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第四章 切断
七時半の編集部は、思っていたより明るかった。
誰もいないわけじゃない。
早出のデザイナーが一人、奥でパソコンを立ち上げていて、給湯室の方からはコーヒーを淹れる音がする。けれど、昼間みたいな熱はまだない。机も椅子も、これから誰かの体温を受け取る前の顔をしていた。
その中で東堂だけが、もう何時間も前からここにいたみたいな顔で原稿を読んでいた。
「遅れてません」
まだ席にもついていないのに言うと、東堂はページをめくったまま返した。
「ぎりぎりだな」
「七時二十八分です」
「二分で仕事が始められる顔してない」
最悪だ。
けど、昨日みたいな重さはそこになかった。
いつも通りの棘だった。だから少しだけ息がしやすい。
東堂は机の端に置いてあった束を俺に差し出した。
「これ、先に読め」
「何ですか」
「今度立ち上げる連載の初稿」
受け取る。紙の重さが手に馴染む前に、東堂が続けた。
「今日は感想じゃなくて、切る場所を挙げろ」
「切る場所」
「全部残したい原稿は、たいてい弱い」
朝から無茶を言う。
でも、昨日みたいな拒絶はなかった。
仕事としてそこに居場所がある。そのことに、少しだけ救われる。
東堂はそれきり何も言わず、自分の原稿へ視線を戻した。
その横顔を見た瞬間、昨日の会議室がふっと蘇る。
管理責任は俺にある。
外すなら俺を外してください。
あの声の温度を思い出してしまうのに、今の東堂はそんなこと最初からなかったみたいに静かだった。
「どうした」
視線が止まっていたらしい。
「……別に」
「朝からぼんやりするな」
「してません」
「してる」
ぴしゃりと返されて、腹が立つ。
でも、それで終わった。
終わった、というより、そこから先に続かなかった。
それから数日、東堂は必要なことしか言わなくなった。
原稿の指示。
企画の確認。
修正箇所の共有。
それだけだ。
夜まで残されることもなければ、突然会議室に呼ばれることもない。
コーヒーを押しつけられることも、逃げるなよ、と言われることもなかった。
助かったはずなのに、妙に落ち着かない。
距離ができただけだ。
そう思えばいい。むしろ、これが普通だ。
上司と部下。
その形に戻っただけ。
なのに、東堂が他の編集と話しているのを横目で見るたび、胸の奥のどこかが鈍く擦れた。
誰に対しても厳しいのは変わらない。
でも、今の俺に向けられるものは、前みたいな圧じゃなくて、綺麗に整えられた仕事の顔だった。
それが、余計にむかつく。
「赤坂、これ東堂さんに確認もらって」
先輩に渡された校正紙を持って、編集長席の前で立ち止まる。
東堂は電話中だった。
作家相手らしいその声は、驚くほど穏やかだった。
甘いわけじゃない。持ち上げてもいない。けれど、相手がどこで躓いているのかをちゃんと見て、そのうえで引っ張り上げる声だった。
そんな話し方もできるんだな、と思う。
俺には一度も向けられていない響きだった。
視線に気づいたのか、東堂が受話器を押さえたままこちらを見る。
「何」
「校正、確認お願いします」
受け取った東堂は中をざっと見て、二箇所だけ赤を入れた。
「ここ、言葉が柔らかすぎる」
「でも作家さん、あんまり強く言うと」
「機嫌取って原稿が良くなるなら苦労しない」
電話の向こうにはさっきまで穏やかに話していたくせに、俺に向けると容赦がない。
「あと、これ」
赤字を入れた箇所を指先で叩く。
「お前の文章、まだ責任逃れの匂いがする」
腹が立って、つい言い返す。
「そんなに嫌なら、他の人に回せばいいじゃないですか」
一瞬、空気が止まった。
東堂の目が上がる。
電話の向こうで作家が何か言っているらしい。
東堂は視線だけこっちに固定したまま、「あとでかけ直します」と短く切った。
受話器が戻る音がやけに大きい。
「嫌だなんて言ってない」
「じゃあ何ですか」
「使えるようにしてるだけだ」
その言い方が、いちばん嫌いだ。
人間相手じゃなく、道具の調整みたいに聞こえる。
「……助けたのも、そのためですか」
言ってから、自分で血の気が引いた。
仕事中だ。
フロアだ。
言う場所じゃない。
でももう遅かった。
東堂は数秒、黙った。
怒るかと思った。
冷たく切られるかと思った。
けれど、東堂の顔に浮いたのは、それとも少し違うものだった。
たぶん、苛立ちと、もっと小さい何か。
「赤坂」
低い声だった。
