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「一条 さん、今日はご足労いただいてありがとうございました」
チーフデザイナーの加 納 の言葉に、一条響 はノートパソコンの電源を落として首を振った。
「いえ、僕も直接お話したかったので。画面越しだと、色味の確認も難しいですしね」
響は笑顔で答えながら、パソコンを鞄にしまい席を立つ。「一階 まで送ります」と言う加納と一緒に部屋を出た。
廊下を進み、オブジェのように優美な螺 旋 階段を降りる。業界でも注目を集める気鋭のデザイン会社だけあって、事務所の設えもセンスがいい。
「あ、一条さん。少しそこで止まってもらえますか」
ちょうど踊り場に差し掛かったところで、加納に声をかけられた。言われた通り足を止めると、彼は一歩引いて、踊り場に置かれた観葉植物と響を見比べるように目を細める。
「その『カラー』、植物と合わせるのもアリですね。……色鮮やかな植物の方が映えるかな」
一枚の絵か、もしくは宣材資料を眺めるように加納が言う。その視線が、響の艶やかな栗色の髪から、同色の瞳、高い鼻筋をなぞり、最終的に首元へ注がれるのを感じた。
響は彼の言葉の意味を理解し、自身のシャツの襟元に指を入れる。首に巻かれた『カラー』──チョーカー型の装具が加納によく見えるように。
「一条さんくらい目鼻立ちが整ってると、どんな素材も絵になりますね。うちのビジュアルチームも楽しそうにやってますよ」
「光栄です」
加納の賛辞に軽く笑い、再び二人で階段を降りる。襟元を整えると、カラーの柔らかな生地が指に触れた。このカラーと呼ばれる装具は、『オメガ』専用のアクセサリーだ。
数十年前、人類はベータ・アルファ・オメガという、『バース性』と呼ばれる三つの性質を持つようになった。
人口の大半を占め、特別な変化を持たないベータ、高い身体能力と頭脳を兼ね備えた希少種アルファ、そして、アルファと同じく希少種のオメガ。
オメガには発情期、通称ヒートと呼ばれる現象が周期的に起こる。ヒート期間は本人の意思に関係なく、性的欲求が異常に高まる。外出もままならず、日常生活に支障をきたすほどなので、仕事も勉強も何もできなくなる。発情すること以外は何も。
この身体的特徴により、ほとんどのオメガは社会的地位が低く、劣等種とみなされる。
響は国が義務付けている十二歳のバース検査で、アルファという結果だった。響自身、その検査結果は妥当なものだと思った。代々続くアルファの家系に生まれ、両親も兄弟も漏れなくアルファ。学業もスポーツも、最高評価を得るのに苦労したことはない。
けれど、称賛と羨望に溢 れた人生は、十四歳で突然終わりを迎えた。体調の悪い日が続き、病院で検査を受けたらバース性が変わっていた。
後天性オメガ。希少種の中でもさらに希少なケース。その当時の記憶は曖昧だ。ただひたすらに混乱して、絶望した。
一時は引きこもり、社会と断絶していた時期もあった。それでもなんとか折り合いをつけ、今は友人と共にマーケティング会社を経営している。
響の首にあるカラーも、事業案件の一つだ。大手EC企業が主催するコンペティション、『ニューカラーTokyo』用の試作品。加納のデザイン事務所と共同で、現在このコンペに向けてカラーの製作を進めている。
「コンペの一次審査の結果、もうすぐ出ますよね」
加納が階段を下りながら、響に尋ねる。
「ええ。連絡が来るのは、来月頭くらいかな。そこからはプロモーションの嵐ですね」
コンペはすでに一次審査が終了し、今はその結果待ちだ。一次を通過できるのが五社、さらに最終審査で選ばれた上位二社のカラーが商品化される。
加納のデザインセンスは申し分ないし、カラーのコンセプトや性能、マーケティング戦略においても他社より秀でている自信がある。響は一次通過はもちろん、自社のカラーが商品化されることを微 塵 も疑っていない。
階段を降りきり一階のエントランスに出ると、受付のあたりが騒がしかった。
「申し訳ありません。お約束のないお客様はお通しできません」
「だからぁ、何回も言ってますよね。アポを取る気のない相手に、どうやってその約束を取り付ければいいんです?」
声の方へ目をやると、スーツ姿の男が大きな声と手ぶりで、フロントスタッフに詰め寄っている。
響の隣で加納がため息をついた。
「以前、一緒に仕事をした家具メーカーの方です。うちとは合わない企業さんなので、もう依頼は受けないようにしてるんですけどね。なかなかわかってもらえなくて」
加納のうんざりとした口調から、男が招かれざる客だということを察する。
「あ! 加納さん」
スーツの男が加納に気づき、駆け寄って来た。
「ノンアポで突然すみません。新規案件の依頼をお願いしたく、お邪魔いたしました」
加納は冷めた目で男を見る。
