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第六章 共犯
その作家が締切を飛ばしたのは、初めてじゃなかった。
でも、連絡が完全に途絶えたのは初めてだった。
朝から東堂のデスク周りだけ空気が違う。
電話を切るたびに短くなっていく返事、机に置かれる資料の角度、ペンを持つ指先の静かさ。その全部が、嵐の前の低い気圧みたいに重かった。
名前を聞けば誰でも分かるくらいには売れている作家で、しかも今抱えている原稿は、次号の巻頭カラーだった。落とせば誌面ごと死ぬ。
編集部の誰もがそれを分かっていて、だからこそ誰も軽口を叩かない。
「電話、まだですか」
昼前、耐えきれずに聞くと、東堂はパソコンから目を上げずに答えた。
「既読もつかない」
それだけだった。
短いのに、状況の悪さが全部入っている。
「家は」
「昨日の夜から帰ってないらしい」
「……らしい」
「担当アシスタントが今朝確認した」
紙をめくる音。
それから、東堂がやっと立ち上がる。
「赤坂」
呼ばれて反射的に背筋が伸びる。
「出るぞ」
「どこに」
「探しに行く」
あまりにも当然みたいに言うから、一瞬だけ言葉が遅れた。
「俺もですか」
「他に誰連れてくんだよ」
そう返されると、妙に静かになる。
先輩編集が何か言いかけたけれど、東堂はそれより早く必要な資料を抜き取って、俺にも鞄を持てと視線で指示した。
仕事だ。
完全に。
それなのに、心臓のあたりだけが少し騒ぐ。
タクシーの中で、東堂はほとんど喋らなかった。
作家の自宅、よく使う喫茶店、ホテルのラウンジ、打ち合わせ帰りに立ち寄る書店。可能性のある場所を順に潰していく。移動の合間、必要な連絡だけを短く入れて、そのたびに表情が薄くなる。
助手席に座った俺は、持たされた資料を膝の上で捲るふりをしながら、横顔ばかり見ていた。
東堂は焦っている。
分かりやすく声を荒げたりはしない。
でも、信号待ちで膝の上のスマホを指先で二度叩く癖とか、メッセージの返信が一秒遅いだけで目元がわずかに強ばるとか、そういう細いところに全部出ていた。
「東堂さん」
声をかけると、すぐに目だけがこっちを向く。
「何」
「怒ってます?」
聞いてから、自分でも変なことを聞いたと思った。
でも東堂は鼻で息を抜いただけだった。
「怒る相手がいればな」
その答えが、妙に残る。
自宅は留守だった。
管理人が困った顔で出てきて、今朝早くに一度戻った形跡はあると言った。でも部屋には入っていないらしい。
喫茶店にもいない。
書店にもいない。
昼を回る頃には、俺の足も頭も少しずつ重くなっていた。
「次、ホテルですか」
「いや」
東堂がスマホの地図を拡大しながら言う。
「河川敷の方」
「河川敷?」
「詰まると歩く人なんだよ。あの人」
まるで何度も見てきたみたいな言い方だった。
実際、そうなのだろうと思う。
売れっ子作家と編集長。
原稿を巡って一緒に地獄を見てきた時間が長ければ、そういう癖のひとつくらい分かるのかもしれない。
その事実が、少しだけ悔しかった。
俺の知らない東堂の時間が、当たり前みたいにそこにある。
河川敷まで歩く途中、東堂はやっと煙草を取り出した。
咥えたまま火はつけない。
つけるのを忘れているのか、つける気がないのか分からないまま、数歩歩いてからまたポケットに戻した。
「吸わないんですか」
「今じゃない」
「じゃあなんで出したんですか」
「落ち着くから」
その返しに、少しだけ笑いそうになる。
火のついていない煙草で落ち着けるのかと思う。
でも、そういう意味不明なところにだけ、ひどく人間っぽさがある。
河川敷には風があった。
土手の草がまだ完全には青くなり切らない色で揺れていて、空は明るいのにどこか眠そうだった。昼休憩の会社員と犬の散歩をしている老人と、自転車を押す高校生。そういうどうでもいい人たちの間を縫うみたいに歩く。
そして、ベンチに座っている後ろ姿を見つけた。
帽子を深く被って、缶コーヒーを持ったまま動かない。
写真で見たことのある肩の線だった。
東堂の足が、目に見えて速くなる。
「先生」
呼びかける声だけは平静だった。
その作家はゆっくり顔を上げて、東堂を見た瞬間に、子どもみたいな顔で眉を寄せた。
