏れず、明日は雨だという予報を見ただけで憂鬱になる。
「また雨か……」
カーテンの隙間から窓の外を覗き見て、真白はひっそりとため息をついた。
六月に入るや、気象庁は梅雨入りを宣言した。平年より早いのか遅いのかは知らないが、とにかく憂鬱な季節が今年も始まったようだ。空は予報に従わなくてはならないとでも思っているらしく、梅雨入りから二週間、律儀に毎日雨が降り続けている。
七月が近づくにつれ気温も上昇し、さすがにエアコンなしの生活は無理ゲーになってきた。財布は痛むけれど健康を害しては元も子もない。なるべく早くエアコンの取り付け工事を頼もうと決めた。
布団の中から腕を伸ばし、カーテンを開ける。晴れていれば眩しい光が差し込むはずなのに、見上げた空はこれでもかというほど分厚い雲に覆われていた。
――こりゃ、やみそうにないな……。
むしろ朝方より雨脚が強まってきている気もする。こんな日は部屋でまったり過ごすのが正解なのだけれど、残念ながら真白にはこの日のうちにどうしても済ませておきたい用事があった。
もう少し早く起きればよかったのだけれど、前日の残業の疲れのせいでなかなか目が覚めなかった。布団の中でうだうだしているうちに、気づけば昼近くになっていた。
――気候変動で梅雨とかなくなればいいのに……。
「なんて、文句言ってても仕方ないか」
自分を奮い立たせるように布団を撥ね退けると、真白は手早く身支度を整えた。そのままの勢いで傘を手にし、ところどころ錆びついた鉄製の玄関ドアを開いた。
ふわりと雨の匂いが立ち込めてますます気分が塞ぐけれど、今出かけないと帰りは夜になってしまう。真白はドア以上に錆のひどいアパートの階段をタタタンと早足で駆け下りた。
真白はこの春関東圏の中都市にある高校を卒業し、都内の機械メーカーに就職した。ひと月前に誕生日を迎え、十九歳になったばかりだ。就職を機に育った家を出て、この古びたアパートでひとり暮らしを始めた。不動産会社の担当者から築四十五年と聞かされた時はさすがに少し躊躇したが、高卒の真白の初任給は高くない。背に腹は代えられないと契約を決めた。
最寄り駅から電車に乗り込む。休日ということもあって、普段より家族連れが多い気がする。斜め前で、小さな男の子が父親らしき男性の太ももに縋っている。
「パパ、だっこ~」
「もうちょっとで着くから我慢しなさい」
「え~、ゆうちゃん、ちかれた」
三歳くらいだろうか、舌足らずな口調が愛らしい。自分が腰かけていれば席を譲ってあげられたのにと思っていると、父子の目の前に座っていた高校生くらいの女の子が「どうぞ」と笑顔で立ち上がった。恐縮して辞退しようとする父親をよそに、男の子は「ありがと、ごじゃいますっ」とぺこりと頭を下げ、座席にちんまりと収まってしまった。
なんともほっこりするその様子に、周囲には笑顔が広がる。真白も思わず目を細め口元を緩めた。
――あの子、僕の小さい頃にちょっと似ているかも。
さらりとした黒髪には天使の輪が光っている。黒目がちな大きな瞳と長い睫毛のおかげで、しばしば女の子に間違われた。十九歳になった今も、基本的な顔の造作は変わっていない。華奢でおとなしい真白は高校生になっても友人たちから『成田って、マジで女子より可愛いよな』とからかわれていた。
「何歳?」
「ゆうちゃん、しゃんしゃい、なった」
男の子は一生懸命に指を三本立てようとするが、なかなか上手くいかない。女の子は笑顔でその様子を見下ろしている。記憶はもう曖昧だけれど、自分にもあんなふうに無邪気な笑顔を振りまいていた頃があったに違いない。見ず知らずの「ゆうちゃん」に、真白はいつしか幼い頃の自分の姿を重ねていた。
高校を卒業するまで暮らしていた家は、真白の母親の弟夫妻、つまり真白の叔父夫妻にあたる人たちの家だ。真白の両親は真白が五歳の時、交通事故で他界した。
今日のようなしとしとと雨の降る日のことだった。家族で行楽地を訪れた帰り道、高速道路での多重衝突事故に巻き込まれたのだ。運転席の父と助手席の母は、ほぼ即死状態だったと後に知った。後部座席でチャイルドシートに保護されていた真白は、奇跡的に軽傷を負っただけで助かった。
助かってしまった――などと言ったら、天国の両親はきっと激怒するだろう。けれどこんな雨の日には、そんなネガティブな考えがじめじめと湿度の高い空気のように脳の隙間に滑り込んでくる。
突然両親を亡くした真白を引き取り、高校卒業まで育ててくれた叔父夫妻には、心から感謝している。夫妻には真白よりひとつ年上の息子がいるにもかかわらず、一緒に育てると決意するには相当な覚悟がいったに違いない。
ただ、夫婦の気持ちが必ずしもひとつではなかったことは、幼い真白にもなんとなくわかっていた。姉の遺したひとり息子に、叔父はできる限りの愛を注いでくれた。しかし叔母にとって、血の繋がった我が子と真白を実の兄弟のように育てることは、簡単なことではなかったようだ。
会社員の叔父のいない平日は特に、家の中の温度が数度も下がったように感じられた。おやつのチョコレートの数、夕食のハンバーグの大きさ、お弁当のおかずの種類、真白に与えられるすべてが、従兄のそれとは違っていた。学年が上がるにつれその傾向は顕著になり、文房具や体育着といった学校用品はほぼすべて従兄のおさがりをあてがわれた。
あからさまになっていく叔母による差別を、叔父に話すことはなかった。話せば夫婦の間に無用な諍いが起きるような気がして、話すことができなかったのだ。
――ここは僕の家じゃない。本当の家族じゃないんだ。
だから遠慮するのは当たり前。雨風を凌げる場所があり、飢えないように食事を与えられている。それだけで感謝しなければならないのだ。そう自分に言い聞かせてきた。
真白の進んだ高校は県内でも有数の進学校だった。同じ学年で就職を希望する者は真白の他にはおらず、担任や進路担当の教師からは大学進学を強く勧められたが、最後まで就職希望を貫いた。
『大学には行かず就職することにした』と告げた時、叔母は『あら、そうなの』と事もなげに答え、くるりと背を向けた。その横顔にほんの一瞬浮かんだ安堵の表情を、真白は生涯忘れることはないだろう。
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