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第七章 業務外
取材が予定より長引いたのは、半分は相手のせいで、もう半分は東堂のせいだった。
相手はよく喋る人で、ひとつ答えるたびに話が枝分かれしていく。
東堂はそれを途中で切らない。むしろ面白がるみたいに、予定していた質問の外まで拾っていく。
おかげで、店を出た頃には空がすっかり夜だった。
「終わった……」
駅前のロータリーで、思わずそう漏らすと、東堂が腕時計を見た。
「終わってない」
「いや、取材は終わりましたよね」
「ここから整理だろ」
容赦がない。
でも今日は、それに腹が立つより先に、足の疲れの方が勝っていた。
革靴の中で足先がじんわり熱い。肩から提げた鞄も、朝よりずっと重くなっている。
改札の表示を見上げて、俺は息を止めた。
「……うわ」
「何」
「終電、なくなってます」
東堂も表示を見る。
一拍置いて、「ほんとだな」とだけ言った。
もっと何かあると思ったのに、あまりにも普通の返しで、逆に気が抜ける。
「どうするんですか」
「タクシー拾うか、始発まで潰すか」
「編集部戻ります?」
「戻りたくない顔してる」
図星だった。
取材ノートをまとめるだけなら、どこでもできる。
わざわざまた会社の蛍光灯の下に戻る気力は、正直、もう残っていない。
東堂は少しだけ周囲を見回して、それから駅前の通りを顎で示した。
「あっち、まだ空いてる店ある」
「店って」
「飯でも食え」
言い方が雑だ。
でも、それがありがたかった。
遅い時間まで開いている喫茶店は、駅の喧騒から少し外れたところにあった。
木のテーブルと、黄ばんだ照明と、メニューの端が少しだけ擦り切れている感じが、妙に落ち着く。
向かい合って座ると、やっと息が戻る。
店員にコーヒーと軽食を頼んでから、東堂が鞄の中からレコーダーを取り出した。
完全に仕事を続ける気だ。
「今やるんですか」
「明日楽したいなら今日やれ」
「夢も希望もないな……」
「そんなものを仕事に持ち込むな」
口ではそう言うくせに、東堂は俺の前に水の入ったグラスを寄せた。
自分の分じゃなく、俺の方へ。
そういうところが、ずるい。
レコーダーの再生ボタンを押す。
店内の静かなジャズの向こうで、昼間の取材音声が流れ始める。
相手の笑い声。
東堂の低い問いかけ。
俺の、まだ少し硬い相槌。
「三十分だけ区切るぞ」
「はい」
「途中で寝るなよ」
「寝ません」
「顔がもう半分寝てる」
失礼だ。
でも、否定しきれないくらいには眠かった。
最初のうちは普通に作業をしていた。
重要そうな箇所に印をつけて、使えそうなエピソードを抜き出して、構成の流れだけ先に軽く立てる。
東堂は作業が速い。
迷いなく必要なものと捨てるものを分けていく。
横で見ていると、まるで取材の時点で頭の中に一本の線が引かれているみたいだった。
「……すごいですね」
つい口に出ると、東堂は視線も上げずに答えた。
「今さら?」
「いや、なんか」
「なんかで済ませるな」
「まとめるの速いなと思って」
「お前も遅くはない」
意外な言葉だった。
顔を上げると、東堂はノートに何かを書き込みながら続ける。
「前より、話の芯を掴むのが早くなった」
褒められている。
たぶん。
たぶん、なのがこの人らしい。
「それ、素直に褒めたら死ぬルールでもあるんですか」
「褒めてるだろ」
「足りないです」
「図々しいな」
それでも東堂の口元はほんの少し緩んでいた。
コーヒーが運ばれてくる。
湯気が立つ。
その匂いが、取材の緊張で固まっていた肩のあたりを少しだけほぐした。
しばらく無言で作業してから、俺はふと窓の外を見た。
終電を逃した人たちが、駅前の明かりの下を急ぎ足で横切っていく。誰も彼も、帰る場所へ向かう顔をしていた。
俺たちだけが、まだ途中にいる。
そんな感覚が、少しだけ変だった。
「赤坂」
「はい」
「そこ、何止まってる」
「あ、いや」
慌てて視線を落とす。
「……これ、仕事ですか」
言ってから、自分で何を聞いてるんだと思った。
でも東堂は笑わなかった。
すぐに答えもしない。
カップの縁に指をかけたまま、少しだけ考える顔をして、それから淡く返す。
「そう思うなら、そうしとけ」
否定しない。
肯定もしない。
ずるい。
「一番嫌な答え方」
「便利だろ」
「自分だけ」
東堂が鼻で笑う。
それだけなのに、空気が少し軽くなる。
作業が一段落したところで、東堂がメニューを閉じた。
「甘いもの食うか」
「急にどうしたんですか」
「お前、頭使うと糖分欲しがるだろ」
息が止まりかける。
「……なんで知ってるんですか」
「会議のあと、だいたいコンビニで変なチョコ買ってる」
変なチョコとは失礼だ。
でも反論する前に、自分がたしかにそうしていたことを思い出してしまう。
「見てたんですか」
「視界に入る」
言い方は素っ気ない。
でも、それはつまり見ていたってことだ。
東堂は勝手にケーキのページを開いて、俺の方に寄せた。
「どれ」
「自分で決めてくださいよ」
