4 / 6
第三章 庇護
情報が漏れたらしい、という話が最初に耳に入ったのは、昼休憩を少し過ぎた頃だった。
誰が言い出したのか分からない。
ただ、編集部の空気が一段だけ浅くなったのを、先に皮膚が察した。
電話の音が増える。
立ち上がる人間が増える。
キーボードを叩く指が、いつもより少しだけ速い。
そういう小さな変化が、じわじわとフロア全体を曇らせていく。
「赤坂、例の企画の進行表、今出せる?」
隣のデスクから声をかけられて、俺は反射的に「はい」と返した。
例の企画、というのは、先月から動いていた大型の新連載だ。
編集部の期待値も高いし、宣伝部もかなり先まで動いている。まだ正式発表前なのに、社内では何度も資料が回っていた。
嫌な予感がした。
パソコンを開いて共有データを確認する。
進行表はある。企画資料もある。宣伝スケジュールもある。
その中の、まだ外には出ていないはずの内容が、SNSに断片的に流れていた。
タイトル候補。
作家名のイニシャル。
設定の一部。
伏せられている部分もあるけれど、分かる人が見れば分かる程度には具体的だった。
背中が冷える。
「……なんで」
思わず漏れた声は、自分でも情けないくらい小さかった。
周りではすでに何人かが動き出していた。
宣伝部に確認を取る人。
投稿の出どころを洗う人。
作家側に先回りして連絡を入れる人。
俺はただ画面を見たまま、指先だけが冷たくなっていくのを感じていた。
やっていない。
そんなのは当たり前だ。
でも、やっていないと言い切ることと、疑われないことは別だと、すぐに分かった。
「赤坂くん」
先輩編集の声が、いつもより硬い。
「このデータ、最近触った?」
「……触りました」
喉が乾いていた。
正直に答えるしかない。
「整理が甘かったので、フォルダ構成を少し直してて」
「勝手に?」
「確認は……まだ」
言い終わる前に、自分でまずいと分かる。
経理では、データの見やすさと整頓は正義だった。
でもここでは、余計な手を入れたこと自体がリスクになる。
先輩編集は責める顔をしなかった。
しなかったけど、それが逆にきつい。
「一回、会議室来て」
それだけだった。
会議室のドアを閉めた瞬間、外のざわめきが少し遠くなる。
その静けさの中に置かれると、逆に逃げ道がなくなった気がした。
テーブルの向こう側に、部長と先輩編集、それから東堂がいた。
東堂は何も言わない。
いつもみたいに原稿を見ているわけでもなく、ただ前に置かれた資料へ視線を落としている。
その沈黙が、ひどく怖かった。
「赤坂くん」
部長が、やけに丁寧な声で言う。
「君、共有フォルダの構成を触ったんだよね」
「はい」
「権限の見直しは?」
「……そこまでは」
「つまり、閲覧範囲が一時的に曖昧になった可能性がある」
責めている口調ではなかった。
確認だ。事実の整理だ。
でも、その事実の先に誰が立たされるのかは、痛いほど分かる。
「漏らしたのは君じゃないとしても」
その続きが来る前に、背筋が勝手に強張る。
言い訳を探す。
探すのに、何も見つからない。
俺は漏らしていない。
けど、俺が触ったせいで、可能性を作ったと言われたら、完全には否定できない。
その時だった。
「違う」
低い声が、会議室の空気を切った。
東堂だった。
初めて顔を上げる。
目が合う前に、東堂は部長の方へ視線を向けたまま言う。
「管理責任は俺にある」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
部長が眉を寄せる。
「東堂くん、でも実際に触ったのは」
「触らせたのは俺です」
即答だった。
嘘だと思った。
少なくとも、全部は。
東堂は俺にフォルダ整理を指示していない。
原稿は読ませた。企画も見せた。だけど、データを勝手にいじったのは俺だ。
なのに東堂は、間を置かずに続ける。
「教育が甘かった。監督不行き届きです。外すなら俺を外してください」
部長が黙る。
先輩編集も何も言わない。
会議室の蛍光灯だけが白くて、机の木目だけがやけにくっきり見えた。
助けられている。
その事実が、すぐには実感にならなかった。
ただ、胃の奥が冷えたまま動かない。
「……東堂くん」
部長が息を吐く。
「そこまで言うなら、今回の火消しは君がやって。赤坂くんはしばらく表から外す。異論は?」
あるわけがない。
俺に、ない。
東堂にも、たぶんない。
会議がそれで終わった。
というより、終わらされた。
部長と先輩編集が先に出ていく。
ドアが閉まって、会議室に俺と東堂だけが残った。
何を言えばいいのか分からない。
謝るべきだと思う。
でも、何に対して謝るのか、うまく形にならなかった。
黙っている俺を見ずに、東堂が資料を閉じる。
「お前」
声はいつも通り低い。
怒っているようにも、呆れているようにも聞こえない。
「……はい」
「勝手に動くな」
その一言で、喉の奥が詰まる。
助けた直後に言う言葉が、それか、と思った。
