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第十章 やさしくしないで

締切が明けた夜は、たいてい少しだけ世界が壊れている。 編集部の床には、回収しきれていない付箋が一枚落ちていた。 複合機の横には飲み終わった缶コーヒーが残っていて、窓の外では、遅い時間の雨が細く降っている。 やることは、もうほとんど終わっていた。 最終確認のゲラを閉じて、修正データを入稿して、作家からの了承も取った。 本当なら、ここで帰っていい。 それなのに、俺はまだ自分の席でパソコンを閉じられずにいた。 フロアに残っているのは、東堂と俺だけだった。 静かすぎる夜だった。 キーボードを叩く音も、紙をめくる音も、今はどっちか片方しか鳴らない。 重なった時だけ、そこに二人いると分かる。 「終わったなら帰れ」 東堂が、原稿から目を上げないまま言った。 その言い方が、あまりにもいつも通りで腹が立つ。 「東堂さんは」 「俺はまだ終わってない」 「終わってるような顔してますけど」 「お前、最近そういうとこだけ余計だな」 低い声だった。 怒ってはいない。けれど、返し方の端に、いつもより少しだけ乾いたものが混じっていた。 締切明けで疲れているのは、たぶん東堂の方がずっとひどい。 目の下には薄く影が落ちているし、ネクタイもいつもより少しだけ緩い。 それなのに、弱った顔は見せない。 そういうところが、嫌いになれない理由のひとつだと思うと、余計にたちが悪かった。 「赤坂」 「はい」 「その見出し、まだ甘い」 俺の机の上に置いてあったゲラを、いつの間にか東堂が取っていた。 赤字の入った箇所を指で叩く。 「ここ、丸くまとめすぎ」 「でも、あんまり強くすると」 「誰に気を遣ってる」 「気を遣ってるわけじゃ」 「じゃあ守ってる」 またそれだ。 東堂は、俺が逃げた場所だけをひどく正確に見つける。 それができるくせに、自分のことになると肝心なところだけ黙るから、ずるい。 「……じゃあ、直しますよ」 立ち上がってゲラを受け取ろうとすると、東堂は渡さない。 指先で紙の端を押さえたまま、俺を見る。 「今じゃなくていい」 「今言ったのそっちでしょう」 「言った」 「じゃあ」 「帰れ」 短い。 突き放すみたいな言い方だった。 そのくせ、手はまだ紙を離さない。 「東堂さん」 「何」 「帰らせたいんですか、残らせたいんですか、どっちですか」 聞いた瞬間、空気が少しだけ止まる。 東堂はすぐには答えなかった。 答えないまま、俺の手元の赤字をもう一度見て、それからようやく低く言う。 「残ってるのはお前だろ」 ずるい返し方だった。 責任を押しつけるみたいに聞こえるのに、そこに本音が混じっている気がしてしまう。 そう思う時点で、たぶんもうかなり駄目だ。 俺は小さく息を吐いて、ゲラを机に置いた。 「コーヒー、淹れます」 「いらない」 「俺が飲みます」 「なら勝手にしろ」 給湯室へ向かう背中に視線がついてくる気がしたけれど、振り返らなかった。 紙コップに熱い黒を落とす。 立ち上る苦い匂いが少しだけ呼吸を整える。 整えたところで、無駄だとも思う。 この夜が、ただの締切明けの夜じゃないことくらい、もう分かっている。 戻ると、東堂は俺の席じゃなくて、会議室のドアの前に立っていた。 「赤坂」 「はい」 「それ持って来い」 顎で示されたのは、俺のゲラと赤字の束だった。 「……また会議室ですか」 「紙で見るんだろ」 それだけ言って、東堂は先にドアを開けた。 会議室の中は少し冷えていた。 机の上にゲラを広げると、白い紙の輪郭だけがやけにくっきりする。 東堂は向かいに座らない。 いつものように、俺の斜め後ろから覗き込む位置に立った。 その距離に、もう驚かないふりだけはうまくなった。 実際には、全然慣れていない。 「三段目」 「はい」 「その語尾、切れ」 「でも柔らかさが」 「いらない」 低い声が、耳の近くに落ちる。 紙に赤を入れるために東堂が腕を伸ばす。 シャツの袖が、俺の肩にごく軽く触れた。 たったそれだけなのに、指先より先に呼吸が乱れる。 「……近いです」 反射みたいに言うと、東堂の手が一瞬だけ止まる。 「前にも聞いた」 「前より近いです」 「気のせいだろ」 「そういうことにしたいの、そっちじゃないですか」 言い返した途端、背後の気配が少しだけ静かになる。 やばいと思う。 でも、もう遅い。 東堂はペンを置き、机に片手をついた。 逃げ道を塞ぐほどじゃない。 