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エピローグ 命令じゃなくても
春の終わりは、気づかないうちに空気の肌触りだけを変えていく。
窓を少し開けた編集部に、ぬるい風が入る。
コピー用紙の端がかすかに揺れて、机の上の付箋が一枚だけめくれかけた。
異動してきた頃は、こんな場所で季節を感じる余裕なんてなかった。
毎日が速かった。
知らない言葉ばかりで、分からない空気ばかりで、何を間違えているのかさえ、自分ではうまく掴めなかった。
今も、全部が分かるわけじゃない。
でも少なくとも、原稿のどこで人の息が止まるのか、どこで熱が生まれて、どこで嘘みたいに冷めるのかくらいは、前よりずっと見えるようになった。
それが成長なのか、再教育の成果なのかは、まだよく分からない。
ただ、東堂の赤字が前より減ったのは事実だった。
「赤坂」
呼ばれて顔を上げる。
編集長席からの声。
少し低くて、変わらず無駄がない。
「このゲラ、先方戻し前にもう一回見ろ」
「はい」
「あと、三ページ目の見出し、今のままだと弱い」
「さっき通ったじゃないですか」
「通したあとで気になった」
「それ、最悪ですよ」
言いながら立ち上がると、東堂がかすかに目を細めた。
笑ったわけじゃない。
でも、その一瞬の揺れが何なのか、もう前よりは分かる。
「使えないよりましだろ」
「褒めてるつもりなら足りないです」
「図々しいな」
いつものやり取り。
周囲から見れば、たぶんそれだけだ。
厳しい編集長と、少し口の減らない部下。
それでいい。
いや、それがいい。
編集部の中で名前のないものに名前をつけるのは、やっぱりまだ危うい。
午後の進行会議は長引いた。
新人賞の選考資料、連載の進捗、取材企画の差し替え、広告枠の都合。ひとつ片づけば、また別の案件が机の上に落ちてくる。
会議が終わる頃には、東堂も俺も少しだけ疲れていた。
「赤坂くん、最近だいぶ東堂さんの言いたいこと分かるようになったよね」
先輩編集が笑いながらそう言って、会議室を出ていく。
「そうですか」
「うん。前は赤字見て固まってたのに、今はちゃんと食らいつくから」
その言葉に、少しだけ苦笑する。
食らいつく、か。
たしかに最初は削られるばかりだった。
削られて、腹を立てて、でも逃げるのも悔しくて、ずっと噛みついたままここまで来た気がする。
気づけば、東堂の言葉にいちいち傷つくことも減った。
減ったというより、その棘の先に何があるのかを、少しだけ読めるようになった。
それは救いでもあるし、たぶん絶望でもある。
読めるようになったせいで、もう前みたいには戻れない。
夜になると、フロアの灯りがひとつずつ落ちていく。
デザイン部の一人が先に帰り、先輩編集も電話を片づけて鞄を持った。
気づけば残っているのは、いつの間にかまた俺と東堂だけだった。
何度目だろうと思う。
こういう夜は、今でも少しだけ息が浅くなる。
でも前みたいな怖さだけじゃない。
怖いのに、離れたくない。
その矛盾に慣れてしまったことが、いちばんまずいのかもしれない。
俺はゲラを閉じて、肩を回す。
「……終わりました」
東堂は自分の席で原稿を見たまま言う。
「なら上がれ」
「東堂さんは」
「まだある」
即答だった。
前なら、そこで終わっていた。
上司は上司。編集長は編集長。部下は部下。そういう顔をして帰れば、それで一日が終わった。
でも今は、そこに少しだけ引っかかるものがある。
俺は鞄を持たずに立ち上がった。
そのまま東堂の席まで行って、机の端に置かれていた赤字入りのゲラを覗き込む。
「そこ、説明多いですよ」
「分かってる」
「じゃあ何で残してるんですか」
「今削ると別の温度が死ぬ」
淡々と返す声に、疲れが少しだけ滲んでいた。
東堂のシャツの袖は朝より少し皺が増えていて、ネクタイも緩い。
目の下には薄く影があって、コーヒーはたぶん三杯目だ。
こんな顔を、前は見られなかった。
見せてもらえなかった、の方が近いかもしれない。
「東堂さん」
「何」
「少し休んでください」
東堂がようやく顔を上げる。
真正面から目が合う。