「それ、今ここで聞くことか」
正論すぎて、何も返せない。
返せないまま立ち尽くしていると、東堂は校正紙を机に置いた。
「仕事の話以外する気がないなら、戻れ」
その一言で、頭の中が真っ白になる。
仕事の話以外。
じゃあ今までのあれは何だったんだと思う。
会議室。終電後。付箋。七時半。命令みたいな言葉。庇ったくせに囲うみたいな指示。
全部、俺の勘違いだったみたいな切り方だった。
「……分かりました」
声が思ったより硬く出た。
校正紙を持って背を向ける。
その時、東堂がもう一度何か言いかけた気配がした。けれど振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん格好悪い。
自席に戻ってからもしばらく、何も手につかなかった。
腹が立つ。
悔しい。
みっともない。
助けられたことで、勝手に距離を勘違いしたのかもしれない。
東堂にとってはずっと仕事で、再教育で、それだけだったのに。
だったら、あんな言い方をするなと思う。
切るなら最初から切ればいい。期待させるみたいなことをしておいて、急に線を引くのは卑怯だ。
でもその“期待させるみたいなこと”を、いちばん勝手に膨らませていたのは自分かもしれなくて、それが余計に腹立たしい。
夕方、先輩編集に呼ばれて会議室に入る。
次の案件の担当割り振りだった。
「この作家さん、しばらく赤坂くん外れることになったから」
さらっと言われて、耳を疑う。
「……外れる?」
「一時的にね。悪い意味じゃないよ。今は別の案件で経験積んだ方がいいって」
理由は説明されない。
でも分かる。
大型企画の件以来、まだ完全に信用を取り戻せていないのだ。
もしくは、東堂がそう判断したか。
「東堂さんが?」
思わず聞くと、先輩編集は少しだけ困った顔をした。
「最終的には編集長判断かな」
そこで終わりだった。
会議室を出た時、廊下の向こうから東堂が歩いてくるのが見えた。
目が合う。
合った気がしたのに、東堂はそのまま何事もなかったみたいに通り過ぎた。
声もかけない。
足を止めることもない。
本当に、それだけだった。
その背中を見て、ようやく分かる。
切られたんだ、と思った。
完全にじゃない。
仕事上はまだ続いている。編集部にいる限り、顔も合わせる。指示も飛ぶ。原稿だって一緒に見る。
でも、それ以上の何かを期待する余地だけ、きれいに消された。
夜になっても、東堂はもう俺を呼ばなかった。
前なら赤字の束を持ってきた時間だ。
前ならコーヒーを命じた時間だ。
前なら、帰るなと言われてもおかしくない時間だ。
なのに今日は、何もない。
俺は定時を少し過ぎたところでパソコンを閉じた。
誰にも止められない。
それがむしろ情けなかった。
ビルを出ると、外の空気が思ったよりぬるい。
季節が少しずつ変わり始めているのに、気づく余裕もなかったらしい。
スマホが震えた。
反射的に期待した自分が馬鹿みたいで嫌になる。
表示されたのは、東堂じゃなかった。
母親からの事務連絡みたいな短いメッセージだった。
そこでようやく、自分が何を待っていたのかを思い知る。
最悪だ。
上司からの連絡を待つ部下なんて、どうかしてる。
しかも、来ない方がいいと思ってるくせに。
信号が青に変わる。
渡りながら、俺は小さく息を吐いた。
もう振り回されない。
助けられたことも、囲われた気がしたことも、少しだけ呼吸が乱れた夜も、全部いったん切る。
上司は上司。
それ以上じゃない。
そう決めないと、たぶんこっちが持たない。
ポケットの中で、指先が無意識に何かを探して止まる。
もう持っていない付箋のざらつきだった。
自分で笑いそうになる。
帰ったら忘れよう。
明日はちゃんと仕事だけする。
そう思ったところで、もう一度スマホが震えた。
今度は、東堂だった。
画面に表示された短い文面を見て、足が止まる。
明日から、別案件に入れ。資料は朝渡す。
それだけ。
説明もない。
昨日までのことをなかったみたいに切って、仕事だけを置いてくる文章。
腹が立った。
腹が立ったのに、画面を閉じられない。
その無機質な一文にさえ、少しだけ呼吸を乱される自分がいる。
信号の向こうで、車のライトが滲んで見えた。
もう振り回されない。
そう決めたばかりなのに。
俺はスマホを握り直して、震える指で短く返した。
了解です。
送った瞬間、ひどく負けた気がした。
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