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第三章 庇護

情報が漏れたらしい、という話が最初に耳に入ったのは、昼休憩を少し過ぎた頃だった。 誰が言い出したのか分からない。 ただ、編集部の空気が一段だけ浅くなったのを、先に皮膚が察した。 電話の音が増える。 立ち上がる人間が増える。 キーボードを叩く指が、いつもより少しだけ速い。 そういう小さな変化が、じわじわとフロア全体を曇らせていく。 「赤坂、例の企画の進行表、今出せる?」 隣のデスクから声をかけられて、俺は反射的に「はい」と返した。 例の企画、というのは、先月から動いていた大型の新連載だ。 編集部の期待値も高いし、宣伝部もかなり先まで動いている。まだ正式発表前なのに、社内では何度も資料が回っていた。 嫌な予感がした。 パソコンを開いて共有データを確認する。 進行表はある。企画資料もある。宣伝スケジュールもある。 その中の、まだ外には出ていないはずの内容が、SNSに断片的に流れていた。 タイトル候補。 作家名のイニシャル。 設定の一部。 伏せられている部分もあるけれど、分かる人が見れば分かる程度には具体的だった。 背中が冷える。 「……なんで」 思わず漏れた声は、自分でも情けないくらい小さかった。 周りではすでに何人かが動き出していた。 宣伝部に確認を取る人。 投稿の出どころを洗う人。 作家側に先回りして連絡を入れる人。 俺はただ画面を見たまま、指先だけが冷たくなっていくのを感じていた。 やっていない。 そんなのは当たり前だ。 でも、やっていないと言い切ることと、疑われないことは別だと、すぐに分かった。 「赤坂くん」 先輩編集の声が、いつもより硬い。 「このデータ、最近触った?」 「……触りました」 喉が乾いていた。 正直に答えるしかない。 「整理が甘かったので、フォルダ構成を少し直してて」 「勝手に?」 「確認は……まだ」 言い終わる前に、自分でまずいと分かる。 経理では、データの見やすさと整頓は正義だった。 でもここでは、余計な手を入れたこと自体がリスクになる。 先輩編集は責める顔をしなかった。 しなかったけど、それが逆にきつい。 「一回、会議室来て」 それだけだった。 会議室のドアを閉めた瞬間、外のざわめきが少し遠くなる。 その静けさの中に置かれると、逆に逃げ道がなくなった気がした。 テーブルの向こう側に、部長と先輩編集、それから東堂がいた。 東堂は何も言わない。 いつもみたいに原稿を見ているわけでもなく、ただ前に置かれた資料へ視線を落としている。 その沈黙が、ひどく怖かった。 「赤坂くん」 部長が、やけに丁寧な声で言う。 「君、共有フォルダの構成を触ったんだよね」 「はい」 「権限の見直しは?」 「……そこまでは」 「つまり、閲覧範囲が一時的に曖昧になった可能性がある」 責めている口調ではなかった。 確認だ。事実の整理だ。 でも、その事実の先に誰が立たされるのかは、痛いほど分かる。 「漏らしたのは君じゃないとしても」 その続きが来る前に、背筋が勝手に強張る。 言い訳を探す。 探すのに、何も見つからない。 俺は漏らしていない。 けど、俺が触ったせいで、可能性を作ったと言われたら、完全には否定できない。 その時だった。 「違う」 低い声が、会議室の空気を切った。 東堂だった。 初めて顔を上げる。 目が合う前に、東堂は部長の方へ視線を向けたまま言う。 「管理責任は俺にある」 一瞬、何を言われたのか分からなかった。 部長が眉を寄せる。 「東堂くん、でも実際に触ったのは」 「触らせたのは俺です」 即答だった。 嘘だと思った。 少なくとも、全部は。 東堂は俺にフォルダ整理を指示していない。 原稿は読ませた。企画も見せた。だけど、データを勝手にいじったのは俺だ。 なのに東堂は、間を置かずに続ける。 「教育が甘かった。監督不行き届きです。外すなら俺を外してください」 部長が黙る。 先輩編集も何も言わない。 会議室の蛍光灯だけが白くて、机の木目だけがやけにくっきり見えた。 助けられている。 その事実が、すぐには実感にならなかった。 ただ、胃の奥が冷えたまま動かない。 「……東堂くん」 部長が息を吐く。 「そこまで言うなら、今回の火消しは君がやって。赤坂くんはしばらく表から外す。異論は?」 あるわけがない。 俺に、ない。 東堂にも、たぶんない。 会議がそれで終わった。 というより、終わらされた。 部長と先輩編集が先に出ていく。 ドアが閉まって、会議室に俺と東堂だけが残った。 何を言えばいいのか分からない。 謝るべきだと思う。 でも、何に対して謝るのか、うまく形にならなかった。 黙っている俺を見ずに、東堂が資料を閉じる。 「お前」 声はいつも通り低い。 怒っているようにも、呆れているようにも聞こえない。 「……はい」 「勝手に動くな」 その一言で、喉の奥が詰まる。 助けた直後に言う言葉が、それか、と思った。 思ったのに、反発する余裕がない。 