7 / 8

第六章 共犯

その作家が締切を飛ばしたのは、初めてじゃなかった。 でも、連絡が完全に途絶えたのは初めてだった。 朝から東堂のデスク周りだけ空気が違う。 電話を切るたびに短くなっていく返事、机に置かれる資料の角度、ペンを持つ指先の静かさ。その全部が、嵐の前の低い気圧みたいに重かった。 名前を聞けば誰でも分かるくらいには売れている作家で、しかも今抱えている原稿は、次号の巻頭カラーだった。落とせば誌面ごと死ぬ。 編集部の誰もがそれを分かっていて、だからこそ誰も軽口を叩かない。 「電話、まだですか」 昼前、耐えきれずに聞くと、東堂はパソコンから目を上げずに答えた。 「既読もつかない」 それだけだった。 短いのに、状況の悪さが全部入っている。 「家は」 「昨日の夜から帰ってないらしい」 「……らしい」 「担当アシスタントが今朝確認した」 紙をめくる音。 それから、東堂がやっと立ち上がる。 「赤坂」 呼ばれて反射的に背筋が伸びる。 「出るぞ」 「どこに」 「探しに行く」 あまりにも当然みたいに言うから、一瞬だけ言葉が遅れた。 「俺もですか」 「他に誰連れてくんだよ」 そう返されると、妙に静かになる。 先輩編集が何か言いかけたけれど、東堂はそれより早く必要な資料を抜き取って、俺にも鞄を持てと視線で指示した。 仕事だ。 完全に。 それなのに、心臓のあたりだけが少し騒ぐ。 タクシーの中で、東堂はほとんど喋らなかった。 作家の自宅、よく使う喫茶店、ホテルのラウンジ、打ち合わせ帰りに立ち寄る書店。可能性のある場所を順に潰していく。移動の合間、必要な連絡だけを短く入れて、そのたびに表情が薄くなる。 助手席に座った俺は、持たされた資料を膝の上で捲るふりをしながら、横顔ばかり見ていた。 東堂は焦っている。 分かりやすく声を荒げたりはしない。 でも、信号待ちで膝の上のスマホを指先で二度叩く癖とか、メッセージの返信が一秒遅いだけで目元がわずかに強ばるとか、そういう細いところに全部出ていた。 「東堂さん」 声をかけると、すぐに目だけがこっちを向く。 「何」 「怒ってます?」 聞いてから、自分でも変なことを聞いたと思った。 でも東堂は鼻で息を抜いただけだった。 「怒る相手がいればな」 その答えが、妙に残る。 自宅は留守だった。 管理人が困った顔で出てきて、今朝早くに一度戻った形跡はあると言った。でも部屋には入っていないらしい。 喫茶店にもいない。 書店にもいない。 昼を回る頃には、俺の足も頭も少しずつ重くなっていた。 「次、ホテルですか」 「いや」 東堂がスマホの地図を拡大しながら言う。 「河川敷の方」 「河川敷?」 「詰まると歩く人なんだよ。あの人」 まるで何度も見てきたみたいな言い方だった。 実際、そうなのだろうと思う。 売れっ子作家と編集長。 原稿を巡って一緒に地獄を見てきた時間が長ければ、そういう癖のひとつくらい分かるのかもしれない。 その事実が、少しだけ悔しかった。 俺の知らない東堂の時間が、当たり前みたいにそこにある。 河川敷まで歩く途中、東堂はやっと煙草を取り出した。 咥えたまま火はつけない。 つけるのを忘れているのか、つける気がないのか分からないまま、数歩歩いてからまたポケットに戻した。 「吸わないんですか」 「今じゃない」 「じゃあなんで出したんですか」 「落ち着くから」 その返しに、少しだけ笑いそうになる。 火のついていない煙草で落ち着けるのかと思う。 でも、そういう意味不明なところにだけ、ひどく人間っぽさがある。 河川敷には風があった。 土手の草がまだ完全には青くなり切らない色で揺れていて、空は明るいのにどこか眠そうだった。昼休憩の会社員と犬の散歩をしている老人と、自転車を押す高校生。そういうどうでもいい人たちの間を縫うみたいに歩く。 そして、ベンチに座っている後ろ姿を見つけた。 帽子を深く被って、缶コーヒーを持ったまま動かない。 写真で見たことのある肩の線だった。 東堂の足が、目に見えて速くなる。 「先生」 呼びかける声だけは平静だった。 その作家はゆっくり顔を上げて、東堂を見た瞬間に、子どもみたいな顔で眉を寄せた。 「……来ると思った」 「来るに決まってるでしょう」 東堂は怒らない。 