「……来ると思った」
「来るに決まってるでしょう」
東堂は怒らない。
怒らないくせに、逃がさない声をしていた。
俺は少し離れたところで立ち止まる。
ここから先は完全に、俺の知らない仕事だと思った。
作家は缶コーヒーを両手で持ったまま、視線を川に落とした。
「書けなくなった」
あっさり言う。
「そういう日もあります」
「今日は、そういう日じゃない」
東堂が黙る。
作家は少し笑った。笑った、というより、口元だけが諦めみたいに緩んだ。
「続きを書くと、終わる気がした」
風が吹く。
薄い紙みたいな沈黙が、三人の間を通り抜ける。
その言葉の意味を俺は半分も分からない。
でも東堂は分かっている顔だった。分かりたくないものまで、たぶん全部。
「終わらせればいいでしょう」
東堂の声は低い。
「終わらせたくないなら、次を考えればいい。止まる理由にはならない」
作家が笑う。今度は、ほんの少しだけちゃんと。
「ひどいこと言うよね、相変わらず」
「甘いこと言って原稿が出るなら、いくらでも言いますよ」
言葉は冷たい。
けれど、その冷たさに見捨てる響きはなかった。
東堂はベンチの前にしゃがみ込む。
編集長が作家の前で膝を折る。その構図が、一瞬だけ現実味を失う。
「締切、今日の十八時に引き直します」
「今日?」
「はい」
「無茶だよ」
「知ってます」
東堂はそこでやっと、小さく息を吐いた。
「だから俺も一緒にやります」
作家が黙る。
風の音だけが、少し長く続く。
「……東堂くん」
「何ですか」
「そういうとこ、嫌いじゃない」
「告白なら原稿出してからにしてください」
返しが雑で、作家が吹き出す。
その瞬間、少しだけ空気が戻ったのが分かった。
俺は立ったまま、息を吐く。
すごいと思った。
素直に。
ただ探して連れ戻すだけじゃない。
怒鳴るでもなく、慰めるでもなく、ちゃんと逃げ道を潰しながら、一緒に戻る理由を作っている。
それが東堂の仕事なんだと思った。
作家をなんとか編集部に戻し、空いていた打ち合わせ室をひとつ確保し、アシスタントと連絡を繋ぎ、必要な資料だけを机に並べる。東堂はそこまでを一気にやってから、ようやく俺を振り返った。
「赤坂」
「はい」
「お前、議事録取れ」
「今からですか」
「今だからだろ」
やっぱり容赦がない。
けれど、今はそれが少しだけありがたい。
東堂が作家の前に座る。
いつもの編集長席じゃない。作家と同じ机の高さで、ノートを開き、ペンを持つ。
「じゃあ、三章のラストから」
作家が呻く。
「そこから?」
「そこ逃げたら、次も逃げるでしょ」
「鬼」
「売れてるんだから今さら」
そんなやり取りが続くうちに、少しずつ言葉が動き出した。
止まっていたものが、東堂の問いに押し出されるみたいに机の上へ出てくる。断片的なセリフ。場面の温度。主人公が見ている景色。感情ではなく、輪郭だけのまだ柔らかいもの。
俺は必死で書き留める。
途中から、これは議事録じゃないと思った。
もっと生っぽい何かだ。まだ原稿になる前の、むき出しの熱。
東堂はそれを拾うのが異様にうまかった。
「今のいいです、もう一回」
「それは捨てないで」
「そこ、主人公じゃなくて先生の本音でしょう」
「うるさいな」
「図星なら使います」
容赦なくて、でも楽しそうだ。
いや、楽しそうというより、生きている顔をしていた。
初めて見るわけじゃないはずなのに、そう思った。
いつも仕事をしている東堂しか知らないはずなのに、その“仕事”の中にこんな顔があることを、俺は知らなかった。
結局、原稿の骨子がまとまったのは夕方ぎりぎりだった。
作家はぐったりしていたし、俺も手が少し痺れていた。東堂だけが、疲れているくせに背筋を崩さなかった。
「今日はここまで。続きは明日、朝一」
作家が机に突っ伏したまま言う。
「東堂くん、あんたほんと人じゃない」
「人だからこんな面倒見てるんでしょう」
返しながら、東堂はペットボトルの水を投げるみたいに渡した。
その雑さの中にだけ、妙なやさしさがある。
作家を見送り、会議室に二人きりになった頃には、さすがに肩の力が抜けていた。
窓の外はもう暗い。
編集部の照明だけが白い。
俺はノートを閉じて、指先を軽く揉む。
「……すごいですね」
気づけば言っていた。
東堂は椅子にもたれたまま、少しだけ眉を動かす。
