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第1話
その異変に気づいたのは、出社してから一時間後のことだった。
「ん?」
堀は給湯室でマグカップにコーヒーを注ぎながら、なんとなく胸元を押さえた。
「……なんか、張ってる?」
違和感は、痛みというより圧迫感に近い。寝不足か、ストレスか。そう結論づけて流そうとした、その瞬間。
じわ、と。
「……は?」
服の内側が、明らかに湿った。
慌ててトイレの個室に駆け込み、シャツのボタンを外す。シャツの内側に、じんわりと滲んだ跡がある。次いで、元凶と思しき突起に視線をやる。
「え、ちょ、なにこれ」
指で軽く押してみる。
じわ、と、また滲む。
「……は???」
理解が追いつかないまま、堀は数秒固まる。
とりあえず、誰かに言うべきか。いや誰にだよ。こんなこと。
数秒悩んだ末、頭に浮かんだ顔はひとつだった。
―――
「……エイプリルフール?」
昼休み、社内のトイレの個室。狭い空間で便器に腰掛けた武田が、眉一つ動かさずに言った。
「ガチなんだって。あと全然四月一日違うし」
学生時代から変わらない整った顔に、無駄に冷静な目つき。白衣が似合いそうなタイプのイケメンだ。
そんな武田を前にして、堀は言う。けれど武田は顔の前でぶんぶんと手を振った。
「いやでも、お前それはさすがに」
「ほら」
信じられないという武田に、堀はジャケットを脱いでシャツの前を少しだけ開いて見せた。薄ピンク色をした先端にじわ、と滲む、乳白色のそれ。
武田の視線が一瞬止まる。
「……」
「ほらな?」
「……もう一回」
武田は堀の胸に視線を釘付けにしたまま言う。ちょっと真顔なのが怖い。いつもと違う顔の武田に、堀は自分から見せたものの妙に焦る。
「なんでだよ」
「確認だよ。医学的に重要な」
「絶対違うだろ」
とはいえ、さっきの一瞬で武田の目の色が変わったのは分かった。武田は顎に手を当て、まじまじと堀の胸を見る。
「ホルモン異常の可能性があるな。下垂体とか、プロラクチンの過剰分泌とか」
「急にそれっぽいこと言うじゃん」
「でも確定診断には検体の確認が必要だな」
「言い方」
「見せろ」
「嫌だよ」
「先に見せてきたのはそっちだろ」
「……ぐぅ……」
ぐうの音も出ない。
「データが必要だ」
「なんの」
「飲み比べる」
「だからなんのだよ!」
「……本当に母乳なのかどうかだ」
「この状況でまだ疑うのかよ」
「男は普通母乳出ねぇだろ」
「……確かに」
一理ある。納得しかけて、いやいやいや流されないぞ、と堀は慌てて正気になった。そして慌ててシャツを閉める。
武田は今しがた閉めたばかりの堀のシャツをひん剥かんと、ぐいぐいと押してくる。堀はシャツの前をガードする。やいのやいのと押し問答を繰り返した末に、ぎりぎりで武田が諦める。
堀はため息をついた。
「……どちらにせよ、ここじゃ無理だろ」
「じゃあどうする」
どうすると言われて、堀は言葉に詰まる。
「……えっと、家来る?」
言ってから、少しだけ間が空いた。誰かを自分の部屋に入れるのは、初めてかもしれないと気付く。
「行く」
武田の返事は、やけに即答だった。
トイレを出たあとの二人の行動は早かった。
「すみません、早退いいですか」
頭のうっすら禿げかかった上司に、武田がそう声を掛ける。上司は野暮ったい黒縁眼鏡をくいっと押し上げ、「あー」と声に出す。
「理由は?」
「腹痛です」
「俺もです」
「……武田も?」
「はい。堀の腹痛が移りました」
「は?」
上司が二度見する。堀も武田の顔を見た。
「接触感染です」
「なにに触れたの?」
「いろいろです」
「いろいろってなに」
「医学的に説明すると長くなるので」
「説明して」
「今は時間が」
「あるでしょ」
「ないです」
「いや、あるでしょ」
上司は疑わしげな目を向ける。けれどそれ以上の追求はなかった。
「……とりあえず二人とも病院行け」
「行きます」
「行ってきまーす」
武田のノリが軽い。
廊下に出た瞬間、武田と堀は顔を見合わせた。
「通ったな」
「通すなよあれ」
腹痛が移るとかいう意味わかんないこと言ってたくせに、自分で言ってたら世話ねぇよ、と堀は思ったが言わなかった。
会社から出た瞬間、武田はスキップして車道まで行く。ヒッチハイクみたいにグッと親指を立てて、タクシーを呼び止めている。
「なんでその止め方……」
無駄にスタイリッシュだった。
それで停まるタクシーもどうかと思った。
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