怒らないくせに、逃がさない声をしていた。 俺は少し離れたところで立ち止まる。 ここから先は完全に、俺の知らない仕事だと思った。 作家は缶コーヒーを両手で持ったまま、視線を川に落とした。 「書けなくなった」 あっさり言う。 「そういう日もあります」 「今日は、そういう日じゃない」 東堂が黙る。 作家は少し笑った。笑った、というより、口元だけが諦めみたいに緩んだ。 「続きを書くと、終わる気がした」 風が吹く。 薄い紙みたいな沈黙が、三人の間を通り抜ける。 その言葉の意味を俺は半分も分からない。 でも東堂は分かっている顔だった。分かりたくないものまで、たぶん全部。 「終わらせればいいでしょう」 東堂の声は低い。 「終わらせたくないなら、次を考えればいい。止まる理由にはならない」 作家が笑う。今度は、ほんの少しだけちゃんと。 「ひどいこと言うよね、相変わらず」 「甘いこと言って原稿が出るなら、いくらでも言いますよ」 言葉は冷たい。 けれど、その冷たさに見捨てる響きはなかった。 東堂はベンチの前にしゃがみ込む。 編集長が作家の前で膝を折る。その構図が、一瞬だけ現実味を失う。 「締切、今日の十八時に引き直します」 「今日?」 「はい」 「無茶だよ」 「知ってます」 東堂はそこでやっと、小さく息を吐いた。 「だから俺も一緒にやります」 作家が黙る。 風の音だけが、少し長く続く。 「……東堂くん」 「何ですか」 「そういうとこ、嫌いじゃない」 「告白なら原稿出してからにしてください」 返しが雑で、作家が吹き出す。 その瞬間、少しだけ空気が戻ったのが分かった。 俺は立ったまま、息を吐く。 すごいと思った。 素直に。 ただ探して連れ戻すだけじゃない。 怒鳴るでもなく、慰めるでもなく、ちゃんと逃げ道を潰しながら、一緒に戻る理由を作っている。 それが東堂の仕事なんだと思った。 作家をなんとか編集部に戻し、空いていた打ち合わせ室をひとつ確保し、アシスタントと連絡を繋ぎ、必要な資料だけを机に並べる。東堂はそこまでを一気にやってから、ようやく俺を振り返った。 「赤坂」 「はい」 「お前、議事録取れ」 「今からですか」 「今だからだろ」 やっぱり容赦がない。 けれど、今はそれが少しだけありがたい。 東堂が作家の前に座る。 いつもの編集長席じゃない。作家と同じ机の高さで、ノートを開き、ペンを持つ。 「じゃあ、三章のラストから」 作家が呻く。 「そこから?」 「そこ逃げたら、次も逃げるでしょ」 「鬼」 「売れてるんだから今さら」 そんなやり取りが続くうちに、少しずつ言葉が動き出した。 止まっていたものが、東堂の問いに押し出されるみたいに机の上へ出てくる。断片的なセリフ。場面の温度。主人公が見ている景色。感情ではなく、輪郭だけのまだ柔らかいもの。 俺は必死で書き留める。 途中から、これは議事録じゃないと思った。 もっと生っぽい何かだ。まだ原稿になる前の、むき出しの熱。 東堂はそれを拾うのが異様にうまかった。 「今のいいです、もう一回」 「それは捨てないで」 「そこ、主人公じゃなくて先生の本音でしょう」 「うるさいな」 「図星なら使います」 容赦なくて、でも楽しそうだ。 いや、楽しそうというより、生きている顔をしていた。 初めて見るわけじゃないはずなのに、そう思った。 いつも仕事をしている東堂しか知らないはずなのに、その“仕事”の中にこんな顔があることを、俺は知らなかった。 結局、原稿の骨子がまとまったのは夕方ぎりぎりだった。 作家はぐったりしていたし、俺も手が少し痺れていた。東堂だけが、疲れているくせに背筋を崩さなかった。 「今日はここまで。続きは明日、朝一」 作家が机に突っ伏したまま言う。 「東堂くん、あんたほんと人じゃない」 「人だからこんな面倒見てるんでしょう」 返しながら、東堂はペットボトルの水を投げるみたいに渡した。 その雑さの中にだけ、妙なやさしさがある。 作家を見送り、会議室に二人きりになった頃には、さすがに肩の力が抜けていた。 窓の外はもう暗い。 編集部の照明だけが白い。 俺はノートを閉じて、指先を軽く揉む。 「……すごいですね」 気づけば言っていた。 