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第八章 近い
東堂にもらった文庫は、思っていたより静かな小説だった。
派手な事件は起きない。
台詞も少ない。
なのに、読み終わったあと、胸の奥に薄い熱だけが残った。
終わるべきところで終わらない感情がある。
言わないまま、でも消えないものがある。
そういう話だった。
返すタイミングを何度か逃して、結局その本は三日くらい鞄の中に入ったままだった。
編集部は相変わらず忙しかった。
大型案件の火消しの余韻がまだフロアの端に残っていて、誰かが立て直した企画の上に、誰かの修正依頼がまた積まれていく。
俺も、新しく振られた案件を回しながら、空いた時間で原稿を読んで、企画メモを直して、取材のまとめを作っていた。
前より、東堂に赤を入れられる回数は減った。
減ったのに、ゼロにはならない。
そこが、いちばんずるい。
「赤坂」
夕方、背後から呼ばれる。
振り返る前に、声の高さで分かるようになってしまった自分が嫌だった。
「この見出し、詰めろ」
差し出されたゲラを見る。
二行ぶんの見出しに、東堂の赤字が一本だけ入っていた。
内容としては間違っていない。でも、確かに少し弱い。
「まだ逃げてる」
言われて、むっとする。
「逃げてません」
「じゃあ守ってる」
「何を」
東堂は答えず、ペン先でその一文を叩いた。
「お前、こういう時、意味を正しくしようとするだろ」
「駄目ですか」
「駄目じゃない。弱いだけ」
ひどい言い方だと思う。
でも、言われた箇所を見返すと、否定しきれない。
当たり障りがない。
誰にも反発されない。
その代わり、誰の胸にも引っかからない。
東堂は俺の返事を待たず、自分の席へ戻ろうとした。
その背中を見て、気づけば声をかけていた。
「東堂さん」
足が止まる。
「この前の本」
「ああ」
「読みました」
それだけ言うつもりだった。
返します、でも、面白かったです、でもなく、ただそれだけ。
東堂は少しだけ振り返って、俺の顔を見た。
「で」
「……静かでした」
「感想が雑だな」
「分かってます」
「他は」
質問されて、少し困る。
あの本について言葉にしようとすると、どこかだけすぐに自分の話へ寄ってしまう気がした。
「終わってるはずなのに、終わってない感じがしました」
言ってから、我ながら曖昧だと思う。
でも東堂は笑わなかった。
「そういう話だからな」
短い返事。
それなのに、妙に呼吸が引っかかった。
東堂は一拍置いてから続ける。
「返さなくていい」
「え」
「持っとけ」
また当然みたいに言う。
困る。
そういう扱いが、一番困る。
「……仕事の資料じゃないのに」
「本くらいくれてやる」
「そういう言い方」
「嫌なら捨てろ」
捨てるわけがないのを知っていて言うのが、最悪だった。
「捨てませんよ」
「ならいいだろ」
それで会話は切れた。
切れたのに、そのあとしばらく、ページをめくる手が少しだけ遅くなった。
夜になって、フロアの人影が減り始める。
今日は校了前の確認が何本か重なっていて、残る人間も多いはずだったのに、一本の案件が急に後ろ倒しになったせいで、思ったより早く席が空いていった。
先輩編集が鞄を肩にかけながら言う。
「赤坂くん、見出しの最終確認できたら上がっていいよ」
「はい」
「東堂さんにも一応共有しといて」
それだけ言って帰っていく。
気づけば、残っているのは俺と東堂、それからデザイン部の一人だけだった。
その人も、しばらくするとフロアの奥へ消える。
照明が少し落ちる。
複合機の作動音も止まる。
編集部の夜は、いつも少しだけ現実味が薄い。
俺は見出しの修正案を三パターン作って、ノートパソコンの画面を見比べた。
正しいのは一番上だ。
でも、東堂が選ぶのはたぶん違う。
そう思ってしまう時点で、もうかなり教育されている気がして、少しだけ腹が立つ。
「終わったか」
いつの間にか、東堂が俺の席の横に立っていた。
「……気配消さないでください」
「消してない」
「消えてました」
東堂は俺の画面を覗き込む。
距離が近い。
ただそれだけで、肩の内側が少しだけ強張る。
「三つ目」
「やっぱり」
「何だよ、その顔」
「いや、そうだろうなと思って」
「理由は」
「言い切ってるからです。逃げてない」
東堂が小さく息を抜く。
たぶん、それは肯定だった。
「で、出すのは」
「三つ目です」
「最初からそうしろよ」
「自信ない時もあるんです」
「自信がないなら、なおさら守るな」
言いながら、東堂の指がキーボードの横へ伸びる。