「何が」
「探しに行って、戻して、書かせて。ああいうの、普通にできることじゃないです」
東堂はしばらく黙って、それから鼻で息を抜いた。
「できてないだろ」
「いや」
「できてたら、そもそも飛ばさせてない」
その言い方が、あまりに東堂らしくて笑いそうになる。
すごかった、と言ったことを、素直に受け取る気がない。
「十分できてましたよ」
今度は少しだけ強く言うと、東堂は初めてちゃんとこっちを見た。
視線が合う。
昼間みたいな硬さはなかった。
夜の会議室でしか出ない、少し温度の低い顔だった。
「……お前」
「はい」
「今日のメモ、後で俺にも送れ」
「そこは褒めるところじゃないんですか」
言うと、東堂の口元がわずかに緩んだ。
「調子に乗るな」
久しぶりに聞くそれが、なぜか少し嬉しい。
嬉しいと思った瞬間に、自分でうんざりする。
「東堂さん」
「何」
「この前、なんで切ったんですか」
聞くつもりはなかった。
なかったのに、今日一日あの背中を見てしまったら、どうしても飲み込めなかった。
東堂の表情が、ぴたりと止まる。
会議室の空調音だけが急に近くなる。
「切ってない」
「じゃあ、距離取ったじゃないですか」
「……仕事だった」
「今も仕事です」
言い返した途端、少しだけ後悔した。
でも東堂は怒らない。
怒らない代わりに、視線だけが薄く冷える。
「お前、俺が何考えてるか知りたいの」
その言い方がずるい。
知りたいなんて、言えるわけがない。
言った瞬間、何かが変わる。
たぶん戻せない方へ。
黙った俺に、東堂は視線を外す。
「知らなくていいこともある」
それで終わらせるつもりなのが分かった。
分かったのに、今日はそれで終わらせたくなかった。
「……それ、逃げてるの東堂さんじゃないですか」
言った瞬間、空気が変わる。
東堂の目が細くなる。
やばいと思う。
でも遅い。
数秒の沈黙のあと、東堂は低く言う。
「そうだとして」
返ってくると思わなかった。
息が止まる。
東堂は机の上の俺のノートを指先で軽く叩いた。
「それでもお前、まだここにいるだろ」
責めているようで、違う。
確認しているようで、それだけでもない。
心臓のあたりが浅くなる。
昼間、河川敷で見た背中が頭をよぎる。
完璧じゃない。怖がっている。失うことに慣れていない人の顔だった。
その弱さを知ってしまったせいで、前みたいにただ嫌うことができない。
最悪だ。
「……仕事ですから」
やっとそれだけ返すと、東堂は少しだけ笑った。
今度は見間違いじゃない。
「そういうことにしとけ」
その返しが、妙に優しかった。
会議室を出る時、東堂が後ろから言う。
「赤坂」
振り返る。
「今日のこと、他に言うな」
「作家さんのことですか」
「それも」
東堂は少しだけ間を置いた。
「……俺が探しに行ったことも」
そこまで言うんだ、と思う。
格好悪いと思ってるのかもしれない。
見せたくないのかもしれない。
どっちでもいい。たぶん、その両方だ。
「言いませんよ」
返すと、東堂は小さく頷いた。
たったそれだけ。
でも、その一言で、自分が急に何かを預かった気がした。
秘密、というには大げさで、仕事、というには少し熱い。
エレベーターを待つ間、俺はスマホを握ったまま立っていた。
今日は連絡が来ても、たぶん呼吸は乱れない。
そう思ったのに、ポケットの中で震えた瞬間にはやっぱりすぐ画面を見てしまう。
東堂だった。
メモ助かった。あと、今日のことは助かった。
短い文面。
余計な言葉はない。
でも最後の一行だけが、やけに重い。
助かった。
そんなの、こっちの台詞なのに。
俺はしばらく立ち尽くしてから、短く返した。
了解です。明日の資料、先に整えておきます。
送信して、すぐに自分で苦笑する。
了解です、じゃない。
助かったって言われたのに。
でもそれ以上の返し方を知らない。
エレベーターの扉が閉まる。
金属に映る自分の顔は疲れていたけれど、少しだけ、前よりましだった。
上司と部下。
それだけのままでいたいのに、今日ひとつだけ、それ以外のものを手渡された気がする。
共犯。
そんな言葉が、ふと頭をかすめた。
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