9 / 11

第八章 近い

東堂にもらった文庫は、思っていたより静かな小説だった。 派手な事件は起きない。 台詞も少ない。 なのに、読み終わったあと、胸の奥に薄い熱だけが残った。 終わるべきところで終わらない感情がある。 言わないまま、でも消えないものがある。 そういう話だった。 返すタイミングを何度か逃して、結局その本は三日くらい鞄の中に入ったままだった。 編集部は相変わらず忙しかった。 大型案件の火消しの余韻がまだフロアの端に残っていて、誰かが立て直した企画の上に、誰かの修正依頼がまた積まれていく。 俺も、新しく振られた案件を回しながら、空いた時間で原稿を読んで、企画メモを直して、取材のまとめを作っていた。 前より、東堂に赤を入れられる回数は減った。 減ったのに、ゼロにはならない。 そこが、いちばんずるい。 「赤坂」 夕方、背後から呼ばれる。 振り返る前に、声の高さで分かるようになってしまった自分が嫌だった。 「この見出し、詰めろ」 差し出されたゲラを見る。 二行ぶんの見出しに、東堂の赤字が一本だけ入っていた。 内容としては間違っていない。でも、確かに少し弱い。 「まだ逃げてる」 言われて、むっとする。 「逃げてません」 「じゃあ守ってる」 「何を」 東堂は答えず、ペン先でその一文を叩いた。 「お前、こういう時、意味を正しくしようとするだろ」 「駄目ですか」 「駄目じゃない。弱いだけ」 ひどい言い方だと思う。 でも、言われた箇所を見返すと、否定しきれない。 当たり障りがない。 誰にも反発されない。 その代わり、誰の胸にも引っかからない。 東堂は俺の返事を待たず、自分の席へ戻ろうとした。 その背中を見て、気づけば声をかけていた。 「東堂さん」 足が止まる。 「この前の本」 「ああ」 「読みました」 それだけ言うつもりだった。 返します、でも、面白かったです、でもなく、ただそれだけ。 東堂は少しだけ振り返って、俺の顔を見た。 「で」 「……静かでした」 「感想が雑だな」 「分かってます」 「他は」 質問されて、少し困る。 あの本について言葉にしようとすると、どこかだけすぐに自分の話へ寄ってしまう気がした。 「終わってるはずなのに、終わってない感じがしました」 言ってから、我ながら曖昧だと思う。 でも東堂は笑わなかった。 「そういう話だからな」 短い返事。 それなのに、妙に呼吸が引っかかった。 東堂は一拍置いてから続ける。 「返さなくていい」 「え」 「持っとけ」 また当然みたいに言う。 困る。 そういう扱いが、一番困る。 「……仕事の資料じゃないのに」 「本くらいくれてやる」 「そういう言い方」 「嫌なら捨てろ」 捨てるわけがないのを知っていて言うのが、最悪だった。 「捨てませんよ」 「ならいいだろ」 それで会話は切れた。 切れたのに、そのあとしばらく、ページをめくる手が少しだけ遅くなった。 夜になって、フロアの人影が減り始める。 今日は校了前の確認が何本か重なっていて、残る人間も多いはずだったのに、一本の案件が急に後ろ倒しになったせいで、思ったより早く席が空いていった。 先輩編集が鞄を肩にかけながら言う。 「赤坂くん、見出しの最終確認できたら上がっていいよ」 「はい」 「東堂さんにも一応共有しといて」 それだけ言って帰っていく。 気づけば、残っているのは俺と東堂、それからデザイン部の一人だけだった。 その人も、しばらくするとフロアの奥へ消える。 照明が少し落ちる。 複合機の作動音も止まる。 編集部の夜は、いつも少しだけ現実味が薄い。 俺は見出しの修正案を三パターン作って、ノートパソコンの画面を見比べた。 正しいのは一番上だ。 でも、東堂が選ぶのはたぶん違う。 そう思ってしまう時点で、もうかなり教育されている気がして、少しだけ腹が立つ。 「終わったか」 いつの間にか、東堂が俺の席の横に立っていた。 「……気配消さないでください」 「消してない」 「消えてました」 東堂は俺の画面を覗き込む。 距離が近い。 ただそれだけで、肩の内側が少しだけ強張る。 「三つ目」 「やっぱり」 「何だよ、その顔」 「いや、そうだろうなと思って」 「理由は」 「言い切ってるからです。逃げてない」 東堂が小さく息を抜く。 たぶん、それは肯定だった。 「で、出すのは」 「三つ目です」 「最初からそうしろよ」 「自信ない時もあるんです」 「自信がないなら、なおさら守るな」 言いながら、東堂の指がキーボードの横へ伸びる。 