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第15章 『綻び』
『――彼は迷っているのかもしれない』
帰り際のキスの感触が、生々しく残っていた。
眞陽の行動は、京極にとって思いがけないものが多く、『屈んでキス』は全身の血液が蒸発するほど昂ぶらせた。思い出すだけで頬が緩む。心は落ち着かず、鼓動がうるさくなる。
京極は、自分の人生で、この年になってキラキラと輝く日が来るとは思っていなかった。恋愛に奥手すぎる自覚はあったし、傷つくことが嫌で避けてきた。だが、恋とは思うようにはいかないもので、今の京極は眞陽への想いを止められなかった。むしろ、積極的になっている。そんな自分が恥ずかしく、そして幸せだった。
眞陽の働く姿が好きだった。誰にでも愛想よく接し、その雰囲気に自然と周りも和らぐ。京極は、そんな眞陽が醸し出す空気が好きだった。
二人きりの時の、背伸びした態度が可愛らしく、それでいて男らしさもある。年下なのに、寄りかかりたくなる存在だった。
好きで、好きで、愛しくて――
だが――
今夜は、どこかいつもと違う感覚があった。近づくと遠ざかる。だが、思い直したように懐に入ってくる。そんな眞陽に、違和感を覚えていた。
『なんだろう――このチクチクする痛みは』
恋に疎くて奥手だからといって、鈍感なわけではない。眞陽に近づくたびに感じる、わずかな『ズレ』が京極の心を刺してくる。何がそう感じさせるのか、どうして引っかかるのかは分からない。だが、見えない壁が、少しずつ厚くなっているのは肌で感じていた。
眞陽に触れていても、いつもの温もりは感じられず、どこか冷たい手が京極の心をさらに刺してくる。
だが、何でも深く考えすぎて自滅してしまう京極にとって、それはいつもの『考えすぎ』だと片付けたかった。
出会いから今日まで、かなりドラマのような展開だったと思う。ある日突然、自分好みの男が現れ、自分に好意を持ってくれて――
一線は越えていない眞陽と京極ではあったが、それに近い存在であることは間違いなかった。それを心から信じきれない自分に、京極は言いようのない感情を抱いた。愛したことは本当なのに、『もしかしたら……』が邪魔をする。
自宅に着き、母親を起こさないようにそっと自分の部屋へ入ると、PCの入ったカバンをベッドに放り投げた。デスクに腰を掛け、少し痛む頭を覆うように両手を当て、目を閉じる。
眞陽を愛している。
眞陽に愛されたい。
不安が黒い塊のように自分を覆い尽くしていく気がして、怖くなった。とっさに目を開け、部屋の照明を少し明るくする。
その時、ふと、何かに似ていると京極は思い出した。
『この感覚は、好きでもない男に抱かれたあとの、虚無感だ』
とても嫌な感覚。欲に負けた自分を嘲るかのような、あの感覚。
それに似ていて、京極は怖くなった。どうしてこんな気持ちになってしまうのかが、怖かった。
だから京極は慌ててスマホを取り出し、眞陽へメッセージを送った。
『ただいま、眞陽君。今シャワーを浴びて、落ち着いたところだよ。眞陽君は、今何してる?』
シャワーなんて浴びていない。落ち着いてもいない。それでも京極は、眞陽からの優しい言葉が欲しくて、嘘をついた。
だが――いくら待っても返事は来ない。既読はついているのに。
京極はじっとスマホの画面を見つめたまま、やがて視界が歪み、ぼやけていく。不安が、ゆっくりと悲しみに変わっていく。
『何がダメだったの?』
『僕は君に何かした?』
『ちょっと強引だった? でも、眞陽君だって……』
そんな感情が頭の中をぐるぐると回り、京極はその場にうずくまった。止まらない悲しみが、涙に変わっていく。
「年下にちょっと遊ばれたくらいで、こんなに落ち込んで……」
そう呟くと、視線の先にある壁を見つめた。何も飾られていない、白い壁紙。ぼんやりとそれを見つめていると、ぐちゃぐちゃだった思考が整いそうになって――
けれど結局、またすぐに崩れていく。
そうだ。眞陽の立場になってみればいいんだ、と京極は無理やり思考を動かした。
何となく遊べそうなやつを見つけて、うまく取り入って、ちょっとその気にさせて――
「でもさ……」と、京極はつぶやいた。
だったら、どうしてキスしたの?
何故あの時、朝まで僕を抱きしめて寝てくれたの?
どうして僕を自宅マンションに入れてくれたんだよ……
眞陽君の、バカ……
再び涙が溢れてきた京極は、明日は仕事が休みだからと、その涙を止めることはしなかった。
◇◆◇◆
次の月曜――
京極は初めて仕事をサボった。
朝はいつもと同じ時間に起き、母親と朝食を取り、身支度も済ませた。だが、どうしても部屋から出る事ができなかった。
秘書の花輪に、『今日は午後から出社する』とだけメッセージを送る。午後も行くのかどうか……
今日は月曜の定例会議だったが、今日ぐらい自分がいなくてもなんとかなる――そう思い、ネクタイを緩め、上着を脱いでベッドに横になった。
京極は、あの夜から今までスマホを閉じたままだった。眞陽の既読スルーに、ひどく傷ついていた。その後、誰かからの通知のヴァイブレーションはあったが、スマホには触れなかった。糠喜びが嫌で、そのままにしていた。たとえ眞陽からのメッセージだったとしても、見るのが怖かった。
恋愛なんて、しなければよかった――そんな考えが頭をよぎる。だが、眞陽との出会いは、京極にとって簡単に切り捨てられるものではなかった。考えないようにすればするほど、眞陽の表情、触れた温もり、キスの感触が蘇ってくる。
『俺がアンタに、本気で惚れるわけ無いだろ』
そんな心無い一言を、眞陽が嘲笑いながら言った――
飛び起きた京極は、一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。だが冷静になれば、自室で、横になった拍子に眠ってしまい、悪い夢を見たのだと気づく。
夢見が悪すぎる――そう、ため息が漏れた。
腕時計を見ると、11時過ぎ。すっかり眠ってしまったと気づき、思わずスマホを手に取る。日頃から染みついた癖だった。
画面には、秘書の花輪から一件、そして眞陽から一件のメッセージが届いていた。
咄嗟に動きが止まる。身動きが取れない。
京極は、画面から目を離せなかった。
やがて、京極は気になる方からメッセージを開いた。
『おはよう。今日はコーヒー飲みに来ないの? 朝のいつものオーダーもなかったし、月曜だから忙しいのかな?』
しばらく、そのメッセージを見つめる京極。
自分が送ったメッセージへの返事ではない。それが良かったのかどうかも、判断がつかなかった。
いつも通りの眞陽ではある。だが、文字だけでは何も分からない。あの夜のことも、自分のメッセージも、なかったことにされているようにも感じた。
京極は苦しかった。悲しかった。
もう、気のせいでは済まされなかった。
これまでも、眞陽の言動に違和感を覚えなかったわけではない。だが、気のせいだと思いたかった。性格の違いだと思いたかった。年の差がそう感じさせているだけだと、自分に言い聞かせてきた。
だが――
京極は悲しみに包まれたまま、
『今すぐ君に会いたい』
とだけ、メッセージを送った。
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