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第二章 再教育

東堂に渡された原稿は、思っていたより読みにくかった。 文章が下手なわけじゃない。むしろ、整っている。展開も分かりやすいし、会話も多い。ページをめくる手は止まらないはずだった。 でも、止まった。 一度だけじゃない。何度も。 面白くない、ではなくて、ふっと意識が原稿の外へ滑る。時計を見たり、机の上のペンを転がしたり、飲みかけの水に手を伸ばしたりして、そのたびに、自分がどこで離れたのか分からなくなる。 東堂の言っていたことを思い出す。 感想はいらない。 どこで止まったか、どこで動いたかだけ言え。 無茶だと思った。 今でも思っている。 それでも、読み返す。 止まった場所に付箋を貼る。 動いたところに線を引く。 自分でも曖昧な感覚を、無理やり形にする。 朝になった頃には、原稿の端が小さな色で埋まっていた。 寝不足のまま出社すると、編集部はもう走っていた。 誰かが締切を叫び、誰かが電話口で謝っていて、複合機の音だけが妙に機嫌よく響く。俺だけが少し遅れているみたいで、席についた瞬間、目の奥がじわりと重くなった。 その時だった。 「赤坂」 呼ばれて顔を上げる。 東堂が、廊下の向こうからこっちを見ていた。 手招きもしない。 呼びつける声でもない。 でも、行かない選択肢がそこになかった。 会議室に入ると、東堂は机の上の紙を軽く払って言った。 「持ってきた」 疑問形ですらなかった。 俺は黙って、昨日の原稿を差し出す。付箋だらけの束を見て、東堂の目がほんの少しだけ細くなる。 「へえ」 それだけだった。 褒めるでも、呆れるでもない。 「座って」 向かいに腰を下ろす。 東堂は原稿を開き、最初の付箋をめくった。 「ここで止まった理由は」 いきなり来る。 「……説明が長いです。場面は動いてるのに、感情の整理をしすぎてる」 「じゃあここは」 「動きました」 「なんで」 「会話が急に雑になったからです」 「雑?」 「悪い意味じゃなくて。整ってない。けど、そこでやっと人間が喋った感じがした」 東堂の指が止まる。 目だけが上がる。 「続けて」 その一言で、喉の奥が少し熱くなる。 俺はページをめくりながら、止まったところと動いたところを順に言葉にした。途中で自分でも何を言ってるのか分からなくなりそうな瞬間が何度かあった。それでも、東堂は遮らなかった。 最後まで聞いて、それから赤字の入ったペン先で紙を軽く叩く。 「やっと入り口に立ったな」 言い方は相変わらず感じが悪い。 「それ、褒めてます?」 「調子に乗るな」 即答だった。 腹が立つ。 でも、昨日の一方的な切り捨てよりは、ずっとましだった。 東堂は別の原稿を二冊、机の上に置く。 「今日中」 「……またですか」 「嫌か」 嫌に決まってる。 嫌だけど、ここで頷いたら何か負ける気がした。 「やります」 「そう」 東堂はそれ以上言わなかった。 ただ、その二冊の上に視線を落としたまま続ける。 「お前、整えるのはうまい」 昨日も似たようなことを言われた気がする。 嫌な予感しかしない。 「でも、整えることで逃げてる」 黙る。 図星だった。 「正しい言葉にすると、責任がぼやける。誰も傷つかないし、誰にも残らない」 東堂が言うと、普通の説教みたいに聞こえないのが腹立たしい。 俺は視線を外して、窓の外を見る。昼間のビル街が白く光っていて、面白くもなんともない景色なのに、なぜか少しだけ助かった。 「……別に、逃げてるわけじゃ」 言い返しかけたところで、東堂が遮る。 「じゃあ、怖いんだろ」 空気が、ぴたりと止まる。 何を言われたのか、一瞬分からなかった。 「熱を読めないんじゃない。読んだ時に、自分が揺れるのが嫌なんだ」 正面から言われると、逃げ場がない。 違う、と否定したかった。 でも、違わないことを俺自身が知っていた。 数字は裏切らない。 合わせれば答えが出る。 誤差はあっても、理由がある。 でも、人の感情は違う。 読み切れないし、読めたと思った瞬間に変わる。そんなものを仕事にするなんて、正直、今でも無茶だと思っている。 「図星か」 「……うるさいです」 東堂が笑った気がした。 本当にわずかだった。見間違いみたいな揺れだったけど、たぶん、そうだった。 その日の仕事は、最悪だった。 電話を取っても噛む。 作家へのメールの文面は固いと言われる。 打ち合わせメモをまとめれば、事実しか書いてないと返される。 昼を過ぎても、夕方を越えても、東堂の赤は減らない。 「そこ、違う」 「はい」 「温度が抜けてる」 「……はい」 「人に言われたことをそのまま整えて返すな。お前がどう受け取ったかを通せ」 「通したら、間違ってた時困るでしょう」 「間違えろ」 その一言が、予想外に強く落ちてきた。 俺は顔を上げる。 東堂は自分のデスクで、こちらも見ずに原稿へ赤を入れている。 「間違えないやつは、何も掴めない」 静かな声だった。 怒鳴られたわけじゃない。 でも、その言葉だけが夜まで残った。 気づけば、編集部の照明は半分落ちていた。 終電を気にする声が遠くで聞こえ、何人かの席が空になっている。 俺の前には、修正し直したメール案と、読み終わらない原稿がまだ残っていた。 「赤坂」 また呼ばれる。 今度は東堂のデスクだった。 近づくと、彼は自分のマグカップを持ち上げて、中身が空なことを確認するみたいに揺らした。 「コーヒー」 「自分で行ってください」 「教育係にその言い方する?」 「教育っていうなら、せめてもう少し優しくしてください」 言ってから、しまったと思った。 でも東堂は怒らなかった。 怒る代わりに、じっと俺を見る。 「優しくしたら、お前、すぐ甘えるだろ」 否定できなくて黙る。 「ほら、図星」 またそれだ。 悔しい。 悔しいのに、言い返す言葉が見つからない。 東堂は椅子にもたれたまま、少しだけ目を細めた。 「辞めたいなら辞めれば」 昼間より、低い声だった。 いつでも同じ言葉を使うくせに、夜になると少しだけ響きが違う。冷たいはずなのに、突き放しきれていない音になる。 俺はその顔を見たまま、息を吐いた。 辞めない。 辞めたくない、ではなくて、辞めるのが癪だった。 この人に向いてないと決めつけられたまま逃げるのは、もっと嫌だった。 「辞めません」 東堂が何も言わない。 ただ、机の端を指先で一度叩いて、それから視線を原稿へ戻した。 「じゃあ、持ってこい」 「何をですか」 「お前が読んだ熱」 むちゃくちゃな注文だった。 でも、昨日より少しだけ、その意味が分かる気がした。 俺は東堂の空のマグカップを引ったくるみたいに取って、給湯室へ向かう。 背中に視線を感じる。 振り返る気にはならなかった。 コーヒーの匂いが立つ。 紙とインクと、冷めた夜気の混ざる編集部で、その苦い匂いだけが妙に鮮明だった。 たぶん、再教育ってこういうことなんだと思った。 正しさを覚えるんじゃない。 逃げ方を、ひとつずつ潰される。 それを嫌だと思いながら、まだここにいる。 カップに熱い黒が満ちていくのを見ながら、俺は小さく息を吐いた。 明日もたぶん、同じように削られる。 それでも。 足は、もう引いていなかった。

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