思ったのに、反発する余裕がない。
「しばらく、俺の許可なく企画に触るな。作家にも、宣伝にも、お前からは連絡するな」
仕事の指示だ。
その形をしている。
でも、どこかそれだけじゃない響きがあった。
囲われる、という言葉が頭をよぎる。
守るより先に、それが浮かんだ自分に、少しだけ嫌気がした。
「……なんで、庇ったんですか」
やっとそれだけ言えた。
東堂は資料の角を揃える手を止めないまま答える。
「庇ってない」
「いや」
「使えなくなると困るだけだ」
ひどい言い方だった。
ああ、この人はこういう時までそうなんだと思う。
少しだけ安心して、同時に腹が立つ。
「それ、答えになってませんよ」
「お前が納得する必要あるか?」
言い返せない。
会議室の窓に、俺たちの影が薄く映っている。
上司と部下。
教育係と新人。
それ以上でも以下でもないはずの形が、今はひどく不安定に見えた。
東堂がようやく立ち上がる。
俺の横を通り過ぎかけて、ほんの少しだけ足を止めた。
「赤坂」
名前を呼ばれる。
その声音は、さっき会議で責任を被った時よりも静かだった。
「今回の件、気にするなとは言わない」
背中越しに落ちてくる声が、思ったより近い。
「でも、勝手に自己判断するな。そういうのが一番面倒くさい」
面倒くさい。
その言葉に、少しだけ息が戻る。
優しくされるより、その雑さの方がまだ耐えられた。
「……はい」
返事をすると、東堂はそれ以上何も言わずに出ていった。
一人になった会議室で、やっと肩の力が抜ける。
助かった、とはまだ思えなかった。
むしろ、別の形で捕まった気さえした。
俺はやっていない。
でも、疑われるだけの隙は作った。
そこを東堂に拾われた。
拾われた、という言い方が正しいのかも分からない。
会議室を出ると、編集部はもう別の速度で動いていた。
さっきまでのざわめきは火消しの熱に変わっていて、誰も俺を見ていないようで、たぶん少しは見ている。
自席に戻ると、必要最低限の資料だけがまとめて置かれていた。
誰が置いたのか分からない。たぶん東堂だ。
上から付箋が一枚、貼られている。
『触るな。読むだけにしろ』
短い字。
笑えるくらい感じが悪い。
なのに、その付箋を剥がせなかった。
触るな。
読むだけにしろ。
命令だ。
たぶん、完全に。
それなのに、嫌悪だけでは終わらない。
守られたんだと認めるには、あまりにもやり方が乱暴で、優しくなさすぎる。
でも、突き放されなかった事実だけが、机の上に残っている。
夜まで、俺はほとんど口を利かなかった。
企画から外され、表の連絡も止められ、やることは一気に減ったはずなのに、呼吸だけが忙しい。
画面を見ていても、文字が頭に入らない。
気づけば、フロアの人影が減っていた。
外はすっかり暗い。
編集部の照明が、紙の白さばかりを浮かび上がらせる。
その中で、東堂だけがまだ残っていた。
少し離れたデスクで、何事もなかったみたいに原稿へ赤を入れている。
昼間、あんなふうに責任を被った人間の背中には見えない。
完璧に見える。
でも、完璧な人間が、あんな言い方で助けるだろうか。
考えるだけ無駄だと思うのに、目が離れない。
その時、東堂が顔も上げずに言った。
「まだいたのか」
「……東堂さんも」
「俺は仕事だ」
その返しに、少しだけむっとする。
「俺だって仕事です」
「今のお前にあるのは反省だろ」
最悪だ。
でも、否定できない。
言い返せずに黙っていると、東堂がようやくこちらを見た。
「明日、朝一で来い」
「何時ですか」
「七時半」
「早すぎません?」
「再教育中なんだから当然だろ」
あまりにも当たり前みたいに言われて、腹が立つより先に、笑いそうになった。
こんな状況で、まだそれを続けるのか。
俺の顔に出たのか、東堂が少しだけ目を細める。
「何だ」
「……いや」
何でもない、とは言えなかった。
何でもなくない。
今日、俺は切られかけた。
東堂はそれを止めた。
そのうえで、まだ俺を自分の側に置く気でいる。
その事実が、重い。
重いのに。
「行きます」
返事は、思ったより素直に出た。
東堂は一瞬だけ黙って、それからまた原稿に視線を戻した。
「遅れるなよ」
命令口調だった。
でももう、その声を完全には嫌えなかった。
編集部を出る頃には、外気が少し冷えていた。
ビルのガラスに映る自分の顔は、朝よりずっと疲れている。
それなのに、足取りだけは変に軽い。
最悪だと思う。
助けられて、囲われた気がして、腹が立って、たぶん少し傷ついている。
なのに、明日の七時半に行く気でいる。
上司だから逆らえない。
たしかに、それはある。
でも、それだけじゃないものがもう混ざり始めている気がして、余計にたちが悪かった。
エレベーターの閉まる寸前、ポケットの中で指先が付箋の感触を探す。
『触るな。読むだけにしろ』
たったそれだけの乱暴な字が、今日一日のどんな言葉より、いちばん残っていた。
ともだちにシェアしよう!

