1 / 2
プロローグ
終電を逃した編集部は、昼間とは別の場所みたいに静かだった。
複合機のランプだけが青く点いていて、会議室のガラスには、薄く俺の顔が映っている。疲れてる顔だなと思った。思っただけで、笑えもしなかった。
今日だけで何本、原稿を直しただろう。
何度赤字を見て、何度言葉を引き剥がして、何度、自分には向いていないのかもしれないと飲み込んだか分からない。
それでも残っているのは、仕事が終わっていないからだ。
そういうことに、しておきたかった。
「赤坂」
低い声が背中に落ちる。
振り返らなくても分かる。東堂だ。
会議室のドアは半分だけ開いていて、その隙間から漏れる光が廊下に細く伸びていた。そこに立っている影は細長くて、妙に静かで、逃げ道みたいに見えない。
「まだ帰ってなかったんですか」
言いながら、自分でも変なことを言ったと思った。
編集長が残っていること自体は珍しくない。むしろいつものことだ。なのに、そういう言葉しか出てこなかった。
東堂は気にした様子もなく、「入れ」とだけ言った。
命令口調だった。
いつも通りだ。今日に限ったことじゃない。
なのに、足が動くまでの一瞬が、やけに長い。
会議室の中は、紙とコーヒーの匂いがした。机の上にはゲラと赤字の原稿が散らばっていて、いかにも仕事の続きみたいな顔をしている。
それなのに、空気だけが少し違った。
東堂はネクタイを緩めたまま、窓際に寄りかかっていた。スーツの肩に、白い蛍光灯の光が冷たく乗っている。昼間の会議では一度も見せない顔だった。
「企画書、見た」
「……どうでした」
「甘い」
即答だった。
腹が立つ。驚くほど、いつも通りだ。
「ですよね」
「拗ねるな」
「拗ねてません」
「顔に出てる」
そう言って、東堂は机の上の原稿を指先で軽く叩いた。
近づけと言われている気がした。実際、言われていないのに、そう分かってしまうのが嫌だった。
俺は数歩だけ机に近づいた。
東堂は原稿を開きながら、隣に立て、とも座れ、とも言わない。ただ赤の入った一文を指して、「ここ」と言う。それだけで、そこに視線を落とさせる。
昼間と同じだ。
違うのは、誰も見ていないことだけ。
「お前、言葉を整えすぎる」
「整えないと伝わらないでしょう」
「整えてるうちに熱が死ぬ」
原稿から視線を外すと、東堂がすぐそばにいた。
近い、と思った時にはもう遅い。
逃げろと体のどこかが言うくせに、足は動かない。
東堂は俺の顔を見て、それから静かに息を吐いた。
「顔、強張ってる」
「……誰のせいですか」
「さあな」
ずるい返し方だった。
昼間なら、もっと平気な顔で言い返せたはずなのに、今日は喉が乾いてうまくいかない。原稿を挟んでいれば保てた距離が、今は紙一枚ぶんしかない。
机の上の赤字がやけに鮮やかに見えた。
直された言葉は全部、俺の甘さを暴くみたいだ。
編集部に来た初日から、この人はそうだった。
分かったような顔で見透かして、できていないところだけを容赦なく抉る。そのくせ、本当に駄目なら最初から切ればいいのに、そうしない。
見捨てない代わりに、逃がしもしない。
「赤坂」
名前を呼ばれる。
たったそれだけのことなのに、心臓のあたりがひどく浅くなる。
東堂は原稿から手を離して、今度は俺をまっすぐ見た。
「明日の打ち合わせ、同席しろ」
「はい」
「返事が遅い」
「……考えてただけです」
「何を」
言えるわけがない。
仕事の話だけしていれば済む関係のはずなのに、どうしてこんなふうに息が詰まるのかなんて。
東堂の視線が、一度だけ俺の口元をかすめた気がした。
気のせいかもしれない。
気のせいであってほしいのに、そう思った時点で負けている気がした。
会議室の窓に、並んだ影が映る。
上司と部下。
それだけのはずだ。
それだけで済んでいない気がするのは、たぶん俺だけじゃない。
黙ったままの俺に、東堂が低く言う。
「帰るなら帰れ」
突き放すみたいな言い方だった。
だったら最初から呼ばなければいいのに、と思う。
呼んでおいて、残るかどうかだけを俺に委ねる。そのやり方が、いちばんたちが悪い。
帰れる。
帰ってしまえばいい。
明日また何食わぬ顔で出社して、上司と部下に戻ればいい。
それなのに、俺はまだそこに立っていた。
東堂が、ほんのわずかに眉を動かす。
苛立ったようにも、困ったようにも見えた。
それが、余計に苦しい。
喉の奥が熱くなる。
言わなくていいことだと分かっていた。分かっていたのに、口をついて出た。
「……終業後も、命令ですか」
一瞬、空気が止まる。
東堂はすぐには答えなかった。
黙ったまま、俺を見る。
その沈黙が長い。
責めているわけでも、笑っているわけでもない。ただ、どこまで踏み込めるのか測るみたいな目だった。
やがて東堂は視線を外し、ひどく静かな声で言った。
「そう思うなら、断れよ」
正しい答えだった。
正しすぎて、息が詰まる。
断れる。
断ってもいい。
でも、そのためにはこの場から先に離れなきゃいけない。
離れたいのかと自分に問うて、答えに詰まった。
東堂がもう一度、原稿に目を落とす。
それで会話は終わったはずだった。
なのに俺は、帰るとも残るとも言えないまま、指先だけを強く握る。
仕事だから、で済ませるには遅すぎる。
仕事じゃないと認めるには、まだ何も始まっていない。
その曖昧な境界に立たされたまま、俺は動けない。
複合機の作動音が、遠くで小さく鳴った。
東堂がページをめくる音がする。
静かな夜だった。
静かなのに、ひどくうるさかった。
この先、たぶん何かが変わる。
そんな予感だけが、刃みたいに薄く光っていた。
ともだちにシェアしよう!

