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第十一章 朝が来る

朝が来たことを、最初に教えたのはスマホの振動だった。 アラームを止めようとして、指先が少しだけ遅れる。 眠れていないわけじゃない。たぶん、ちゃんと寝た。時間だって足りていたはずだ。 なのに、体の奥だけがまだ昨夜に残っている。 目を閉じれば思い出せる。 会議室の冷えた空気。 机の上の赤字。 触れたかどうかを、きれいに言葉にしたくない距離。 忘れなくていい。 最後に落ちてきたあの声が、朝の静かな部屋にまで残っていて、ひどくたちが悪い。 顔を洗っても、シャツに袖を通しても、少しだけ遅い。 ネクタイを結ぶ指先が、ほんの一瞬だけ止まる。 昨日、あの人がここを緩めた。 それだけのことなのに、思い出した瞬間、鏡の中の自分が少しだけ気まずく見えた。 編集部に着く頃には、いつもより十分だけ早かった。 早く来たかったわけじゃない。 たぶん、いつも通りにしたかっただけだ。 少しでも余裕のある顔で席に座って、昨日なんて何もなかったみたいにパソコンを開きたかった。 でも、そういう時に限って、東堂はもういた。 編集長席の灯りが点いている。 コーヒーの匂い。 紙をめくる音。 朝のまだ薄いフロアの中で、その一角だけが先に仕事を始めている。 足が、ほんの一拍だけ止まりかける。 気づかれたくなくて、そのまま自席へ向かった。 鞄を置いて、パソコンを立ち上げる。画面の起動音が、朝の静けさにやけに大きく響いた。 「赤坂」 低い声が飛んでくる。 呼ばれるだけで、喉の奥が少しだけ熱くなる自分が嫌だった。 「……おはようございます」 東堂は原稿から目を上げないまま返す。 「おはよう」 普通の声だった。 本当に、何もなかったみたいな。 それがありがたいのか、腹立たしいのか、自分でも分からない。 「昨日の見出し」 「直してます」 「今じゃなくて、できたやつ」 「鞄の中です」 「なら先に出せ」 命令口調。 少しだけ、ほっとする。 上司の声だ。 編集長の声だ。 そういう顔をしてくれるなら、こっちも部下の顔に戻れる。 俺はクリアファイルを出して、東堂の席へ持っていく。 受け取る指先が、紙しか見ていない。 それでいいはずだった。 なのに、昨日知ってしまった体温のせいで、触れない距離の方が妙に意識に残る。 東堂は見出しをざっと見て、赤字を一箇所だけ入れた。 「ここ、語尾いらない」 「はい」 「あと、こっちはよくなった」 それだけ言って、ファイルを返す。 褒める時まで、いつも通り淡白だ。 「……ありがとうございます」 「不満か」 「足りないなと思って」 反射で返すと、東堂が一度だけ目を上げた。 その目が、ほんのわずかに揺れた気がした。 でも、すぐにいつもの薄い無表情へ戻る。 「朝から図々しいな」 「東堂さんに言われたくないです」 それで会話は切れた。 たったそれだけなのに、呼吸が少しだけ楽になる。 九時を過ぎると、編集部がいつもの速度で動き始めた。 電話。メール。作家からの戻し。デザイン部との確認。印刷所の進行。朝の静けさはあっという間に崩れて、フロアはいつもの仕事の顔を取り戻していく。 俺もその流れに混ざった。 午前中の外部共有文面を整え、昨日の取材記事の最終構成を確認し、見出しの差し替えを入稿に回す。 やることは多い。多いから、考えなくて済む。 そのはずだった。 「赤坂くん、ここの注釈ってこれで合ってたっけ?」 「はい、前回と同じ処理で大丈夫です」 「助かるー」 先輩編集に返しながら、別タブで進行表を開く。 視界の端で、東堂が誰かの企画書を突き返していた。 「綺麗にまとめて満足してるだろ。そういうのいらない」 いつもの、容赦のない声だ。 前なら、その言い方にいちいち腹を立てていた。 今も、感じがいいとは思わない。 でもその奥で、この人が何を見ているのか、少しだけ分かってしまう。 だから余計に厄介だった。 昼前、作家との電話を終えたところで、東堂から社内チャットが飛んでくる。 昼、打ち合わせ室二。五分。 短い。 業務連絡。 それだけのはずなのに、胸の奥がまた少しだけ浅くなる。 打ち合わせ室二に入ると、東堂はノートパソコンを開いたまま座っていた。 会議じゃない。雑談でもない。完全に仕事の顔。 「取材記事のリード、修正した」 画面をこちらに向ける。 「ここ」 椅子を引いて隣へ座る。 東堂の指先が文頭の一文を示す。 『あの日の取材で見えたのは、仕事の裏側ではなく、その人が日々守っている呼吸だった。』 昨日の俺の原稿にはなかった一文だ。 「……いいですね」 素直にそう言うと、東堂はわずかに眉を上げた。 「今日はちゃんと褒めるんだな」 「いいものはいいので」 「珍しい」 「失礼だな……」 言い返しながら画面を見る。 東堂はそのまま、修正した箇所をいくつか説明した。 どこを削ったか。 どこに熱を残したか。 どこで読み手の足を止めるか。 全部仕事の話だ。 なのに、説明の途中で東堂がマウスを取るたび、袖の擦れる音まで意識に残る。 困る。 「赤坂」 「はい」 「聞いてるか」 「聞いてます」 「顔が聞いてない」 「……聞いてますって」 東堂がこちらを見る。 じっとじゃない。 ほんの一瞬だけ。 でも、その一瞬だけで十分困る。 「寝不足か」 「違います」 「じゃあ何だ」 その問いに、答えられるわけがない。 