東堂は椅子にもたれたまま、少しだけ眉を動かす。 「何が」 「探しに行って、戻して、書かせて。ああいうの、普通にできることじゃないです」 東堂はしばらく黙って、それから鼻で息を抜いた。 「できてないだろ」 「いや」 「できてたら、そもそも飛ばさせてない」 その言い方が、あまりに東堂らしくて笑いそうになる。 すごかった、と言ったことを、素直に受け取る気がない。 「十分できてましたよ」 今度は少しだけ強く言うと、東堂は初めてちゃんとこっちを見た。 視線が合う。 昼間みたいな硬さはなかった。 夜の会議室でしか出ない、少し温度の低い顔だった。 「……お前」 「はい」 「今日のメモ、後で俺にも送れ」 「そこは褒めるところじゃないんですか」 言うと、東堂の口元がわずかに緩んだ。 「調子に乗るな」 久しぶりに聞くそれが、なぜか少し嬉しい。 嬉しいと思った瞬間に、自分でうんざりする。 「東堂さん」 「何」 「この前、なんで切ったんですか」 聞くつもりはなかった。 なかったのに、今日一日あの背中を見てしまったら、どうしても飲み込めなかった。 東堂の表情が、ぴたりと止まる。 会議室の空調音だけが急に近くなる。 「切ってない」 「じゃあ、距離取ったじゃないですか」 「……仕事だった」 「今も仕事です」 言い返した途端、少しだけ後悔した。 でも東堂は怒らない。 怒らない代わりに、視線だけが薄く冷える。 「お前、俺が何考えてるか知りたいの」 その言い方がずるい。 知りたいなんて、言えるわけがない。 言った瞬間、何かが変わる。 たぶん戻せない方へ。 黙った俺に、東堂は視線を外す。 「知らなくていいこともある」 それで終わらせるつもりなのが分かった。 分かったのに、今日はそれで終わらせたくなかった。 「……それ、逃げてるの東堂さんじゃないですか」 言った瞬間、空気が変わる。 東堂の目が細くなる。 やばいと思う。 でも遅い。 数秒の沈黙のあと、東堂は低く言う。 「そうだとして」 返ってくると思わなかった。 息が止まる。 東堂は机の上の俺のノートを指先で軽く叩いた。 「それでもお前、まだここにいるだろ」 責めているようで、違う。 確認しているようで、それだけでもない。 心臓のあたりが浅くなる。 昼間、河川敷で見た背中が頭をよぎる。 完璧じゃない。怖がっている。失うことに慣れていない人の顔だった。 その弱さを知ってしまったせいで、前みたいにただ嫌うことができない。 最悪だ。 「……仕事ですから」 やっとそれだけ返すと、東堂は少しだけ笑った。 今度は見間違いじゃない。 「そういうことにしとけ」 その返しが、妙に優しかった。 会議室を出る時、東堂が後ろから言う。 「赤坂」 振り返る。 「今日のこと、他に言うな」 「作家さんのことですか」 「それも」 東堂は少しだけ間を置いた。 「……俺が探しに行ったことも」 そこまで言うんだ、と思う。 格好悪いと思ってるのかもしれない。 見せたくないのかもしれない。 どっちでもいい。たぶん、その両方だ。 「言いませんよ」 返すと、東堂は小さく頷いた。 たったそれだけ。 でも、その一言で、自分が急に何かを預かった気がした。 秘密、というには大げさで、仕事、というには少し熱い。 エレベーターを待つ間、俺はスマホを握ったまま立っていた。 今日は連絡が来ても、たぶん呼吸は乱れない。 そう思ったのに、ポケットの中で震えた瞬間にはやっぱりすぐ画面を見てしまう。 東堂だった。 メモ助かった。あと、今日のことは助かった。 短い文面。 余計な言葉はない。 でも最後の一行だけが、やけに重い。 助かった。 そんなの、こっちの台詞なのに。 俺はしばらく立ち尽くしてから、短く返した。 了解です。明日の資料、先に整えておきます。 送信して、すぐに自分で苦笑する。 了解です、じゃない。 助かったって言われたのに。 でもそれ以上の返し方を知らない。 エレベーターの扉が閉まる。 金属に映る自分の顔は疲れていたけれど、少しだけ、前よりましだった。 上司と部下。 それだけのままでいたいのに、今日ひとつだけ、それ以外のものを手渡された気がする。 共犯。 そんな言葉が、ふと頭をかすめた。

ともだちにシェアしよう!