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春を告ぐ場所1

 俺は羽田空港発ソウル|金浦《キンポ》空港行きの飛行機に乗っていた。機内は静かで、窓の外には薄く伸びる雲が見える。倒したシートに身を預け、ゆっくりと息を吐いた。  胸の奥がわずかにざわついている。不安と期待と覚悟。それらが絡まり合って、心の中に漂っている。 『韓国でクレープ屋をやる』そう言ったときの両親の顔を思い出す。リビングのテーブルを挟んで正面に座る父と母の姿があった。夕食後の落ち着いた時間だった。 「韓国で?」  湯呑みをテーブルに置いて母さんが言った。その顔には心配の色が見て取れた。それも当然だと思う。既に簿記での採用が決まっていた。後はスーツを買って入社式を待つだけだ。それなのに、いきなり韓国でクレープ屋をやるなんて言い出したんだから。 「向こうでお店を出す人の手伝いをする。公認会計士みたいな仕事もする」 「前に韓国へ行ったけど、そのときに決めたの?」 「その前に決めてた。あのときは下見。韓国がどんなところかわからなかったから」 「ビジネスパートナーは信用できる人なの?」 「大丈夫。向こうの家族にも会ってきてる」  母さんの声は少し落ち着いては来たけど、それでもいきなり海外で仕事をするという息子が心配なのは仕方ないだろう。 「危なくないの? 言葉だってわからないでしょう」 「危なくはないよ。言葉は今勉強してる。向こうに行ってからも勉強は続ける」  しばらくの沈黙のあと、父さんが静かに口を開いた。 「自分で決めたんだな?」 「うん」 「後悔しないか? 仮にも就職内定もしているんだぞ」 「後悔しない。行かない方が後悔する」  少しも迷わずに言えた自分に、内心びっくりしていた。でも、そうなんだ。行かない方が後悔する。そのときそう思ったんだ。韓国へ下見に行ったことで真剣に考えていたんだろう。俺がきっぱりと言いきったことで父さんはしばらく俺の顔をじっと見たあと、静かに頷いた。 「なら行って来い」  父さんの隣で母さんが、ハッと顔をあげる。 「お父さん……」 「心配なのはわかる。でも、やりたいことがあって、行きたい場所がある。流されて仕事をするよりずっといい。ただな、明日海。行く以上は責任は自分にある。途中で放り投げるなら、行くのはやめろ。パートナーに失礼だ」  父さんは真剣な目で俺を見て言った。 「うん。わかった」 「……寂しいだけよ」  父さんの隣で母さんが言った。その声は少し震えていたけれど、俺は気づかないふりをした。 「親ってそういうものだから」  父さんは母さんの肩にそっと手を置く。母さんは俯いていて黙りこんだ。父さんは黙って俺を見ていた。そして俺は父さんと母さんを黙って見ていた。リビングは静寂に包まれた。そしてその静寂を破ったのは母さんだった。 「……ちゃんと笑えていればいいわ」  母さんのその一言に俺は胸が熱くなった。そして、深く頷いた。 「うん、約束する」  その言葉は今も胸の奥に残っている。 ――ちゃんと食べて、ちゃんと笑う。  簡単なようだけど、実際に韓国へ行ったら最初は大変だろう。店を1から始めるなんて、そんなに簡単なことじゃない。そう思うから。だけど、イジュンの隣なら大丈夫。そう思う自分もいる。    機体が静かに揺れ、アナウンスが流れる。まもなく金浦空港に到着するというアナウンスだ。そのアナウンスに俺は深呼吸をする。とうとう、着く。胸の高鳴りが少しずつ早くなる。数ヶ月前、同じように金浦空港に降り立ったときのことを思い出した。浅草で出会って、好きになったその人に会いに、そして店の下見に訪れた。その場所に今度は長期滞在として今度は来た。そう言えば、と俺は思い出す。あのとき、到着ロビーで見覚えのある姿を見つけた瞬間、胸が締めつけられたんだった。イジュンは1人じゃなかったから。隣いた綺麗な女性、ソヨンさんがいたから。自然に寄り添い、当たり前のように笑い合っていた2人に、恋人なんだ。そう思い込んで、声をかけることができず、ただ立ち尽くした。そして韓国へ来たことに後悔し、1人でタクシーに乗り、ホテルへと行った。あのときの胸の痛みは今もはっきり覚えている。結局それは誤解だったとわかるんだけど。  着陸の衝撃とともに、現実へと意識が戻る。機内のざわめき、荷物を取り出す音。韓国語の混ざる空気。帰ってきた。そう思った。  到着ゲートを抜けると、人混みの中に黒いコートに身を包んだ見慣れた後ろ姿を見つけた。名前を呼ぼうとした瞬間に、イジュンは俺に気づき、一瞬目を見開き、次の瞬間にはぱっと顔が明るくなった。 「明日海!」  イジュンは駆け寄ってきて、人目も憚らず、強く抱きしめてきた。イジュンの体温と匂いに、長旅の疲れなんて消えて行く。 「……ただいま」  抱きしめられたままそう言うと、イジュンは俺を離して小さく笑った。 「ほんとに来てくれた」 「来るって言っただろ」 「でも、明日海の顔を見るまで不安だった」 「ばーか」  この街で新しい生活が始まる。それは夢なんかじゃない。母さんと約束したよに、ちゃんと食べて、ちゃんと笑おう。そして、ちゃんと恋をしよう。それが俺の選んだ道なんだから。

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