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第九章 ずるい人
翌朝、東堂はいつも通りだった。
朝礼の確認。
新着メールの振り分け。
机の上に積まれたゲラを順番に崩していく手つきまで、昨日の夜なんて最初から存在しなかったみたいに整っている。
俺だけが、少し寝不足だった。
会議室の冷えた空気も、机の上に落ちた影も、近すぎた息も、ぜんぶ覚えている。
忘れられるほど器用じゃないのに、当の本人は一度もこちらを見ない。
それが、妙に腹立たしかった。
でも、腹が立つからって仕事は待ってくれない。
午前中は新規企画の校正と、取材記事の構成確認が重なっていた。
俺は自分のデスクで原稿を開き、見出しの順番を入れ替えて、本文との温度差を整えていく。
昨日までなら迷った箇所も、今日は少しだけ決めやすい。
逃げるな。
守るな。
言い切れ。
東堂に散々言われてきた言葉が、勝手に頭の中で並ぶ。
それ自体が腹立たしいのに、役に立ってしまうからなおさら悔しい。
「赤坂」
呼ばれて顔を上げる。
先輩編集が一枚のメモを持って立っていた。
「この作家さんの返信、今日中に東堂さん確認まで回しておいて」
「はい」
「あと、昨日の取材記事、先に社内共有流しちゃって」
「分かりました」
言われた通りにデータを整え、本文を最終チェックする。
引用の確認、キャプションの位置、クレジットの順番。そこまでは問題なかった。
送信ボタンを押す寸前で、別の電話に取られた。
そのまま別件の問い合わせに対応し、戻ってきた時には、画面の右下に送信完了の表示が出ていた。
あれ、と思った。
送った。
たしかに送った。
でも、最後の確認、何を添付した。
嫌な汗が、じわりと背中に浮く。
共有先の履歴を開く。
添付ファイル名を見る。
喉の奥が、冷たくなる。
完成原稿じゃない。
修正前の途中稿だ。
しかも、取材相手のチェック用メモが赤字のまま残っている。公開前提じゃない雑な言い回しまで、全部。
「……最悪」
声が漏れた瞬間にはもう立ち上がっていた。
差し替えれば済む。
そう思いたかった。
でも、一度流れた共有メールはもう何人かが開いている。
先輩編集の席へ向かう途中、東堂がちょうど打ち合わせ室から出てくるのが見えた。
目が合う。
たったそれだけで、全部ばれた気がした。
「どうした」
低い声。
「……ファイル、間違えました」
正直に言うしかない。
喉がひどく乾く。
東堂の目が、一瞬だけ細くなる。
「どこまで流れた」
「社内共有です。まだ外には出てません」
「途中稿か」
「はい」
「赤字は」
「……残ってます」
数秒、沈黙が落ちる。
怒鳴られると思った。
呆れられると思った。
昨日の夜のことなんて全部なかったみたいに、冷たく切られるかもしれないと思った。
でも東堂は、それをしなかった。
「先に差し替えろ」
それだけだった。
「はい」
「送った先、全部洗え」
「はい」
「先方にはまだ連絡するな。文面作ってから回せ」
「分かりました」
指示が速い。
無駄がない。
俺は自席に戻り、震える指で差し替えメールを打つ。送信履歴を確認し、開封済みの相手を洗い、先方への文面を作る。
頭では分かっているのに、指先が少しずつ遅くなる。
焦っているせいだ。分かっている。分かっているのに、呼吸だけが浅い。
そんな中で、東堂は一度もこちらへ来なかった。
来ない代わりに、俺のメール文面だけが数分後に返ってきた。
件名が弱い。謝罪より先に状況をまとめろ。
赤字は一行だけ。
でも、その一行で頭が少し冷える。
俺は文面を直して、再送信する。
昼前にはどうにか事態は収まった。
社内共有先からも「差し替え確認済み」と返信が来て、先方にも正式原稿を送り直し、表立った問題にはならずに済んだ。
助かった。
そう思った瞬間に、どっと疲れが来る。
椅子にもたれかけたところで、先輩編集に声をかけられた。
「赤坂くん、ちょっと」
その声音だけで、まだ終わっていないと分かった。
小会議室に入ると、部長と先輩編集がいた。
東堂はいない。
それが少しだけ嫌だった。
「さっきの件だけど」
部長が穏やかに言う。
「外に出なかったからよかったものの、初歩的な確認ミスだよね」
「……はい」
「最近、案件増えてきたのは分かる。でも忙しいで済ませていいミスじゃない」
「はい」