「外したら文句言うだろ」
「言いますね」
「だから聞いてる」
仕方なくメニューを見る。
モンブランとチーズケーキで少し迷って、結局チーズケーキを指した。
東堂は店員を呼び、俺の分だけ注文した。
自分の分は増やさない。
「東堂さんは食べないんですか」
「いらない」
「甘いもの苦手ですか」
「別に」
「じゃあ何で」
「今はコーヒーでいい」
そこで会話が切れた。
でも、切れ方が嫌じゃなかった。
ケーキが来るまでの間、また少し仕事の話をした。
昼間の取材相手が、実はかなり神経質なタイプだとか、次の打ち合わせでは最初に雑談を長めに入れた方がいいとか、原稿に落とす時は熱量より生活感を先に立てた方が売り場で強いとか。
東堂の話は、厳しいくせに実務的で、聞いていると腹が立つより先に面白くなってくる時がある。
「赤坂」
「はい」
「お前、経理の時は何が楽しかった」
思いがけない質問だった。
「楽しいっていうか」
「嫌いではなかったんだろ」
チーズケーキが運ばれてくる。
白い皿の上で、少しだけ艶のある表面が揺れた。
俺はフォークを持ったまま、少しだけ考える。
「……数字が合った時は、気持ちよかったです」
「分かる」
意外すぎて顔を上げる。
「分かるんですか」
「終わるべきところで終わるのは、だいたい気持ちいい」
東堂らしい答えだった。
「でも編集は、終わらないですよね」
「終わらせる仕事だからな」
「そのくせ、途中が多すぎません?」
「だから面白いんだろ」
そう言う東堂の顔は、少しだけやわらかかった。
昼間、原稿や会議の前で見せる鋭さとは違う。
ちゃんと疲れていて、でもその疲れを嫌っていない顔。
俺はチーズケーキをひと口食べる。
思ったより濃くて、少しだけ笑いそうになる。
「何」
「いや、ちゃんとおいしいなと思って」
「子どもみたいな感想だな」
「選ばせたのそっちでしょう」
「外してないならいいだろ」
そういうやり取りを、何度か繰り返した。
たぶん傍から見たら、普通の上司と部下には見えなかったと思う。
仕事の延長みたいな顔をしているのに、どこかだけが業務外にずれている。
それが妙に落ち着かなくて、でも、嫌じゃない。
店を出たあと、始発まではまだ少し時間があった。
「どうします」
「歩くか」
駅裏の通りを抜けて、俺たちはゆっくり歩いた。
夜風は少し冷たかったけれど、喫茶店のコーヒーの熱がまだ喉の奥に残っている。
大きな書店の前を通ると、東堂が足を止めた。
「寄る」
「今?」
「今だからだろ」
またそれだ。
でも嫌いじゃない。
深夜営業の書店は、昼間より静かで、棚の間の空気まで少し濃い。
東堂は迷いなく文芸の棚へ向かい、俺はその後ろをついていく。
「お前、これ読んだことある?」
不意に差し出された文庫本を見る。
タイトルは知っているけれど、読んだことはなかった。
「ないです」
「じゃあ読め」
「命令ですか」
思わず返すと、東堂が一瞬だけ動きを止める。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「おすすめだ」
その言い換えが妙に残る。
東堂は結局、その文庫を二冊レジへ持っていった。
一冊は自分のもの。もう一冊は、俺の鞄に当然みたいに入れられる。
「返します」
「読んでから言え」
「読み終わらなかったら」
「読め」
そう言い切られて、腹が立つより先に、少しだけ嬉しかった。
駅へ戻る道で、並んだ影が街灯の下に細く伸びる。
上司と部下。
まだ、その形のままのはずなのに、さっきより少しだけ輪郭が曖昧だった。
ホームに着く頃には、始発の表示が出ていた。
電車を待つ数分のあいだ、俺たちは何も話さなかった。
でも沈黙は重くない。
東堂が缶コーヒーを一本買って、無言のまま俺に寄越す。
「……ありがとうございます」
「今日は使ったからな」
「人を備品みたいに言わないでください」
「否定できるくらい働いた?」
「してますよ」
そんなやり取りのあと、電車が滑り込んできた。
ドアが開く。
乗り込む直前、東堂が低く言う。
「赤坂」
「はい」
「今日のメモ、昼までに送れ」
「はい」
「あと」
一拍、間が空く。
「チーズケーキ、食ったあと少し顔がましだった」
意味が分からなくて固まる。
「……何ですか、それ」
「そのままの意味」
東堂はそれ以上言わず、先に車内へ入っていった。
俺はホームに一瞬だけ取り残されたみたいに立ち尽くして、それから慌てて乗り込む。
向かい合う吊り革の下で、東堂はいつも通りの顔をしていた。
仕事の顔。何もなかったみたいな顔。
なのに、さっきの一言だけが、夜の終わりに引っかかったまま落ちない。
遊ばれてるのかもしれない。
振り回されているだけかもしれない。
それでも。
今日のこれは、ただの取材の延長じゃなかったと、どこかが知っていた。
発車ベルが鳴る。
電車がゆっくり動き出す。
窓に映る自分の顔は疲れていたけれど、少しだけ、昨日までより息がしやすかった。
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