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第五章 仕事だから
翌朝、東堂は本当に何事もなかったみたいな顔で資料を寄越した。
「これ、今日からお前」
渡された企画書は、昨日まで見ていた大型案件とはまるで温度が違った。
ページ数の少ない実用寄りの単発企画。売上は堅いけれど、熱で押すタイプじゃない。言い方は悪いが、安全な仕事だ。
「……左遷ですか」
受け取るより先に口をついた。
東堂はコーヒーの蓋を開けながら、視線も上げずに言う。
「被害妄想が早いな」
「だったら何ですか」
「今のお前にちょうどいい」
最悪の言い方だった。
苛立ちをそのまま顔に出したつもりだったのに、東堂は一度もこっちを見ない。机の上の資料を整え、必要事項を説明して、それで終わりみたいな態度を貫いている。
「質問は」
「ありません」
「ある顔してるけど」
「仕事の話なら、後でまとめて聞きます」
ようやく東堂の視線が上がる。
一瞬だけ目が合った。
その目に、驚いたような色が本当にわずかに浮いた気がした。けれど、すぐに消える。
「そう」
たったそれだけだった。
腹が立つ。
腹が立つのに、傷つく余地だけは残されていて、余計にたちが悪い。
新しい案件の担当作家は、温厚な人だった。
電話口でも柔らかくて、資料の戻しも丁寧で、こっちが少し固い文面を送っても、「大丈夫ですよ」と笑ってくれる。
やりやすい。
そういう相手のはずだった。
なのに、うまく呼吸が合わない。
指示は通る。
確認もできる。
でも、会話のあとに何も残らない。
それで正しいはずなのに、どこか薄い。
昼過ぎ、戻ってきた企画メモを見直していたところで、赤い修正が横から差し込まれた。
「そこ、言葉が逃げてる」
東堂だった。
いつの間に来たのか分からなかった。
俺のデスクに片手をついて、企画メモの一文を指先で示している。
『読者の生活に寄り添える企画』
その部分に一本、赤線が引かれていた。
「寄り添える、じゃ何も言ってないのと一緒だろ」
「十分通じる表現です」
「通じるかどうかと、届くかどうかは別」
声が近い。
でも、目は紙しか見ていない。
「だったらどう書けば」
言いながら、自分でも尖っているのが分かった。
東堂はペンを回しながら、さらっと書き換える。
『忙しい平日の終わりに、十五分だけ呼吸を戻せる企画』
それだけで文章の肌触りが変わる。
悔しい。
悔しいけれど、認めるしかない。
「……分かりやすいですね」
「当たり前だろ」
「いちいち感じ悪いんですよ」
「お前に合わせてる」
それが冗談なのか本気なのか分からない顔で言うから困る。
東堂は修正を置いて、すぐに離れるかと思った。
けれど、今日は違った。
「この案件、お前向きだよ」
唐突だった。
反射的に顔を上げる。
東堂はもう半歩ぶん距離を取っていて、さっきまでの近さが嘘みたいに見えた。
「数字も読める。生活導線も拾える。こういう企画の方が最初は扱いやすい」
褒めている、のかもしれない。
でも素直に受け取れない。
「じゃあ、大型企画は向いてないってことですか」
東堂が少し黙る。
沈黙のあと、低く返した。
「今はな」
今は。
その言い方が、妙に引っかかった。
切られたわけじゃない。
でも、手放されてもいる。
その曖昧さにまた腹が立つ。
「……東堂さんって、結局どうしたいんですか」
気づいた時には口に出ていた。
周りには何人か編集がいる。
フロアの真ん中だ。仕事中だ。
それでも止まらなかった。
「育てたいんですか、外したいんですか、どっちなんですか」
東堂の目が、静かにこっちへ向く。
怒ってはいない。
でも、表情が薄くなる時の方が、この人は怖い。
「仕事中だぞ」
「分かってます」
「分かってる顔してない」
「じゃあ分かるように言ってください」