画面上の語尾を一箇所だけ直すために、その手が俺の手首のすぐそばを通った。 触れてはいない。 たぶん。 でも、近い。 指先が通っただけの空気まで分かる距離だった。 息が詰まりそうになって、思わず言う。 「……近いです」 東堂の手が止まる。 数センチ先にある指先だけが静かだ。 「嫌なら離れろ」 前にも聞いた台詞だった。 でも、今は意味が少し違う。 立ち上がればいい。 椅子を引けばいい。 ほんの少し体をずらすだけで、この距離は消える。 なのに、動けない。 動けない自分に腹が立つ。 「何でそういう言い方するんですか」 気づけば、少し低い声になっていた。 東堂は画面から目を上げる。 視線が合う。 「どんな言い方ならいい」 「そういう問題じゃなくて」 「じゃあ何だよ」 困る。 困るのに、東堂は目を逸らさない。 昼間のフロアで向けられる仕事の目じゃない。 夜の編集部でしか出てこない、少し温度の低い顔だった。 「……分かってるくせに」 先に言ったのは、東堂だった。 何を。 そう返したかったのに、喉がうまく動かない。 東堂はそのまま、もう一度画面へ目を落とした。 修正した語尾を確定して、パソコンを閉じる。 「会議室」 「え」 「最終確認。紙で見る」 それだけ言って、返事も待たずに歩き出す。 完全に仕事の指示だ。 少なくとも、形の上では。 俺は数秒だけ迷って、それから資料を抱えて立ち上がった。 会議室の中は、昼間より少し冷えていた。 窓の向こうに見えるビルの灯りが、ガラスに薄く反射している。 机の上に資料を広げると、紙の白さだけが浮き上がった。 東堂は向かいに座るかと思った。 でも実際には、俺の隣に立った。 肩越しに覗き込める位置。 椅子ひとつぶんの逃げ道が、最初からない場所。 「ここ」 東堂の指が、見出しの端を示す。 「この改行、もう一段上」 「……はい」 俺はマウスを動かして、データ上の改行位置を直す。 東堂の袖が、肘の外側に軽く触れた。 一瞬。 本当に一瞬だった。 でも、その一瞬で思考が全部飛ぶ。 「手、止まってる」 低い声が真横に落ちる。 「……分かってます」 「分かってないだろ」 東堂の指先が、今度はマウスを持つ俺の手の上に重なった。 教えるため。 操作を奪うため。 仕事なら、それで説明がつく触れ方だった。 なのに、体が先に熱を持つ。 「東堂さん」 「何」 「これ、必要ですか」 「仕事に」 即答だった。 ずるい。 仕事という言葉を盾にする。 でも本当にそれだけなら、こんなに呼吸が乱れるはずがない。 東堂は重ねた手をすぐにはどけない。 マウスをほんの少し動かし、カーソルが見出しの上を滑る。 その間も、俺の手首には東堂の体温がある。 逃げたいわけじゃない。 でも、このままはまずいと思う。 思うだけで、立てない。 「赤坂」 名前を呼ばれる。 返事をする前に、東堂の指が離れた。 それだけで、急に皮膚が軽くなる。 軽くなったはずなのに、むしろそこだけが残る。 「ミスった時、まず引く癖あるだろ」 「……あります」 「今日もそうだった」 「だから、直したじゃないですか」 「そうじゃない」 東堂がほんの少しだけ身を屈める。 さっきより近い。 書類の紙一枚ぶんの向こうに、ネクタイの影が落ちる。 コーヒーと紙と、少しだけ煙草の残った匂いがした。 「引いたあとに、逃げる」 「逃げてません」 「逃げてる」 「東堂さんにだけは言われたくないです」 気まずい沈黙が落ちると思った。 でも東堂は笑わなかった。 怒りもしない。 ただ、少しだけ目を細めた。 「言うようになったな」 「前から言ってます」 「前は、言ったあとすぐ引いてた」 それを言われると、何も返せない。 悔しくて黙ると、東堂はようやく一歩だけ離れた。 距離が戻る。 戻るのに、さっきまでの近さがなくならない。 「……終わりですか」 何の確認だったのか、自分でも分からなかった。 東堂は資料を閉じる。 「何が」 「確認」 「まだ」 そう言って、東堂は会議室のドアを閉めた。 小さな音だったのに、それだけで空気が変わる。 逃げ道がなくなったわけじゃない。 ドアなんて、こちらから開ければ済む。 でも、閉まる音を聞いた瞬間に、呼吸の位置が少しだけ変わる。 東堂は机に片手をついて、俺を見る。 「お前、何で残ってる」 「……仕事だからです」 「終わってる」 「終わってません」 「終わってる」 言い合っている内容は、たぶんどうでもいい。 言葉の表面だけが仕事をしていて、その下でまるで違うものが動いている。 それが分かるのに、止められない。 