でも、椅子から立ち上がるにはひと呼吸ぶんの勇気がいる距離だった。 「赤坂」 名前を呼ばれる。 それだけで、喉の奥が少し熱くなる。 「何で煽る」 「煽ってません」 「してる」 「東堂さんが勝手にそう取ってるだけで」 最後まで言い切れなかった。 東堂の指が、机の上のゲラじゃなく、俺のネクタイに触れたからだ。 まっすぐ結ばれていたはずのそれを、指先で少しだけ緩める。 仕事じゃない。 そんなの、分かりきっている。 「……何してるんですか」 「苦しそうだから」 「それでネクタイ触る上司、普通いませんよ」 「普通の話してないだろ、今」 その返しがあまりにも正しくて、何も言えなくなる。 東堂の指は、緩めたネクタイからすぐ離れない。 離れないくせに、それ以上もしてこない。 その半端さが、ひどくいやらしいと思う。 「嫌なら止めろ」 低い声だった。 いつもそうだ。 本気で逃がす気がないくせに、最後の選択だけこっちに押しつける。 「……そういう言い方、嫌いです」 「知ってる」 「じゃあやめてください」 「お前がやめさせろ」 ずるい。 本当に、ずるい。 俺は椅子の端を握ったまま、動けない。 止めたいのか、止めたくないのか、自分でも分からなくなる。 ただ、ここで東堂の手を払ったら、たぶんもう昨日までの続きには戻れない気がした。 戻れないのは困る。 でも、このままでも困る。 そのどっちも本当で、ひどく苦しい。 東堂の指先が、今度はネクタイから鎖骨の近くへ触れそうで触れない位置まで滑る。 シャツ越しの温度だけが、やけに鮮明だった。 「東堂さん」 呼ぶ声が、自分でも思ったより掠れていた。 「何」 「そんな言い方するなら」 そこまで言って、息が詰まる。 東堂は黙ったまま待っている。 急かさない。 でも、逃がさない目をしている。 「……最初から、やさしくしないでください」 言った瞬間、空気が変わった。 東堂の目が、ほんの一瞬だけ揺れる。 それはたぶん、今まで見たことのない揺れ方だった。 余裕が、崩れかける時の顔。 それを見てしまったことに、後悔より先に身体が熱を持つ。 「やさしくしてるつもり、ないけど」 東堂が低く言う。 「十分してますよ」 「どこが」 「こういう時だけ、選ばせるみたいな顔するところ」 東堂が、小さく息を吐いた。 机についた手に少しだけ力が入る。 その指先の白さだけが、妙に目についた。 「……選ばせてるんじゃない」 「じゃあ何ですか」 「選んでほしいだけだ」 唐突すぎて、言葉の意味を受け取るのが遅れる。 その一瞬の隙に、距離が消えた。 触れたのかどうか、最初は分からなかった。 ただ、東堂の息があまりにも近い。 言葉より先に体温が落ちてくる。 避けようと思えば避けられた。 本当に。 でも、動かなかった。 東堂の指が、今度は俺の顎に触れる。 向きを変えるみたいに、ごく軽く。 それだけで、視線の逃げ場までなくなる。 「まだ、嫌ならやめろ」 すぐそばで言われる。 やさしくない。 むしろ残酷だ。 ここまでしておいて、まだその言い方をする。 「……やめません」 答えたのは、ほとんど意地だった。 意地だったのに、声の震えだけは隠せなかった。 東堂の喉が、ごく小さく動く。 次の瞬間、唇に何かが触れた。 触れた、としか言いようがない。 押しつけるほどでもなく、奪うほどでもなく、確かめるみたいな一瞬だった。 でも、その一瞬で十分だった。 頭の奥が白くなる。 東堂の手が顎から離れて、今度は椅子の背にかかる。 囲われているわけじゃない。 立てば逃げられる。 それなのに、立てない。 「……最低です」 ようやくそう言うと、東堂は近いまま小さく息を漏らした。 笑ったのかと思った。 でも違う。たぶん、自分に呆れている音だった。 「知ってる」 「知っててやるんですか」 「お前が残ってるからだろ」 その言葉が、また胸の奥を鈍く打つ。 上司だから。 仕事だから。 そんな言い訳だけでは、もう説明がつかない場所まで来ている。 東堂の指が、今度は俺の手首を取る。 きつくじゃない。 でも、離れられないと分かるくらいの力で。 手首の内側は、自分でも思うよりずっと熱かった。 「脈、速い」 「誰のせいだと」 「俺だろ」 あっさり認めるから困る。 困るのに、少しだけ救われる。 東堂はそのまま、俺の手首に親指を滑らせた。 脈を取るみたいな位置。 医者でもなんでもないのに、そこを触られるのが一番いやらしい。 「やめてください」 「嫌か」 「嫌じゃないって言ったら困るでしょう」 「困るな」 またそう言う。 