画面上の語尾を一箇所だけ直すために、その手が俺の手首のすぐそばを通った。
触れてはいない。
たぶん。
でも、近い。
指先が通っただけの空気まで分かる距離だった。
息が詰まりそうになって、思わず言う。
「……近いです」
東堂の手が止まる。
数センチ先にある指先だけが静かだ。
「嫌なら離れろ」
前にも聞いた台詞だった。
でも、今は意味が少し違う。
立ち上がればいい。
椅子を引けばいい。
ほんの少し体をずらすだけで、この距離は消える。
なのに、動けない。
動けない自分に腹が立つ。
「何でそういう言い方するんですか」
気づけば、少し低い声になっていた。
東堂は画面から目を上げる。
視線が合う。
「どんな言い方ならいい」
「そういう問題じゃなくて」
「じゃあ何だよ」
困る。
困るのに、東堂は目を逸らさない。
昼間のフロアで向けられる仕事の目じゃない。
夜の編集部でしか出てこない、少し温度の低い顔だった。
「……分かってるくせに」
先に言ったのは、東堂だった。
何を。
そう返したかったのに、喉がうまく動かない。
東堂はそのまま、もう一度画面へ目を落とした。
修正した語尾を確定して、パソコンを閉じる。
「会議室」
「え」
「最終確認。紙で見る」
それだけ言って、返事も待たずに歩き出す。
完全に仕事の指示だ。
少なくとも、形の上では。
俺は数秒だけ迷って、それから資料を抱えて立ち上がった。
会議室の中は、昼間より少し冷えていた。
窓の向こうに見えるビルの灯りが、ガラスに薄く反射している。
机の上に資料を広げると、紙の白さだけが浮き上がった。
東堂は向かいに座るかと思った。
でも実際には、俺の隣に立った。
肩越しに覗き込める位置。
椅子ひとつぶんの逃げ道が、最初からない場所。
「ここ」
東堂の指が、見出しの端を示す。
「この改行、もう一段上」
「……はい」
俺はマウスを動かして、データ上の改行位置を直す。
東堂の袖が、肘の外側に軽く触れた。
一瞬。
本当に一瞬だった。
でも、その一瞬で思考が全部飛ぶ。
「手、止まってる」
低い声が真横に落ちる。
「……分かってます」
「分かってないだろ」
東堂の指先が、今度はマウスを持つ俺の手の上に重なった。
教えるため。
操作を奪うため。
仕事なら、それで説明がつく触れ方だった。
なのに、体が先に熱を持つ。
「東堂さん」
「何」
「これ、必要ですか」
「仕事に」
即答だった。
ずるい。
仕事という言葉を盾にする。
でも本当にそれだけなら、こんなに呼吸が乱れるはずがない。
東堂は重ねた手をすぐにはどけない。
マウスをほんの少し動かし、カーソルが見出しの上を滑る。
その間も、俺の手首には東堂の体温がある。
逃げたいわけじゃない。
でも、このままはまずいと思う。
思うだけで、立てない。
「赤坂」
名前を呼ばれる。
返事をする前に、東堂の指が離れた。
それだけで、急に皮膚が軽くなる。
軽くなったはずなのに、むしろそこだけが残る。
「ミスった時、まず引く癖あるだろ」
「……あります」
「今日もそうだった」
「だから、直したじゃないですか」
「そうじゃない」
東堂がほんの少しだけ身を屈める。
さっきより近い。
書類の紙一枚ぶんの向こうに、ネクタイの影が落ちる。
コーヒーと紙と、少しだけ煙草の残った匂いがした。
「引いたあとに、逃げる」
「逃げてません」
「逃げてる」
「東堂さんにだけは言われたくないです」
気まずい沈黙が落ちると思った。
でも東堂は笑わなかった。
怒りもしない。
ただ、少しだけ目を細めた。
「言うようになったな」
「前から言ってます」
「前は、言ったあとすぐ引いてた」
それを言われると、何も返せない。
悔しくて黙ると、東堂はようやく一歩だけ離れた。
距離が戻る。
戻るのに、さっきまでの近さがなくならない。
「……終わりですか」
何の確認だったのか、自分でも分からなかった。
東堂は資料を閉じる。
「何が」
「確認」
「まだ」
そう言って、東堂は会議室のドアを閉めた。
小さな音だったのに、それだけで空気が変わる。
逃げ道がなくなったわけじゃない。
ドアなんて、こちらから開ければ済む。
でも、閉まる音を聞いた瞬間に、呼吸の位置が少しだけ変わる。
東堂は机に片手をついて、俺を見る。
「お前、何で残ってる」
「……仕事だからです」
「終わってる」
「終わってません」
「終わってる」
言い合っている内容は、たぶんどうでもいい。
言葉の表面だけが仕事をしていて、その下でまるで違うものが動いている。
それが分かるのに、止められない。