「山 崎 さん、今後は仕事をご一緒することはないと、前回のプロジェクト終了時にお伝えしましたよね?」
「ええ……前回はいろいろと不手際があり、申し訳ありませんでした。でもあの時は、こちらも複数の案件が重なっていまして……」
顔を引きつらせ、謝罪と言い訳をする山崎に加納は首を振った。
「あなた方の誠意のないやり方は、僕たちの信頼を失いました。再び一緒に仕事をするつもりはありません。……彼をお送りしなくてはいけないので、失礼します」
山崎に一瞥 を送りながら、加納が響を促す。苦々しい表情の山崎と目が合った。
「……信頼ですか。ああ、だからオメガ相手にはお仕事を? バース性に囚われない会社だって、イメージアップになりますもんね」
響の首にあるカラーに目を留め、山崎が蔑むような笑みを浮かべる。
こういう目を、響は何度も見てきた。「バース性の差別は許されない。人権は皆平等」と、子供の頃から繰り返し教えられる。けれど教室の中では、教師がそういった建前を並べる裏で、同級生たちがコソコソと囁 き合っていた。
──発情してベッドから出られないってどんだけだよ。
──理性なくなるなんて、そんなのもう動物じゃん。
──マジで良かった。オメガじゃなくて。
あの頃と何も変わらない。人権が平等な社会なんて、教科書にしか存在しないということを、響は嫌というほど知っている。
加納が顔をしかめ、山崎へ一歩踏み出すのを響は片手で制止した。
「加納さんの事務所は、今さらイメージアップする必要なんてないと思いますよ」
響は山崎に向かって薄く笑う。
「デザインのセンスも技術も一流です。それに、仕事相手を選ぶ目も、確かなようですし」
暗に、山崎の依頼を断り、響と仕事をしているのは正しい判断なのだと告げてやる。まさか響に言い返されるとは思っていなかったらしい山崎は、取り繕えないほど顔を悔しげに歪 めた。
「……っ、せいぜい、オメガの会社と信頼関係でも築いていてくださいよ。失礼します」
山崎は唇をかみしめ、不満をあらわに事務所の扉を力強く閉め出て行った。
「一条さん、申し訳ありません。不快な思いをさせてしまって」
頭を下げる加納に、響は慌てて手を振る。
「加納さんが謝る必要ないですよ。こちらこそ、余計な口出ししちゃってすみません。……でも、彼の社名は聞いておこうかな。そこの家具を買わないように」
冗談めかして笑うと、加納の表情も和らぐ。
「一条さん、重ね重ねすみません。まだタクシーがつかまらないんです。この辺りで何かイベントやってるみたいで」
ことの成り行きを見守っていたらしいフロントスタッフが、申し訳なさそうに響に告げた。
「お手数おかけしました。それじゃ、地下鉄で帰ります」
「……地下鉄ですか?」
スタッフに笑顔で答える響に、加納が眉を寄せる。
「大丈夫ですよ。二駅くらいだし」
「いや、でも……」
加納の困ったような表情の理由はよくわかる。安心させるため、「すぐにうちの高岡 にも連絡取れるようにしてありますから」と響のビジネスパートナー兼、友人の名前を口にした。
「それに今日は、最高レベルの安全性とデザインを誇るカラーをしているので」
少し顎を逸らし、得意げに自分の首元を指さす。加納は心配している様子を残しながらも、「なにかあれば連絡ください」と見送ってくれた。
デザイン事務所を後にして大通りに出ると、褐色の落葉がそこら中に散っていた。十一月の風には、もう冬の気配が混じる。響はビジネスバッグから取り出したマスクと伊達 眼鏡をかけ、最寄り駅へ向かった。
金曜の十八時、帰宅ラッシュを迎え始めた地下鉄の駅は混んでいた。独特の生ぬるい空気を感じながら、人の流れに沿うように地下通路を歩く。
階段を降りホームを進んでいると、最初におかしな騒がしさに気づいた。
通常の人混みから生まれる雑踏音とは違う、不穏さと緊張感を含んだざわめき。そして次の瞬間、響は空気中に漂う匂いを感じ取った。胸の奥から不快感が湧いてくる、よく知った匂い。
──オメガのヒートフェロモン……?
それからすぐ、あちこちから大声が飛び、人の流れが乱れ始める。
「オメガのヒートだ!」
「アルファは抑制剤打って!」
瞬く間にホームは混乱の渦に巻き込まれた。人々の叫び合う声で、やはりヒートを起こしたオメガがいるのだと知る。
オメガのヒートフェロモンは、アルファに強く影響する。ヒートに当てられたアルファは発情し、最悪の場合、錯乱状態 に陥る。理性を失ったアルファはオメガを襲い、無理やり身体を繋 げようとしてしまう。
ヒート時のオメガとアルファのセックスでは、女性だけでなく男性でも妊娠に至る可能性があり、そういったトラブルを防ぐために、二つのバース性にはフェロモンをコントロールする『抑制剤』の携帯が義務付けられている。
「ヒート起こしてるの、一人じゃないぞ!」
──集団ヒート? 嘘 だろ?