本当に困っているくせに、やめない。 自分で自分の首を絞めているみたいな顔をして、ひどく厳しい手つきで触れてくる。 俺はもう片方の手で、東堂のシャツの袖を無意識に掴んでいた。 気づいた瞬間に離そうとした。 でも、東堂の視線がそこへ落ちたせいで、余計に動けなくなる。 「……それ」 「今見ないでください」 「無理だろ」 「最悪」 「今さらだな」 袖を掴んだまま、息を整えようとする。 整うわけがない。 東堂の額が、ほんの少しだけ俺のこめかみ近くへ触れる。 押しつけるんじゃなく、寄せるだけ。 その体勢のまま、低く言う。 「お前、こういう時まで気張るのな」 「東堂さんの前で、緩めるの怖いんですよ」 本音だった。 言った瞬間、東堂の呼吸がわずかに止まる。 次に落ちてきた指先は、さっきより少しだけやさしかった。 手首から指を外して、代わりに俺の手の甲をなぞる。 慰めるみたいで、余計に困る。 「……だから、やさしくしないでくださいって言ったんです」 もう一度言うと、東堂は少しだけ目を伏せた。 「無理かもな」 その返事が、ひどく静かだった。 無理。 東堂がそれを言うのは、たぶん相当まずい。 俺は掴んでいた袖を少しだけ強く握る。 東堂はそれをほどこうともしない。 会議室の外は静かで、フロアの気配ももう遠い。 時計の針の音なんて聞こえないはずなのに、時間だけが薄く削れていく。 それから先のことを、うまく言葉にはできない。 唇がまた触れた。 今度は一瞬じゃ終わらなかった。 でも、それが何だったのか、どこまでだったのかを、きれいに名前にしたくなかった。 東堂の手が、一度だけ俺の背中に回る。 逃がさないためなのか、支えるためなのか、たぶん本人にも分かっていない。 その曖昧さごと、抱え込まれるみたいで苦しかった。 苦しいのに、逃げなかった。 上司に従っているんじゃない。 立場に怯えているだけでもない。 それを認めるのがいちばん怖いのに、体の方が先に知ってしまう。 どれくらい経ったのか分からないまま、東堂が先に少しだけ距離を取った。 荒い、とは言えない。 でも、お互いにいつもより少しだけ呼吸が深かった。 机の上のゲラは、最初に開いたままの位置で止まっている。 赤字の入った見出しだけが、妙に冷静な顔をしていた。 東堂はそこへ視線を落として、それから低く言う。 「……帰るか」 あまりにも遅い台詞で、笑いそうになる。 「今さらですか」 「今さらだな」 「最低」 「知ってる」 そればっかりだ。 でも、さっきまでより少しだけ力の抜けた声だった。 俺は立ち上がろうとして、足にうまく力が入らないことに気づく。 それを見た東堂が、小さく息を吐いた。 「ほら」 差し出された手を、数秒だけ見つめる。 取ったら終わる気がした。 でももう、何が終わって何が始まっているのか、自分でも分からない。 結局、俺はその手を取った。 引き上げられる。 ほんの一瞬だけ、指が絡んだ気がした。 気のせいかもしれない。 気のせいにしておかないと、明日から仕事にならない。 会議室のドアを開ける前に、東堂が振り返らずに言う。 「赤坂」 「はい」 「今日のこと」 そこで言葉が止まる。 隠すのかと思った。 なかったことにするのかと思った。 でも東堂は、少しだけ間を置いてから続けた。 「……忘れなくていい」 その一言に、また呼吸が乱れる。 ずるい。 本当に。 なかったことにしてくれた方が、たぶんずっと楽だった。 それでも、そう言われたことを嬉しいと思ってしまう自分が、どうしようもなく最悪だった。 フロアへ戻ると、さっきまでと同じ夜なのに、照明の白さまで違って見える。 東堂は先に自分の席へ戻って、何事もなかったみたいにゲラをまとめ始めた。 俺も鞄を持つ。 足元が少しだけ頼りない。 帰り際、東堂が仕事の声で言う。 「明日、見出し直したやつ持ってこい」 「……はい」 「逃げるなよ」 久しぶりに聞いたその言葉が、胸の奥で静かに鳴る。 俺はドアの前で一度だけ立ち止まって、それから振り返らずに返した。 「東堂さんこそ」 言った瞬間、背後でわずかに笑う気配がした。 ビルを出ると、雨はもう上がっていた。 濡れたアスファルトに街灯が滲んでいる。 冷たい空気を吸い込んでも、体のどこかだけがずっと熱かった。 やさしくしないでほしかった。 そう言ったのに。 結局いちばん残るのは、東堂が最後に見せた、あの少しだけ困ったみたいな目だった。

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