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第95話
左右の踵が揃えられていない靴。ノエルはどんなに疲れていようが酔っていようがそれを綺麗に揃える。
ベッドのシーツをくちゃくちゃにして丸まった男は、ノエルが帰ってきたと分かるとばっと飛び起きた。ドタドタと寝室からやって来て、こちらの顔を見るとホッとしたように「おかえり」と言う。
「…ただいま。寝てたのか」
「いや、ベッドに転がっていただけだ」
「…そうか」
何を話せばいい?ノエルは話題を探したが上手く話せない。とにかく酔いの回った体を休めるため座り慣れていないソファーに身を投げ出した。
ウィルソンはそっと端に座ると、じっとノエルの瞳を覗き込む。
「随分酔っているみたいだが大丈夫か?」
「課長の作る酒が濃すぎてな…。疲れもあって酔ったみたいだ」
「アイツに合わせて飲んでたら体が持たないぞ。昔から水を飲むように酒を飲んでいたから」
ウィルソンから話題を振られ、いつも通り話が出来ている事にノエルは良かったと顔が緩む。
「お前と課長は…友人と言っていたか」
「ああ、趣味の合う良い友人だ。新作の映画の批評会を開いたり、新人作家の添削を勝手に―」
(…向こうはお前の事をただの友人だと思っているとは限らないのに)と楽しそうに話をしてくれるウィルソンに対して心の中で口を尖らせた。
「―それでよく二人して出禁に…って悪い。私ばかり話してしまったな」
「いや構わない。」
「…お前の友人の話も聞かせてくれ」
ノエルは過去の記憶を掘り起こす。一番記憶に新しいのは大学の友人達だ。無口なノエルに良くしてくれた善人達。無意識の差別を除けば、彼らとの時間は楽しかったように思う。
「話すほどの事は無い」
「…家族は?ほら、…あのお前と背格好が似た弟だ」
「…話したくない」
ノエルにとって彼らの話をするという事は辛い過去やら何やらを引っ張り出して苦しまなければならないという事だ。そうなれば気分が沈んで…そこからは長い。それにウィルソンがイアンの事を知り、興味を持つこと自体許せない。
「…そうか」
やはりそれは美しい。完璧な左右対称の顔、赤い唇。性別を超越した別の何か。女でも男でもない、羽の生えた天使。または悪魔か。
『言い訳しているように見える』
その初老の男は笑顔で痛いところを突いてくる。
(俺のどこが言い訳がましいって言うんだ)
「私の背中のことなんだが…」
「気にしていない。無理に話す必要はない。」
「…そうだな」
ノエルはそう会話を中断させる。話すならばもっと楽しい事が良い。例えば彼の好きなものの事や他愛もない会話…だが眠気で言葉が出てこない。
「…少し…眠る」
瞼が半分、そして更に半分閉じるその時。
長いまつ毛がどんどん近く見える。触れるほど近く。
ノエルの唇に与えられた愛情のようなもの。
「……ウィルソン?」
男は何を思ったのか、ノエルの唇にそっと口付けを落とした。柔くて温かい遠慮がちな口付けは、ぼんやりしていたノエルの意識を現実に引き戻す。
「…あー…悪い」
離れていく体に、ノエルはビリビリと血液が沸騰していくのが分かった。隣の男は何も言わず、自分の行動に戸惑ったように俯いている。
「…お前からなんて珍しいな。」
いつもは適当な言い訳を付けてノエルから男に口付けをしていた。ウィルソンも"安心を得るため"ノエルが行動するように誘導することはあったが、何もなしに自主的、というのは初めてのことだ。
「どうした?」
「いや、つい」
「…つい、とはなんだ…」
キュッと上げられた口角は無理やり引っ張っている。
「寝るなら寝室で寝ろ。風邪をひくといけない」と男はノエルの手をグイッと引っ張って寝室まで連れて行った。ドンと体を押され、彼は
「おやすみ。…また明日な」
と扉を閉めた。
並べられた二つのベッドがあるだけの部屋に一人。
「…お前はどこで寝るつもりだ…」
奥のベッドはシーツがくしゃくしゃになっている。彼はきっとそこで仮眠を取っていたのだ。ノエルは綺麗なベッドには目もくれず、ウィルソンが使ったベッドに横になる。
(しまった、明日の事を伝え忘れた。まあどうせ俺の方が早く起きるから……)
抱きしめられている、そして抱きしめている。ウィルソンの匂いにノエルはそんな感覚を覚える。顔を埋め、重くなった瞼に従い全身を預けた。
(…あいつの匂いがする)
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