響は込み上げる吐き気を堪え、バッグの中を漁った。手探りで薬の入ったケースを掴む。フェロモンの匂いと混乱の広がりに比例し、響の体調もどんどんと悪くなっていく。
通常、オメガのフェロモンに反応するのはアルファだけで、オメガ同士ではフェロモンの影響を受けないとされている。けれど響は、オメガのフェロモンに対して、激しい不快感や吐き気、眩暈 といった症状が表れる。後天性オメガの特性によるものなのか、元アルファの響だけが例外なのかはわからない。後天性オメガに関するデータは未だ少なく、その実態は不明な部分が多い。
震える指で、ケースから錠剤シートを取り出した。オメガフェロモンによる不調を軽減する対応薬だ。
薬をシートから押し出そうとしたところで、走ってきた人にぶつかり、ケースごと薬を取り落としてしまう。慌ててケースを追った視線の先に、この騒ぎの原因の一人であろうオメガがいた。
フェロモンを撒 き散らし、目の焦点は合っていない。唇の端からは、呻 き声と細かな白い泡が溢れていた。
──あれは、ヒートなのか?
異様な姿にそんな疑問が浮かぶ。けれど、さらに酷い嘔 吐 感が込み上げてきて、思考はすぐに散ってしまった。
膝が折れ、蹲 りそうになる。かけていた伊達眼鏡が床に落ち、逃げ惑う人たちによって蹴って踏まれて、あっという間にただの砕けたプラスチックとガラスになった。
こんな所で膝を着いたら、あの眼鏡と同じ末路を辿 ることになる。わかっているけれど、息苦しさに視界がぼやけた。
なんとかカラーのうなじ部分に手を伸ばし、生体認証パネルに指紋を読み込ませる。ピ、ピ、ピ。電子音が三回。これで高岡に緊急連絡が届くはずだ。
最後の力が抜けたみたいに、足元がふらついた。人の波に身体が沈む。
けれど、恐れていた衝撃はやってこなかった。誰かの手が響の腕を掴んでいる。強い力で身体を引き上げられた。
「掴まって」
誰かはそう言うと、軽々と響を横抱きにした。デカい。男。助かった。断片的な情報が頭の中に浮かぶ。
男は緊急停止したエスカレーターの、上下線を隔てる中央の仕切り部分に飛び乗ると、響を抱えたまま安定した足取りで進んでいく。
──ブルース・ウィリスとか、ジェイソン・ステイサムのアクション映画で、こんなシーンありそうだな……。
どこか夢心地のような気分で、響はそんなことを考える。
男からは、なんだかとてもいい香りがした。乱れた呼吸も鼓動も落ち着いて、安心する。驚くくらいに、心の底から。
無事地上に辿り着く頃には、響の本能を支配していた不快感はすっきりとなくなっていた。
地下から逃げ出してきた人々や野次馬、警察や救急隊が入り乱れる混乱を離れ、歩道のベンチに降ろされた。
響がほっと息を吐くと、男は着ていたアウターの大きなポケットから擦り切れたスニーカーを取り出し、こともなげに履き始めた。
そこで初めて、響は男が裸足だったことに気づく。エスカレーターの仕切りを駆け上がるために、咄 嗟 に靴を脱いでくれたのだろう。
「……あの、ありがとうございました。本当に、助かりました」
マスクを外し礼を言う響を、男は無言で見下ろしている。
この時期にしては寒そうな、靴と同じく擦り切れた薄手のアウターに、ぼさぼさの黒髪。身なりには無頓着なようだが、体格は良かった。百七十八センチある響より十センチは高いだろう長身、広い肩幅と長い手足。長い前髪で目はよく見えないものの、そこからのぞく鼻筋はスッとしているし、顎のラインも綺麗──と、響が多くを観察する間も、男は何も喋 らない。
「……え、と……何かお礼を──」
「……バルドル」
男が唐突に、何語なのかもよくわからない言葉を発した。
──バルドル?
聞き覚えのない単語に首を傾げると、男は響の足元に片膝を立て跪 いた。
そして大きな手で、響の両手を握る。触れられたところから、じんわりと熱が伝わる。
見ず知らずの他人に、突然しっかりと手を握られているのに、振りほどくことができない。
それは男の力が強いからだけでなく、自分が彼の手を不快に感じていないからだ──と気づいて、響は困惑する。
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