相変わらず綺麗に整った顔なのに、今はその整い方のどこかに、どうしようもない人間っぽさが混じっている。
「命令か」
低く言われて、少しだけ笑いそうになる。
「まさか」
「じゃあ聞かない」
「最悪ですね」
「知ってる」
そればっかりだ。
でも、その返しを聞くたび、少しだけ息が楽になる。
俺は東堂の机の端にあった空のマグカップを勝手に取り上げた。
「コーヒー淹れてきます」
「いらない」
「俺が飲みます」
「またそれか」
「便利でしょう」
「俺の台詞だろ」
そう言いながらも、東堂は止めなかった。
給湯室でコーヒーを淹れて戻ると、東堂はさっきより少しだけ椅子に深く座っていた。
疲れているのだと思う。たぶん、俺が思っているよりずっと。
マグカップを机に置く。
東堂は礼も言わずにそれを取って、一口だけ飲んだ。
「苦い」
「砂糖入れてません」
「知ってる」
知っている。
好みも、癖も、言い方も、困るくらい少しずつ知ってしまった。
そのことが今さら胸の奥を鈍く打つ。
時計を見ると、終電まではまだ少し余裕がある。
俺は自分の席へ戻るふりをして、結局そのまま東堂の向かいの椅子へ座った。
「何」
「少しだけ、付き合います」
「仕事なら命令しなくてもやるんだな」
「そういうこと言うなら帰りますけど」
「帰る顔してない」
前にも聞いた。
でも今のその言い方には、少しだけ別のものが混じっている。
東堂はコーヒーを置いて、俺を見る。
「赤坂」
「はい」
「お前、前よりひどくなったな」
「何がですか」
「図太さ」
「誰に鍛えられたと思ってるんですか」
東堂の口元がわずかに緩む。
その表情を見るだけで、今日一日の疲れが少しだけほどける自分が、本当にどうしようもないと思う。
沈黙が落ちる。
重くない沈黙だった。
原稿の束を挟んで、同じ空間にいるだけの時間。前なら耐えられなかったはずのそれが、今はどこか呼吸に近い。
やがて東堂が、机の上のゲラを閉じた。
「まだ帰るな」
低い声だった。
いつも通りの命令口調。
編集長の声。
上司の顔。
でも、今はもう、それだけじゃないことを知っている。
俺は少しだけ目を細める。
「それ、命令ですか」
問いかけると、東堂は一瞬だけ黙った。
たったそれだけで、空気の温度が変わる。
前なら、そこで全部を仕事に戻せた。
今は違う。
東堂は俺を見たまま、低く言う。
「……命令じゃなかったら、残らないのか」
その一言で、胸の奥がひどく静かになる。
ああ、この人はまだそこを怖がっているんだと思う。
上司だから。
編集長だから。
その立場があるから、俺はここにいる。
そうじゃなかったら、残る理由なんてないと思っている。
本当に、どうしようもなく不器用だ。
俺はすぐには答えなかった。
答えたら、たぶん少しだけ全部が変わる。
仕事の顔も、上司と部下の線も、今までみたいには保てなくなる気がした。
だから言葉じゃなく、立ち上がる。
東堂の机の横を回って、自分の席に戻る。
鞄は持たない。コートも羽織らない。帰る支度もしない。
そのままパソコンをもう一度開いて、さっき閉じたばかりのデータを立ち上げる。
静かなフロアに、起動音だけが小さく響いた。
背中越しに、東堂の気配が少しだけ止まる。
それから、ひどく小さく息を吐く音がした。
笑ったのかもしれない。
呆れたのかもしれない。
たぶん、そのどっちでもいい。
俺は振り返らないまま言う。
「表紙の色、やっぱりこっちの方が強いですよ」
仕事の声だった。
でも、それだけじゃないと、もうお互いに分かっている。
東堂が少し間を置いて返す。
「そうだな」
低い声。
少しだけやわらかい。
窓の外では、夜がゆっくり深くなっていく。
編集部の灯りは白いままで、机の上には原稿が山ほど残っていて、明日もたぶん慌ただしい。
何も解決していない。
名前もついていない。
愛が希望か絶望かなんて、まだ決められない。
でも。
命令じゃなくても、俺は残る。
その事実だけが、静かに机の上へ置かれた気がした。
たぶんそれで、今夜は十分だった。
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