「しばらく、俺の許可なく企画に触るな。作家にも、宣伝にも、お前からは連絡するな」 仕事の指示だ。 その形をしている。 でも、どこかそれだけじゃない響きがあった。 囲われる、という言葉が頭をよぎる。 守るより先に、それが浮かんだ自分に、少しだけ嫌気がした。 「……なんで、庇ったんですか」 やっとそれだけ言えた。 東堂は資料の角を揃える手を止めないまま答える。 「庇ってない」 「いや」 「使えなくなると困るだけだ」 ひどい言い方だった。 ああ、この人はこういう時までそうなんだと思う。 少しだけ安心して、同時に腹が立つ。 「それ、答えになってませんよ」 「お前が納得する必要あるか?」 言い返せない。 会議室の窓に、俺たちの影が薄く映っている。 上司と部下。 教育係と新人。 それ以上でも以下でもないはずの形が、今はひどく不安定に見えた。 東堂がようやく立ち上がる。 俺の横を通り過ぎかけて、ほんの少しだけ足を止めた。 「赤坂」 名前を呼ばれる。 その声音は、さっき会議で責任を被った時よりも静かだった。 「今回の件、気にするなとは言わない」 背中越しに落ちてくる声が、思ったより近い。 「でも、勝手に自己判断するな。そういうのが一番面倒くさい」 面倒くさい。 その言葉に、少しだけ息が戻る。 優しくされるより、その雑さの方がまだ耐えられた。 「……はい」 返事をすると、東堂はそれ以上何も言わずに出ていった。 一人になった会議室で、やっと肩の力が抜ける。 助かった、とはまだ思えなかった。 むしろ、別の形で捕まった気さえした。 俺はやっていない。 でも、疑われるだけの隙は作った。 そこを東堂に拾われた。 拾われた、という言い方が正しいのかも分からない。 会議室を出ると、編集部はもう別の速度で動いていた。 さっきまでのざわめきは火消しの熱に変わっていて、誰も俺を見ていないようで、たぶん少しは見ている。 自席に戻ると、必要最低限の資料だけがまとめて置かれていた。 誰が置いたのか分からない。たぶん東堂だ。 上から付箋が一枚、貼られている。 『触るな。読むだけにしろ』 短い字。 笑えるくらい感じが悪い。 なのに、その付箋を剥がせなかった。 触るな。 読むだけにしろ。 命令だ。 たぶん、完全に。 それなのに、嫌悪だけでは終わらない。 守られたんだと認めるには、あまりにもやり方が乱暴で、優しくなさすぎる。 でも、突き放されなかった事実だけが、机の上に残っている。 夜まで、俺はほとんど口を利かなかった。 企画から外され、表の連絡も止められ、やることは一気に減ったはずなのに、呼吸だけが忙しい。 画面を見ていても、文字が頭に入らない。 気づけば、フロアの人影が減っていた。 外はすっかり暗い。 編集部の照明が、紙の白さばかりを浮かび上がらせる。 その中で、東堂だけがまだ残っていた。 少し離れたデスクで、何事もなかったみたいに原稿へ赤を入れている。 昼間、あんなふうに責任を被った人間の背中には見えない。 完璧に見える。 でも、完璧な人間が、あんな言い方で助けるだろうか。 考えるだけ無駄だと思うのに、目が離れない。 その時、東堂が顔も上げずに言った。 「まだいたのか」 「……東堂さんも」 「俺は仕事だ」 その返しに、少しだけむっとする。 「俺だって仕事です」 「今のお前にあるのは反省だろ」 最悪だ。 でも、否定できない。 言い返せずに黙っていると、東堂がようやくこちらを見た。 「明日、朝一で来い」 「何時ですか」 「七時半」 「早すぎません?」 「再教育中なんだから当然だろ」 あまりにも当たり前みたいに言われて、腹が立つより先に、笑いそうになった。 こんな状況で、まだそれを続けるのか。 俺の顔に出たのか、東堂が少しだけ目を細める。 「何だ」 「……いや」 何でもない、とは言えなかった。 何でもなくない。 今日、俺は切られかけた。 東堂はそれを止めた。 そのうえで、まだ俺を自分の側に置く気でいる。 その事実が、重い。 重いのに。 「行きます」 返事は、思ったより素直に出た。 東堂は一瞬だけ黙って、それからまた原稿に視線を戻した。 「遅れるなよ」 命令口調だった。 でももう、その声を完全には嫌えなかった。 編集部を出る頃には、外気が少し冷えていた。 ビルのガラスに映る自分の顔は、朝よりずっと疲れている。 それなのに、足取りだけは変に軽い。 最悪だと思う。 助けられて、囲われた気がして、腹が立って、たぶん少し傷ついている。 なのに、明日の七時半に行く気でいる。 上司だから逆らえない。 たしかに、それはある。 でも、それだけじゃないものがもう混ざり始めている気がして、余計にたちが悪かった。 エレベーターの閉まる寸前、ポケットの中で指先が付箋の感触を探す。 『触るな。読むだけにしろ』 たったそれだけの乱暴な字が、今日一日のどんな言葉より、いちばん残っていた。

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