息が浅くなる。
言いすぎた、と頭のどこかでは分かっていた。
でも、止められない。
東堂はペンを机に置いた。
乾いた音がして、それだけで周囲の気配が少し遠のく。
「それ、上司だから聞いてるんですよね」
言ったのは俺だった。
自分でも一番まずい場所を踏んだと分かる。
東堂は数秒、何も言わなかった。
それから、ひどく静かな声で返す。
「じゃなきゃ、聞くのか」
心臓のあたりが、浅くなる。
予想していなかったわけじゃない。
でも、実際に言われると違う。
責任の押しつけにも聞こえる。
試されているようにも聞こえる。
それなのに、その奥にあるものまで見えてしまいそうで、余計に苦しい。
「……最低ですね」
やっとそれだけ返すと、東堂はかすかに口元を動かした。
笑ったわけじゃない。
たぶん、自嘲に近い何かだった。
「知ってる」
それだけ言って、東堂は自分の席へ戻っていく。
背中を見送りながら、指先に力が入る。
上司だから。
その立場があるから、東堂は俺を呼べる。
原稿を読ませて、残らせて、切って、また別の仕事を渡せる。
その権力があるから、俺は簡単に振り回される。
そう思えば、全部説明がつくはずだった。
なのに。
さっきの一言だけは、権力の話だけじゃなかった。
じゃなきゃ、聞くのか。
それはたぶん、問いかけだった。
上司じゃなかったら。
教育係じゃなかったら。
編集長じゃなかったら。
それでもお前は、俺の言葉を聞くのか。
そんな意味が混ざっている気がしてしまう。
最悪だ。
そんなふうに聞こえてしまう自分も、たぶん同じくらい。
夕方、担当作家との電話を終えたところで、先輩編集が横から覗き込んできた。
「赤坂くん、ちょっと空気変わった?」
「は?」
「いや、前より言い返すようになったなと思って」
笑いながらの軽い一言だったのに、妙に刺さる。
「別に」
「東堂さん相手にそれできるの、珍しいよ」
冗談めかして肩をすくめられて、返事に困る。
そうかもしれない。
でも、それが嬉しいわけでもない。
むしろ、こんなふうに目に見えるくらい変わっているなら、なおさら嫌だった。
夜、フロアの人影が減り始めても、俺は今日は残らなかった。
残る理由がない。
そう言い聞かせて、定時を少し過ぎたところでパソコンを閉じる。
立ち上がる時、視線を感じた。
東堂だった。
何も言わない。
引き止めない。
ただ一度だけ、こっちを見る。
それだけ。
それだけなのに、足が一拍ぶんだけ止まりかける。
「お先に失礼します」
仕事の声で言うと、東堂は小さく頷いた。
「お疲れ」
その返事は、あまりにも普通だった。
普通すぎて、逆に腹が立つ。
ビルを出た瞬間、夜風が思ったより冷たかった。
ネクタイを緩めながら歩いても、胸のあたりの息苦しさは取れない。
上司だから。
仕事だから。
そう思えばいい。
そう思い込めば、東堂の一言一言に意味なんてなくなる。
それなのに、ポケットの中のスマホが震えた瞬間、反射で取り出してしまう。
画面には短い通知が一件。
東堂だった。
午前のメモ、後半は良かった。最初の逃げた言い回しだけ直せ。明日見せろ。
ただの業務連絡。
たったそれだけ。
なのに、呼吸が少しだけ戻る。
最低だと思う。
こんなの、餌みたいなものだ。
切るなら切る、褒めるなら褒める、どっちかにすればいいのに、この人はいつも半端なところだけ掬ってくる。
俺はしばらく画面を見たまま立ち尽くして、それから短く返した。
了解です。
送信して、すぐに後悔する。
返さなくてもよかった。
明日、仕事として直して持っていけば済んだ。
それでも返してしまった。
仕事だから。
そういうことにしておかないと、たぶんもう、持たなかった。
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