言い訳はできない。
俺の確認不足だ。
一歩間違えば、また編集部全体に迷惑をかけていた。
部長は静かな口調のまま続ける。
「しばらく、記事系の外部共有は東堂くん経由にするから」
反射的に顔を上げる。
「それは」
「安全策だよ」
先輩編集の言い方は柔らかい。
でも意味は同じだ。
まだ一人で任せられない。
信頼が足りない。
そういうことだ。
「分かりました」
言うしかない。
会議室を出る時には、足の裏が少しだけ重くなっていた。
情けない。
悔しい。
でも、それ以上に、また東堂の手を煩わせたことが嫌だった。
自席に戻ると、東堂はもう別の案件の電話に入っていた。
何も言わない。
こちらも言えない。
上司と部下。
またその形に押し戻されたみたいで、少しだけ息苦しい。
午後は淡々と仕事をした。
言われた通り、外部共有前の確認ルートを組み替え、進行表を整理し直し、見出しの残りを潰す。
東堂は必要なことしか言わない。
俺も、必要なことしか聞かない。
それで済むなら楽なはずなのに、ずっとどこかが引っかかっていた。
定時を過ぎて、フロアの人影がまばらになる。
今日こそ、残らず帰ろうと思った。
ミスをした日の夜までここにいるのは、少ししんどい。
パソコンを閉じようとしたところで、社内チャットの通知が鳴る。
東堂だった。
会議室。五分。
短い。
無機質。
でも断れない。
会議室に入ると、東堂は窓際に立っていた。
昼間の電話と赤字で削れたのか、少しだけ疲れが顔に出ている。
机の上には、俺が昼に送った謝罪メールのプリントが置かれていた。
「座れ」
言われて腰を下ろす。
東堂は向かいには座らず、机の端に寄りかかる。
その位置が、少しだけずるいと思う。
「昼の件」
低い声が落ちる。
やっぱり来るか、と思った。
「すみませんでした」
先に頭を下げると、東堂が小さく息を吐く。
「謝るのは後でいい」
「でも」
「まず整理しろ」
仕事の話だ。
その形をしている。
「何でミスった」
「電話で抜けました」
「それだけじゃない」
「……確認の順番を省きました」
「何で」
喉が詰まる。
答えは分かっている。
「早く終わらせたかったからです」
「何で急いだ」
「午前中の別件も重なってて」
「それもある」
東堂はそこで一度言葉を切った。
「でも今日のお前、朝から浮いてた」
図星だった。
昨日の夜のことを引きずっていた。
それが集中を削っていた。
言えない。
そんな理由、言えるわけがない。
黙った俺を見て、東堂が視線を少しだけ落とす。
「今日はもう、記事の外部共有は俺通しでいい」
「……はい」
その一言が、昼よりずっと重く響く。
仕事として正しい措置だ。
でも、それだけじゃない気がしてしまう自分が嫌だった。
「不服そうだな」
「不服です」
即答すると、東堂の口元がわずかに揺れる。
「言うようになった」
「前から言ってます」
「今日はちょっと本気だろ」
言い返せない。
本気だった。
悔しいから。
一人で立てなかったことも。
また東堂の手を借りる形になったことも。
全部。
「……俺、足引っ張ってますよね」
気づけば、そう言っていた。
東堂が少しだけ眉を動かす。
「誰の」
「編集部の。東堂さんの」
沈黙が落ちる。
長くはない。
でも、嘘を選ぶには少し短くて、本音を選ぶには少し長い間だった。
「今日の件は、ミスだ」
東堂が言う。
「足引っ張ったわけじゃない」
「でも」
「でもじゃない」
声は低い。
怒鳴ってはいないのに、逃げ道がない。
「お前、すぐ自分の失敗を能力の話に広げるだろ」
それを言われると、何も返せない。
「ミスは直せ。原因は潰せ。そこで終わりだ」
東堂はいつもそうだ。
突き放すようで、切り捨てない。
そこがずるい。
「じゃあ、昼のあれも」
「何」
「外部共有、東堂さん経由にするって話」
東堂は机の上の紙を指先で整えながら言う。
「俺が言った」
息が止まる。
「……何で」
「今日はお前一人で抱え込ませる方が危なかった」
「でもそれ、俺の責任能力が足りないって」
「違う」
東堂が遮る。
「お前が自分で立てるようになるのと、今すぐ全部一人で抱えさせるのは別だ」
その言葉が、予想していたよりずっと深く刺さる。
昼間、会議室で感じた息苦しさが少しだけ違う形に変わる。
「部長には俺から話した」
東堂は続ける。
「今回の件、作業量の配分ミスもあるってな」
