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プロローグ

終電を逃した編集部は、昼間とは別の場所みたいに静かだった。 複合機のランプだけが青く点いていて、会議室のガラスには、薄く俺の顔が映っている。疲れてる顔だなと思った。思っただけで、笑えもしなかった。 今日だけで何本、原稿を直しただろう。 何度赤字を見て、何度言葉を引き剥がして、何度、自分には向いていないのかもしれないと飲み込んだか分からない。 それでも残っているのは、仕事が終わっていないからだ。 そういうことに、しておきたかった。 「赤坂」 低い声が背中に落ちる。 振り返らなくても分かる。東堂だ。 会議室のドアは半分だけ開いていて、その隙間から漏れる光が廊下に細く伸びていた。そこに立っている影は細長くて、妙に静かで、逃げ道みたいに見えない。 「まだ帰ってなかったんですか」 言いながら、自分でも変なことを言ったと思った。 編集長が残っていること自体は珍しくない。むしろいつものことだ。なのに、そういう言葉しか出てこなかった。 東堂は気にした様子もなく、「入れ」とだけ言った。 命令口調だった。 いつも通りだ。今日に限ったことじゃない。 なのに、足が動くまでの一瞬が、やけに長い。 会議室の中は、紙とコーヒーの匂いがした。机の上にはゲラと赤字の原稿が散らばっていて、いかにも仕事の続きみたいな顔をしている。 それなのに、空気だけが少し違った。 東堂はネクタイを緩めたまま、窓際に寄りかかっていた。スーツの肩に、白い蛍光灯の光が冷たく乗っている。昼間の会議では一度も見せない顔だった。 「企画書、見た」 「……どうでした」 「甘い」 即答だった。 腹が立つ。驚くほど、いつも通りだ。 「ですよね」 「拗ねるな」 「拗ねてません」 「顔に出てる」 そう言って、東堂は机の上の原稿を指先で軽く叩いた。 近づけと言われている気がした。実際、言われていないのに、そう分かってしまうのが嫌だった。 俺は数歩だけ机に近づいた。 東堂は原稿を開きながら、隣に立て、とも座れ、とも言わない。ただ赤の入った一文を指して、「ここ」と言う。それだけで、そこに視線を落とさせる。 昼間と同じだ。 違うのは、誰も見ていないことだけ。 「お前、言葉を整えすぎる」 「整えないと伝わらないでしょう」 「整えてるうちに熱が死ぬ」 原稿から視線を外すと、東堂がすぐそばにいた。 近い、と思った時にはもう遅い。 逃げろと体のどこかが言うくせに、足は動かない。 東堂は俺の顔を見て、それから静かに息を吐いた。 「顔、強張ってる」 「……誰のせいですか」 「さあな」 ずるい返し方だった。 昼間なら、もっと平気な顔で言い返せたはずなのに、今日は喉が乾いてうまくいかない。原稿を挟んでいれば保てた距離が、今は紙一枚ぶんしかない。 机の上の赤字がやけに鮮やかに見えた。 直された言葉は全部、俺の甘さを暴くみたいだ。 編集部に来た初日から、この人はそうだった。 分かったような顔で見透かして、できていないところだけを容赦なく抉る。そのくせ、本当に駄目なら最初から切ればいいのに、そうしない。 見捨てない代わりに、逃がしもしない。 「赤坂」 名前を呼ばれる。 たったそれだけのことなのに、心臓のあたりがひどく浅くなる。 東堂は原稿から手を離して、今度は俺をまっすぐ見た。 「明日の打ち合わせ、同席しろ」 「はい」 「返事が遅い」 「……考えてただけです」 「何を」 言えるわけがない。 仕事の話だけしていれば済む関係のはずなのに、どうしてこんなふうに息が詰まるのかなんて。 東堂の視線が、一度だけ俺の口元をかすめた気がした。 気のせいかもしれない。 気のせいであってほしいのに、そう思った時点で負けている気がした。 会議室の窓に、並んだ影が映る。 上司と部下。 それだけのはずだ。 それだけで済んでいない気がするのは、たぶん俺だけじゃない。 黙ったままの俺に、東堂が低く言う。 「帰るなら帰れ」 突き放すみたいな言い方だった。 だったら最初から呼ばなければいいのに、と思う。 呼んでおいて、残るかどうかだけを俺に委ねる。そのやり方が、いちばんたちが悪い。 帰れる。 帰ってしまえばいい。 明日また何食わぬ顔で出社して、上司と部下に戻ればいい。 それなのに、俺はまだそこに立っていた。 東堂が、ほんのわずかに眉を動かす。 苛立ったようにも、困ったようにも見えた。 それが、余計に苦しい。 喉の奥が熱くなる。 言わなくていいことだと分かっていた。分かっていたのに、口をついて出た。 「……終業後も、命令ですか」 一瞬、空気が止まる。 東堂はすぐには答えなかった。 黙ったまま、俺を見る。 その沈黙が長い。 責めているわけでも、笑っているわけでもない。ただ、どこまで踏み込めるのか測るみたいな目だった。 やがて東堂は視線を外し、ひどく静かな声で言った。 「そう思うなら、断れよ」 正しい答えだった。 正しすぎて、息が詰まる。 断れる。 断ってもいい。 でも、そのためにはこの場から先に離れなきゃいけない。 離れたいのかと自分に問うて、答えに詰まった。 東堂がもう一度、原稿に目を落とす。 それで会話は終わったはずだった。 なのに俺は、帰るとも残るとも言えないまま、指先だけを強く握る。 仕事だから、で済ませるには遅すぎる。 仕事じゃないと認めるには、まだ何も始まっていない。 その曖昧な境界に立たされたまま、俺は動けない。 複合機の作動音が、遠くで小さく鳴った。 東堂がページをめくる音がする。 静かな夜だった。 静かなのに、ひどくうるさかった。 この先、たぶん何かが変わる。 そんな予感だけが、刃みたいに薄く光っていた。

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