「じゃあ、東堂さんは何でいるんですか」 聞くと、東堂は一拍だけ黙った。 「編集長だから」 「便利ですね、その立場」 「便利だよ」 あっさり認める。 その返しに、少しだけ息を呑む。 否定しない。 ごまかさない。 だから余計にたちが悪い。 「俺は、それでしか従わせられない」 唐突だった。 意味を取るのが一瞬遅れる。 東堂は言ったあとで、自分で少しだけ顔をしかめた。 余計なことを漏らした人の顔だった。 会議室の静けさが、急に重くなる。 「……何ですか、それ」 「聞かなかったことにしろ」 「無理ですよ」 「なら忘れろ」 「もっと無理です」 俺がそう返すと、東堂はほんの少しだけ視線を逸らした。 その顔を、初めて見た気がした。 強いふりをしている人の、一瞬だけ守りが薄くなる顔。 息が浅くなる。 ずるいと思う。 そんなものを見せられたら、怒れなくなる。 「東堂さん」 呼ぶと、視線が戻る。 「それ、命令ですか」 言った瞬間、東堂の目が揺れた。 命令。 その言葉を、今の距離で口にしてしまったことを、遅れて実感する。 東堂はすぐには答えない。 沈黙だけが少し長く続く。 それから、ひどく静かな声で返す。 「そう思うなら、断れよ」 プロローグと同じ言葉が、今度は真正面から落ちてくる。 断れる。 断ってもいい。 ここで立ち上がって、会議室のドアを開けて、何もなかった顔で帰ればいい。 そうすれば、明日また上司と部下に戻れる。 仕事の顔で並べる。 あの一瞬の弱さも、さっきの触れ方も、全部なかったことにできる。 それなのに。 足も、喉も、動かない。 「……断ったら」 やっと出た声が、自分でも驚くほど掠れていた。 「東堂さん、困りますか」 東堂は机についた手に少しだけ力を入れた。 「困るな」 その答えが、いちばん残酷だった。 ごまかさない。 でも、引き止めない。 最後の一歩だけ、こっちに押しつける。 「最低です」 「知ってる」 「ずるい」 「今さらだろ」 そんな返事のくせに、東堂は動かない。 近いまま、待っている。 たぶん本当に、最後の選択だけは俺に預けている。 預けているふりをして、そうするしかないところまで追い込んでいる。 それが分かる。 分かるのに。 「……終業後も、命令ですか」 もう一度、今度は確かめるみたいに言う。 東堂は目を逸らさなかった。 「命令じゃない」 その答えが、胸の奥を鈍く打つ。 命令じゃない。 上司だからじゃない。 立場だけなら、まだ逃げられた。 逃げられるのに、逃げない。 そうなると、残る理由はもうひとつしかない。 苦しい。 腹が立つ。 でも、離れたくない。 その全部が同時に来て、息がうまくできない。 「嫌なら、やめろ」 低い声が落ちる。 やさしくない。 逃がす気がないくせに、最後のところだけ突き放す。 だから、腹が立つ。 腹が立つから、言えた。 「……やめません」 言ってから、心臓がひどく鳴る。 東堂の目がわずかに見開かれる。 その反応が、一瞬だけ嬉しかった自分が最悪だった。 次の瞬間、距離が消えた。 触れたのかどうか、分からない。 ただ、息が近い。 紙の匂いより、コーヒーの匂いより、東堂の体温の方が近い。 それだけで、十分だった。 東堂の指先が、机の上の資料を押さえるふりをして、俺の手の甲をかすめる。 ほんの一瞬。 でも、その一瞬で全部持っていかれる。 「……これ」 声がうまく続かない。 東堂はすぐそばで言う。 「何だよ」 「仕事じゃないですよね」 沈黙。 長いわけじゃない。 でも、一拍で世界が変わるには足りる時間だった。 東堂は低く息を吐く。 「最初から、そうだろ」 その答えを聞いた瞬間、もう戻れないと思った。 会議室のガラスに、近すぎる二人の影が薄く映っている。 上司と部下には見えない。 でも恋人と呼ぶにはまだ何も足りない。 その足りなさのまま、夜だけが少し深くなる。 どこまで踏み込んだのか、言葉にはできない。 ただ、会議室を出る頃には、指先の温度だけが妙に残っていた。 東堂は何事もなかったみたいに資料を抱えて、先に廊下へ出る。 背中はいつも通りで、仕事の顔に戻っている。 それがまた腹立たしいのに、責める声が出ない。 俺は数歩遅れて会議室を出た。 フロアはもう静かで、照明の白さばかりが浮いている。 終電の時間はたぶんぎりぎりで、走れば間に合うかもしれない。 でも今は、帰ることより先に考えることが多すぎた。 命令じゃない。 その言葉だけが、夜の奥でいつまでも消えなかった。

ともだちにシェアしよう!