「……俺、そんなこと聞いてません」
「言ってないからな」
平然としている。
本当に、この人はそういうところが最悪だと思う。
表で庇わない。
その代わり、裏で手を回す。
知らないままでいた方が、たぶんずっと楽だった。
「何で言わないんですか」
少しだけ声が荒くなる。
東堂は視線を上げた。
「言ったら、お前が変に借りを感じるだろ」
「感じますよ、もう」
「今さらだな」
その返しが、やっぱりずるい。
怒りたいのに、怒りきれない。
「あなた、ずるいですよ」
ようやく出た言葉は、それだった。
東堂が黙る。
言いすぎたかもしれないと思った。
でも、もう遅い。
「厳しく当たるくせに、こういう時だけ裏で片付けるの、反則でしょう」
「反則?」
「表で突き放して、裏でフォローして、何考えてるか分からなくして」
喋りながら、自分でもかなりみっともないと思う。
でも止まらない。
「嫌いになれたら楽なのに、そういうことするから」
そこまで言って、はっとする。
会議室の空気が一瞬で変わる。
今、何を言いかけた。
言葉の最後を飲み込んだつもりだったのに、たぶん半分くらいはもう外に出ている。
東堂はしばらく何も言わなかった。
それから、ほんの少しだけ視線を外して、小さく息を吐く。
「……嫌いにならなくていいだろ」
低い声だった。
その一言が、予想以上に静かで、余計に苦しい。
「それは」
言い返したい。
でも、うまく形にならない。
東堂はそこで初めて、机の端から体を起こした。
一歩だけ近づく。
近づいただけで、会議室の空気が狭くなる。
「赤坂」
呼ばれて、反射みたいに顔を上げる。
「お前を甘やかしてるつもりはない」
「……はい」
「でも、潰す気もない」
まっすぐ言われる。
仕事の言葉だ。
たぶん、そういう形をしている。
それなのに、胸の奥のどこかがひどく浅くなる。
「覚えとけ」
東堂はそれだけ言って、もう一歩近づいた。
近い。
昨日ほどじゃない。
触れそうなほどでもない。
でも、近いと思うだけで十分だった。
「今日のミス、次は繰り返すな」
「……はい」
「昼の文面、後で直したやつ、悪くなかった」
急に来るから困る。
「それ、今言うんですか」
「今じゃなきゃ意味ない」
いつか言われた台詞と同じだ。
悔しいのに、少しだけ笑いそうになる。
東堂も、それに気づいたみたいに目を細めた。
「何」
「いや」
「何だよ」
「ずるいなと思って」
それには、東堂は答えなかった。
答えないまま、机の上のプリントをまとめて俺に渡す。
それで会話を終わらせるつもりらしい。
本当に、この人は最後のところだけいつも逃げる。
会議室を出る時、東堂が後ろから言った。
「赤坂」
振り返る。
「明日、朝の外部共有、お前が文面作れ」
「……俺が?」
「最終確認は俺がする」
それが、昼間よりずっと嬉しかった。
仕事の話でしかない。
なのに、ちゃんと戻してくれる。
「分かりました」
「あと」
また一拍、間が空く。
「甘いもの買って帰れ」
意味が分からなくて止まる。
「何でですか」
「頭使ったあとに必要なんだろ」
それ、まだ覚えてるんですか、と言いかけてやめた。
言ったらたぶん、また仕事の一言で片づけられる。
「……了解です」
返すと、東堂は小さく頷いた。
会議室を出て、自席へ戻る。
鞄を持ち、パソコンを落とし、今度こそ本当に帰る支度をする。
フロアはもう静かだった。
照明も半分落ちていて、残っているのは東堂の席の灯りだけだ。
俺は一度だけ、その方を見た。
東堂はもう原稿に赤を入れている。
いつも通りの横顔。
何もなかったみたいな仕事の顔。
なのに、さっき言われた言葉だけがまだ身体に残っている。
潰す気もない。
そんなの、信じていいのか分からない。
でも、信じたくなるくらいにはずるい。
ビルを出ると、夜風が思ったよりやわらかかった。
駅前のコンビニに寄って、チョコをひとつ取る。
それから少しだけ迷って、プリンも買った。
笑える。
本当に、言われた通りにしている。
レジで会計をしながら、ふと口元がゆるみそうになるのを堪える。
嫌いになれたら楽だった。
でも、今はまだ、たぶん無理だ。
むしろ少しずつ、別の名前を与えられそうになっている気がして、余計にたちが悪かった。
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