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英司が「似合うから選び甲斐 がある」と喜んで見立てたジョルジオアルマーニのスーツは、壱弥の骨格に綺麗に馴染 んでいた。上質な生地が、歩くたびに広い肩から引き締まった腰にかけてのラインを滑り、鍛えられた身体のシルエットを嫌味なく際立たせる。
車内に流れていたジャミロクワイのメロディーをご機嫌に口ずさむその姿は、数週間前、ぼさっとした格好で地下鉄を裸足で駆けていた男と同一人物だとは思えない。
素晴らしい変貌ぶりに改めて感心しながら、響は壱弥と共にエレベーターに乗り込んだ。
「壱弥、約束覚えてる?」
二人だけのエレベーター内で壱弥を見上げ問う。
「……うん。仕事の時は、響に抱きついちゃいけない」
壱弥はそう答えたくせに、次の瞬間には響の腰を引き寄せた。
「こら」
「エレベーターが止まるまで。仕事中は、我慢する」
さっきまでの、まるで海外セレブ然とした雰囲気なんて跡形もない男に、仕方ないなと息を吐く。
「響、疲れてる? 居眠りするの、珍しかったから」
壱弥の手が伸びてきて、頬を撫 でられた。ふわりとジャスミンが香る。響が壱弥にプレゼントしたハンドクリームの匂いだ。
「大丈夫だよ。ドライバーが優秀で、運転が快適すぎただけ」
優秀だと言われ、壱弥が嬉しそうに笑う。その屈託のない笑顔に、響も自然と口元が緩む。
目的の階に到着すると、頬を撫でていた壱弥の指は響の耳を掠 め、名残惜しそうにしながらも離れていった。
壱弥の温度が消えると、自分のまわりの空気が、一、二度冷えたように思える。そんな自分には、気づかないふりをする。
「……よし。行こう」
顔を上げ、背筋を伸ばしてエレベーターを出た。
響たちが訪れているこの『バイオセキュアテック』は、生体認証技術と位置情報機能を研究・開発している会社だ。コンペ用カラーのセキュリティ部分の開発を依頼しており、今日はその改良点についての打ち合わせだったのだが。曇りガラスで仕切られたミーティングルームに通され数十分、出されたコーヒーはすっかりぬるくなっていた。
「……それにしても、あの地下鉄に一条さんもいらしてたなんて。本当に大変でしたね」
ソファの向かい、小森 という管理職の男がハンカチを額に当てる。今日、この話題を彼に振られるのは二回目だ。響はにこりと笑い、ぬるいコーヒーを飲んだ。
「宮下 さん、どうされたんでしょうね」
響がさも心配そうに担当者の名前を口にすると、小森の口元がひきつる。
「先ほど、もう少しで到着すると連絡がありましたので……お待たせして申し訳ありません」
十五分前も、今と同じ台詞を聞いた。予定時刻を大幅に過ぎているにもかかわらず、担当者である宮下悠 人 はまだ姿を見せていない。宮下は前回の打ち合わせも遅刻したし、前々回は資料に不備が目立った。それでも彼が担当を外れることはないはずだ。社内の人事評価にも影響は及んでいないだろう。なぜなら、宮下はこの会社の社長令息だから。
毎回のように打ち合わせに十分な準備をしていない宮下に対して、響はもちろん腹立たしさを感じているけれど、バイオセキュアテックの技術力は認めている。小森と同様、響は苛立ちを抱えながら、ただ宮下の到着を待つしかなかった。
女性社員が部屋に入って来て、響と壱弥のコーヒーをカップごと新しいものに変えてくれる。
壱弥のことは、響のボディーガード兼、業務アシスタントだと説明してある手前、ただ座らせておくのもおかしいので、彼にも一応今回の資料を渡してある。
『位置情報精度向上のための多重センサー導入に関する提案。ジャイロセンサーの効果と導入コストの検討』と書かれた数十枚の資料を、壱弥は一見、静かに読み込んでいるように見える。響は横目で伺いながら、用紙が逆さまになっていないか心配になる。
「響、……さん」
壱弥が響を呼び、そのすぐ後、やべ、という顔で少し笑った。
響の仕事に同行するにあたり、壱弥にはいくつかの約束事を伝えている。
一、人前でのスキンシップは禁止
二、響を呼ぶときは「社長」または「一条さん」
三、喋るときは敬語
四、お腹が空いても我慢
「……灰藤、どうした?」
二つ目の約束に違反した壱弥は、「さん」をとっさに付けてレッドカードは回避したけれど、響のコーヒーソーサーに乗った砂糖を指さす。
「響さんのも、貰ってもいいですか?」
また響さんって呼んでるし、社長の砂糖をねだってるし。イエローカードも三枚でレッドだぞ。
響は思いながらも、壱弥のソーサーにスティックシュガーを置いてやった。
打ち合わせの開始予定時間から、あと三分で三十分が経過するという頃。部屋の扉が開き、ようやく宮下が入ってきた。
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試し読みはここまでになります。
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