昨夜のことがあるからです、なんて。 あなたが今日、普通の顔をしてるからです、なんて。 そんなの、言えるわけがない。 黙った俺に、東堂はそれ以上追及しなかった。 「昼までに直して回せ」 「はい」 「終わったら飯」 「……は?」 反応が少し遅れる。 東堂はもう画面に視線を戻していた。 「取材のまとめ、午後詰める。その前に食う」 「ああ、そういう」 「何だと思った」 「別に」 「ならいい」 ずるい。 たぶん、わざとじゃない。 でも、そういうところが本当にずるい。 昼休み、二人で近くの定食屋へ行く。 並んで歩くのも、同じテーブルに座るのも、取材の延長と思えば普通だ。 普通のはずなのに、昨日までと同じ顔ではいられない自分がいる。 東堂は日替わりの焼き魚定食を頼んで、俺は唐揚げ定食を頼んだ。 「子どもか」 「うるさいですね」 「昨日チーズケーキ食ったやつの選択とは思えない」 何で覚えてるんだ。 言い返したいのに、口より先に耳の奥が熱くなる。 「東堂さんだって魚じゃないですか」 「別にいいだろ」 料理が来るまでのあいだ、話したのはほとんど仕事のことだった。 午後に回す修正の優先順位。 作家側へ確認するポイント。 次号の巻頭で使う写真のサイズ感。 それで十分なはずなのに、たまに言葉が切れた時、妙に沈黙が意識に残る。 会議室での沈黙とは違う。 もっと普通で、だからこそ逃げにくい。 「赤坂」 「はい」 「今日の外部共有、文面よくなってた」 箸を置いたまま、東堂が言う。 唐突で、間が悪い。 「……どうも」 「そこ、ありがとうございますだろ」 「東堂さんの前で素直に喜ぶの悔しいんですよ」 「損な性格だな」 「誰のせいだと」 そこまで言って、少しだけ言葉が軽くなる。 東堂も気づいたのか、小さく息を抜いた。 「俺のせいか」 「半分は」 「じゃあ残り半分は」 「俺です」 言い切ると、東堂の口元がほんの少しだけ動いた。 笑った、のだと思う。 昨日の夜みたいな危うい顔じゃない。 昼の店で、周囲のざわめきの中でだけ見せる、少しだけ人間っぽい緩み。 それが見られただけで、妙に胸が浅くなる。 午後も仕事は容赦なく詰まっていた。 修正を回し、取材記事の写真レイアウトをデザイン部と詰め、作家から戻ってきた赤字を本文へ反映させる。 頭を使っている間だけは、昨夜のことを忘れられる。 でも、忘れた頃に東堂の声が飛ぶ。 「そこ、行替え前」 「はい」 「タイトル、もう一案」 「今やってます」 「遅い」 「無茶振りすぎません?」 そういうやり取りのひとつひとつが、昨日までと同じようで、少しだけ違う。 同じ言葉なのに、温度だけが変わってしまったみたいで落ち着かない。 夜になる頃には、さすがに疲れが出ていた。 パソコンの画面の白さが少しだけ痛い。 肩も重い。 それでも今日は昨日ほど残るつもりはなかった。 むしろ、普通に帰らないとまずい気がした。 距離を置くとか、なかったことにするとか、そういう器用なことはできなくても、少なくとも“いつも通りに帰る”くらいはしないと、本当に全部がおかしくなる。 「お先に失礼します」 鞄を持って立ち上がると、東堂が書類から目を上げた。 「早いな」 「早くないです。定時過ぎてます」 「そうか」 それだけ。 引き止めない。 それが正しい。 正しいのに、少しだけ寂しいと思ってしまう自分が嫌になる。 フロアを出る直前、背中に声が落ちる。 「赤坂」 振り返る。 東堂は席を立つわけでもなく、ペンを持ったままこちらを見ていた。 「明日、朝の進行会議、資料持って入れ」 「はい」 「遅れるな」 「分かってます」 「あと」 また一拍、間が空く。 「顔、昨日よりましだな」 意味が分からなくて、言葉が止まる。 東堂はそれ以上何も言わず、原稿へ視線を戻した。 それで終わり。 いつも通りの雑さで、でも、たぶん気にしていることだけは伝わる終わり方。 ずるい。 本当に。 ビルを出ると、空気は少しだけ冷たかった。 昼の温度はもう残っていないのに、胸の奥だけがまだ妙にあたたかい。 スマホに触れる。 連絡は来ていない。 来なくて当然だ。 来ない方がいい。 それなのに、少しだけ待ってしまう。 駅までの道を歩きながら、俺は小さく息を吐いた。 仕事に戻った。 ちゃんと戻った。 上司と部下。 編集長と新人。 それでやっていける。たぶん。 でも、やっていけることと、元に戻ることは違う。 そんな当たり前のことを、今日一日かけて何度も思い知らされた。 家に着いて、ネクタイを外して、シャツのボタンをひとつ開けたところで、スマホが震えた。 画面を見る。 東堂だった。 明日の会議資料、表紙の色だけ変えろ。今日のままだと弱い。 それだけ。 本当に、それだけ。 なのに、笑いそうになる。 俺はソファに座ったまま、少しだけ長く画面を見つめた。 それから短く返す。 了解です。直しておきます。 送信して、スマホをテーブルに置く。 仕事の連絡。 ただの業務。 そういう顔をしたメッセージ。 でも、その短い一文の奥に、今日一日ぶんの沈黙が全部押し込められている気がした。 朝が来て、仕事に戻って、普通の顔をして、何もなかったみたいに並んでいる。 なのに、戻っていない。 その事実だけが、静かに残っていた。

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