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第一章 熱が読めない

編集部の空気は、経理部とは匂いからして違った。 紙とインクと、冷めたコーヒー。 それに、誰かが言い残した言葉が、まだ机の上に転がっているみたいなざらつきがある。 朝なのに、もう少しで夜が始まりそうな顔をした人間ばかりが動いていた。 俺だけが、場違いだった。 異動初日のくせに、歓迎ムードなんてものはない。 そもそもそんな余裕のある部署じゃないのだろう。誰もがパソコンを睨み、スマホで誰かに頭を下げ、原稿の束を抱えて早足で横を抜けていく。 数字なら、まだ分かる。 締切も、経費も、売上も、出してしまえば形になる。 でもここにあるものは、形になる前の熱だった。 企画書。 ラフ。 プロット。 修正前の原稿。 どれも完成していないくせに、妙に生々しい。 「赤坂くんだよね?」 声をかけてきたのは、教育係だと紹介された先輩編集だった。 柔らかい笑い方をする人で、少しだけ救われた気がした。 「はい。赤坂稔です」 「ごめんね、今日ちょっとバタついてて。ひとまず会議見てもらえる? 空気だけでも」 空気。 それを仕事の単位みたいに言うのが、もうこの部署っぽかった。 案内された会議室は、まだ朝なのに熱がこもっていた。 壁際に積まれたゲラ、ホワイトボードに残った赤い文字、テーブルに置きっぱなしのペットボトル。どれも忙しさを片づける暇すらなかったことをそのまま晒している。 末席に座って、企画書のコピーを開く。 新連載の立ち上げ会議だった。 資料には綺麗な言葉が並んでいた。市場分析、読者層、競合との差別化、話題性。数字と理屈で固められた、隙のない文章。 少しだけ安心した。 これなら分かる、と思った。 「で、その企画で読者は何を持って帰るの」 低い声が、資料の上に落ちた。 一瞬で、空気が変わる。 会議室の温度がほんの少し下がった気がした。 さっきまで喋っていた人が口を閉じる。誰かが息を引っ込める。そんな小さな音まで聞こえた。 視線の先にいた男は、思っていたより若かった。 若い、というより、老けない顔立ちだった。整っているのに冷たく見えるのは、目に余分な感情が乗っていないせいかもしれない。 スーツの色まで無駄がない。 ネクタイも、腕時計も、ペンの置き方すら、ちゃんと整っているのに、その整い方に神経質さはなくて、ただ当然みたいにそこにあった。 東堂蛍。 異動前に名前だけは聞いていた。 売れっ子編集長。担当作が強い。作家としても売れている。性格は最悪。人を泣かせる。褒めるより先に斬る。 噂のだいたいは誇張だと思っていたけど、その一言だけで、半分くらいは本当なんだろうと思った。 企画を出した編集が言葉に詰まる。 「それは……その、感情の揺れというか」 「ふわっとしてるね」 東堂は資料に目を落としたまま言った。 怒鳴らない。 声も荒げない。 なのに、逃げ場がなくなる。 「面白そう、で読ませるなら別にいい。でもこれ、整えただけで何も燃えてない」 整えただけ。 その言葉が、やけに耳に残った。 会議はそのまま進んだ。 進んだ、というより、東堂が全部剥がして、残るものと捨てるものを選び直していった。 売れそう、では弱い。 綺麗、では残らない。 正しい、では人は追いかけない。 それを、ひとつひとつ言葉にしていく。 理屈は分かるのに、同時に分からなかった。 たぶん俺は、今まで文章を数字みたいに見ていたんだと思う。 会議が終わった時には、手のひらが少し汗ばんでいた。 「赤坂くん」 先輩編集に呼ばれて、はっとする。 「これ、東堂さんの次の打ち合わせ資料。会議室に置き忘れてるから持っていってくれる?」 断る理由もない。 俺は資料の束を受け取って、廊下の奥にある別の会議室へ向かった。 ドアは少しだけ開いていた。 ノックすると、低い声が返る。 「どうぞ」 中に入る。 東堂は一人だった。さっきまで何人もいた空間に、今はパソコンと紙の音しかない。 「失礼します。資料、こちらに」 机の端に置こうとした時、東堂が手を止めた。 「君、新人だよね」 いきなり向けられた視線に、背筋が伸びる。 「はい。今日、異動してきました」 「元は?」 「経理です」 「へえ」 それだけ言って、東堂は俺が持っていた企画書を指で叩いた。 「さっきの会議、どう思った」 試されてる、と思った。 でも黙るのも違う気がして、正直に答える。 「資料は分かりやすかったです」 「うん」 「でも……会議が始まった瞬間に、急に違う話になった感じがして」 「違う話?」 「数字とか理屈じゃなくて、もっと曖昧なものを見てるというか。何を基準に切ってるのか、俺にはまだ掴めません」 東堂は数秒、黙った。 やばい、何かズレたかもしれない。 そう思った時、彼は少しだけ口元を動かした。笑ったわけじゃない。たぶん、評価を決めた顔だった。 「君」 その呼びかけ方が妙に冷たく響く。 「数字は読めても、熱は読めないよね」 言葉が、真っ直ぐ入ってきた。 痛い、と思う前に、腹が立った。 初対面でそこまで言うか。 しかも外れていないのが最悪だった。 「……勉強します」 刺々しい声になったのは、自分でも分かった。 東堂は気にした様子もない。 「勉強でどうにかなる部分と、ならない部分がある」 「じゃあ、向いてないってことですか」 言い返すつもりなんてなかった。 でも、口が先に動いた。 少しだけ空気が止まる。 東堂は椅子に浅く背を預けたまま、俺を見上げた。 目だけが静かに鋭い。 「それを決めるのは、まだ早い」 意外な返しだった。 切り捨てられると思ったのに、そうじゃない。 「ただ、今のままじゃ使えない」 さっきの意外をすぐ回収するみたいに、きっちり刺してくる。 むかつく。 でも、逃げたいとは思わなかった。 むしろ、今ので終わられたら困る気がした。 東堂は机の上の原稿の束を整え、それを俺の前に置いた。 「読んで」 「……今ですか」 「今じゃなきゃ意味ない」 原稿用紙の端に、びっしり赤字が入っている。 修正というより格闘の跡だった。 「感想はいらない。どこで止まったか、どこで動いたかだけ言って」 「止まったか、動いたか」 「そう。好き嫌いじゃなくて、体がどう反応したか」 無茶を言う。 けど、東堂は本気だった。 本気で、俺にそこを読ませようとしている。 紙の束を受け取る。 思ったより重い。 「明日まで」 「明日」 「逃げるなよ」 その言い方が、命令みたいで腹立たしかった。 でも、嫌悪だけじゃないものが、胸の奥で小さく鳴った。 期待、ではない。 興味とも違う。 もっと、たちの悪い何か。 「逃げませんよ」 睨むみたいに返すと、東堂は初めて、ほんの少しだけ目を細めた。 それが笑ったのかどうか、最後まで分からなかった。 会議室を出る。 ドアが閉まる直前、腕の中の原稿がずしりと重さを増した気がした。 廊下の向こうでは誰かが走っていて、電話のベルが鳴っていて、編集部は相変わらず忙しない。 なのに、さっきまでとは少し違って見えた。 ここには、数字にできないものがある。 たぶん今、俺が抱えているこの原稿もそうだ。 うまく読める気はしない。 向いているかどうかも、まだ分からない。 あの男の言い方は最悪だし、二度と思い出したくないくらい腹が立つ。 それでも。 手放す気には、ならなかった。 その時点で、たぶんもう遅かった。

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