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59.フレアとガシュウの契約(完)
朝、ポフが図書館へ出かけた。
フレアはそれをガシュウと見送った。
朝の光は眩しく、空気は澄んでいた。冬の寒さが少しゆるんで、春の気配がする。
フレアは今日も役所へ行く用事があり、半休を取っていた。
出かける支度をしなければならない。
いつもなら二度寝をしに寝室へ戻るガシュウが、今日は椅子に座ったままだった。珍しい。
「フレアさま、聞きたいことがあるんです」
弾んだ声だ。朝から元気らしい。
「なんだ」
ガシュウの向かいに座った。
「あのね。あたしの名前、書きましてね」
昨日、練習していたな。
「そうだな」
「でね。隣に、フレアの名前を書くんですよ」
「……ん?」
「ガシュウとフレアの名前が、並ぶんです」
何の話だ。
「そういう契約なんです」
――契約。
その単語に、胸の奥がわずかに硬くなる。
「でもフレアは、あたしとの契約は後悔してるって前に言ったから」
そうだな、とは簡単に返せなかった。
「曖昧なままだと困るって、ポフが言って、フレアは書かなくても大丈夫だから安心してって」
……ポフが、どうしたって。
「あたしは枕元に置いたんです。ポフは本当にいい子です」
何を置いた。なぜポフはいい子なんだ。いや、ポフはいい子だが。
ガシュウは満足そうに胸を張った。どうやら話は終わったらしい。
フレアは眉間に指を当てた。
説明が壊滅的に下手だ。拾えた言葉だけを頭の中に並べても、意味がつながらない。
「ポフがどうしたんだ」
分かるところから確認するしかない。
「だから、紙をくれたんです」
『だから』の中に何も入っていない。
「その紙はなんだ?」
「契約書です」
そこで、息が止まる。契約。
無理に吸い込んで、ゆっくり吐き出した。
「……なんの、契約書だ」
「わかりません。『フレアに見せれば分かる』って言ってました」
「役所の紙か?」
「そうです。役所でもらってきたって」
「なら、持ってこい」
「はい!」
ガシュウは元気よく立ち上がり、寝室へ駆けていった。
長く、深いため息が漏れる。
珍しくガシュウの署名が必要な役所の紙でもあったのだろう。変に身構えてしまった。たかが役所の書類に。
「持ってきました」
ガシュウが紙を両手で広げて持っていた。顔の半分が隠れ、目玉だけが覗いている。
「でもね、フレアは書かなくても大丈夫だって言ってましたからね」
「いいから見せろ」
書くも書かないも、内容を見てからだ。
ガシュウは紙をテーブルに置いた。
フレアは目を見開いた。
――婚姻届。
ガシュウが持ってきた“契約書”にはそう書かれていた。
昨日覚えたばかりの、ガシュウの名前がやけに目立っている。
「これは……ポフが持ってきたのか」
「ええ」
「内容は聞いたのか?」
「いいえ。だから『フレアに見せれば分かる』って」
内容は分かる。内容は。
分かるが、笑って済ませるには重い。
あの弟はふざけてこういうことをする子ではない。しかも、ガシュウに先に名前を書かせている。
覚悟のいる紙を、覚悟のいる形でこちらに差し出してきたのだ。
「ガシュウ」
紙から目を上げる。
「これは、婚姻届だ」
ガシュウは小首を傾げた。
「こんいんとどけ、とは何ですか」
呼吸が浅くなるのを意識して、深くし直す。
「結婚をする、という意味だ」
「へえ」
「言っておくが、俺とおまえが、だ」
「へえ!?」
裏返った変な声が出た。
「……フレア」
震えた声で見つめてくる。
「結婚、ありがとうございます」
ガシュウは大げさに頭を下げた。
「いや、まだ待て」
「ええ?」
不安そうに顔を上げる。
「違う。断る意味じゃない」
それだけはすぐに言った。
「じゃあ、いいんですね?」
「……よくはある」
「よくはある?」
「言い方が悪かった」
眉間を押さえる。
急な話で頭が追いつかない。心は決まっている。決まっているが、こんなふうに紙一枚に追い立てられて言いたいわけではない。
流されたまま伝える言葉ではない。
自分の口で、ちゃんと渡したい。
フレアは深く息を吐いて立ち上がった。
すでに立っていたガシュウよりも視線が高くなる。
「こういうことだ」
腰に手を回し、もう片方の手で後頭部を支えた。
顔を上向かせる。
低く、落ち着いた声で言う。
「いいな」
確認を取る。
ガシュウは赤い顔のまま、小さく頷いた。
唇を重ねた。
軽く触れて、そのまま離れずに熱を伝える。手のひらに収まる後頭部が、小さく震えていた。
ゆっくりと深く重ねる。
小鳥の鳴き声がする。遠くで人の話し声がする。時計の針の音が、大きい。
唇を離した。混ざった吐息が熱い。
額が触れそうな距離で、ガシュウをまっすぐ見つめる。
「ガシュウ。俺と結婚しろ」
瞳が潤んでいた。
それでも逸らさない。
「勝手には決めない。おまえも言え」
ガシュウが息を呑む。
一度、口を開いて閉じた。もう一度開く。
「フレア。あたしと結婚しろ」
「ああ。嬉しい」
そのまま力いっぱい抱きしめた。
「あたしだって、嬉しい」
ガシュウも抱きしめ返してくる。
「じゃあ。契約成立、だな」
「……契約?」
「婚姻届。契約書なんだろう?」
「……うん」
ガシュウの肩口に顔を埋める。
「この契約に後悔はない。絶対に」
「ガシュウだって、ないんだから」
ガシュウもフレアの胸に顔を埋めた。
泣くかと思った。
けれど、漏れたのは笑いだった。
肩が揺れると、ガシュウもつられて揺れた。
なんだか、とても楽しかった。
こんなふうに笑う朝が来るなんて、思わなかった。
先に体を離したのはガシュウだった。
「フレア、早く書いて」
跳ねるように言う。胸元の鍵も楽しげに揺れた。
フレアはペンを手に取った。
立ったままテーブルに屈む。置かれているのは、ポフが用意した“契約書”だ。
ガシュウが寄り添って、肩に白い髪が触れる。
ペン先を紙に置いて。
『ガシュウ』の隣に『フレア』と刻んだ。
騎士さまとガシュウは契約中
完
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