「じゃあ、東堂さんは何でいるんですか」
聞くと、東堂は一拍だけ黙った。
「編集長だから」
「便利ですね、その立場」
「便利だよ」
あっさり認める。
その返しに、少しだけ息を呑む。
否定しない。
ごまかさない。
だから余計にたちが悪い。
「俺は、それでしか従わせられない」
唐突だった。
意味を取るのが一瞬遅れる。
東堂は言ったあとで、自分で少しだけ顔をしかめた。
余計なことを漏らした人の顔だった。
会議室の静けさが、急に重くなる。
「……何ですか、それ」
「聞かなかったことにしろ」
「無理ですよ」
「なら忘れろ」
「もっと無理です」
俺がそう返すと、東堂はほんの少しだけ視線を逸らした。
その顔を、初めて見た気がした。
強いふりをしている人の、一瞬だけ守りが薄くなる顔。
息が浅くなる。
ずるいと思う。
そんなものを見せられたら、怒れなくなる。
「東堂さん」
呼ぶと、視線が戻る。
「それ、命令ですか」
言った瞬間、東堂の目が揺れた。
命令。
その言葉を、今の距離で口にしてしまったことを、遅れて実感する。
東堂はすぐには答えない。
沈黙だけが少し長く続く。
それから、ひどく静かな声で返す。
「そう思うなら、断れよ」
プロローグと同じ言葉が、今度は真正面から落ちてくる。
断れる。
断ってもいい。
ここで立ち上がって、会議室のドアを開けて、何もなかった顔で帰ればいい。
そうすれば、明日また上司と部下に戻れる。
仕事の顔で並べる。
あの一瞬の弱さも、さっきの触れ方も、全部なかったことにできる。
それなのに。
足も、喉も、動かない。
「……断ったら」
やっと出た声が、自分でも驚くほど掠れていた。
「東堂さん、困りますか」
東堂は机についた手に少しだけ力を入れた。
「困るな」
その答えが、いちばん残酷だった。
ごまかさない。
でも、引き止めない。
最後の一歩だけ、こっちに押しつける。
「最低です」
「知ってる」
「ずるい」
「今さらだろ」
そんな返事のくせに、東堂は動かない。
近いまま、待っている。
たぶん本当に、最後の選択だけは俺に預けている。
預けているふりをして、そうするしかないところまで追い込んでいる。
それが分かる。
分かるのに。
「……終業後も、命令ですか」
もう一度、今度は確かめるみたいに言う。
東堂は目を逸らさなかった。
「命令じゃない」
その答えが、胸の奥を鈍く打つ。
命令じゃない。
上司だからじゃない。
立場だけなら、まだ逃げられた。
逃げられるのに、逃げない。
そうなると、残る理由はもうひとつしかない。
苦しい。
腹が立つ。
でも、離れたくない。
その全部が同時に来て、息がうまくできない。
「嫌なら、やめろ」
低い声が落ちる。
やさしくない。
逃がす気がないくせに、最後のところだけ突き放す。
だから、腹が立つ。
腹が立つから、言えた。
「……やめません」
言ってから、心臓がひどく鳴る。
東堂の目がわずかに見開かれる。
その反応が、一瞬だけ嬉しかった自分が最悪だった。
次の瞬間、距離が消えた。
触れたのかどうか、分からない。
ただ、息が近い。
紙の匂いより、コーヒーの匂いより、東堂の体温の方が近い。
それだけで、十分だった。
東堂の指先が、机の上の資料を押さえるふりをして、俺の手の甲をかすめる。
ほんの一瞬。
でも、その一瞬で全部持っていかれる。
「……これ」
声がうまく続かない。
東堂はすぐそばで言う。
「何だよ」
「仕事じゃないですよね」
沈黙。
長いわけじゃない。
でも、一拍で世界が変わるには足りる時間だった。
東堂は低く息を吐く。
「最初から、そうだろ」
その答えを聞いた瞬間、もう戻れないと思った。
会議室のガラスに、近すぎる二人の影が薄く映っている。
上司と部下には見えない。
でも恋人と呼ぶにはまだ何も足りない。
その足りなさのまま、夜だけが少し深くなる。
どこまで踏み込んだのか、言葉にはできない。
ただ、会議室を出る頃には、指先の温度だけが妙に残っていた。
東堂は何事もなかったみたいに資料を抱えて、先に廊下へ出る。
背中はいつも通りで、仕事の顔に戻っている。
それがまた腹立たしいのに、責める声が出ない。
俺は数歩遅れて会議室を出た。
フロアはもう静かで、照明の白さばかりが浮いている。
終電の時間はたぶんぎりぎりで、走れば間に合うかもしれない。
でも今は、帰ることより先に考えることが多すぎた。
命令じゃない。
その言葉だけが、夜の奥でいつまでも消えなかった。
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