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58.書かれた名前
新居での生活が始まって、一ヶ月が過ぎた。
ガシュウが目を覚ますと、家の中に人の気配がなかった。
いや、正確には二度寝をして、昼すぎに起きたのだ。朝食の席では、フレアもポフもちゃんといた。
フレアは何か言っていた気がする。
ポフとどこか行くとか、帰りは何時頃になるとか。眠くて、うんうんと頷いた覚えだけが残っていた。
行き先は図書館だろうか。いや、役所に行くと言っていた気もする。どこへ行ったのだろう。
着替えて、顔を洗う。ソファに座る。することがなくなる。
――いや、することがないなんて言っている場合ではない。
ふたりが帰ってきた時のために、昼食を用意しよう。
ガシュウはキッチンに立った。
レタスをちぎって、ボウルに入れる。トマトを切ろうとして包丁を入れたが、皮だけが残って中身が潰れた。もったいないのでそのままボウルに放り込んだ。
ドレッシングは、いちばん減っているものを選んだ。よく使っているなら、たぶん合っている。
パンを三枚焼いた。焦がしはしなかったけど焼けたとも言い切れない。まあ、好みの範囲だろう。
それらをテーブルに並べた。
椅子に座って、時計を見る。十三時を過ぎていた。
遅い。
待っているつもりだったがお腹が空いた。ガシュウはレタスをつまんでちびちびと食べ始めた。
結局、自分の分だけ食べ終えてしまう。残りの二人分は冷蔵庫に入れた。パンは固くなってしまうだろうか。
どこに行ったのだろう。
いつ、帰ってくるのだろう。
じっとしていると、嫌な考えばかり浮かぶ。
ガシュウはほうきを取り出して、床掃除を始めた。チリを集め終わったら、次は雑巾を絞って、床を磨いた。「床がきれいだ」と笑顔のふたりを思い浮かべながら、磨いていく。
けれど、体力がもたない。
三分の一ほど拭いたところで力尽きた。玄関側だけ、やけに光っている。
掃除道具を片付けて、ソファに寝転んだ。少しだけ休もうと思って目を閉じた。
暖かな陽射し。小鳥の鳴き声がする。外はまだ寒いけれど、春は近いのかもしれない。
……寝ていた。
半身を起こして、時計を見る。十五時を回っていた。
部屋の中は静かで、人の気配はない。
まだ帰ってきていないのか。
どうしたのだろうか。何かあったのだろうか。
なぜ、自分に何も言わずにいなくなってしまったのか。
頭を振る。そんなはずはない。分かっているのに、悪い想像が膨らんでいく。
――カチャ。
鍵穴を回す音がした。
反射で立ち上がり、玄関へ向かう。
扉が開いた瞬間、背の高い影に飛びついた。
「どこに行ってたんですか」
自分でも驚くくらい、震えた声が出た。
「役所の手続きだ。帰る時間も言っただろう」
フレアは淡々と言った。けれど、その手はガシュウの背中を軽く叩いている。落ち着けるように叩く時の手つきだった。
だから余計に離れたくなくて、しがみつく力が強くなった。
「ひとりで寂しかったよね」
低い位置から、もうひとつ声がする。
そちらを見ると、フレアの隣にポフが立っていた。「ただいま」と笑う。
ポフまで一緒だとは思わなくて、慌ててフレアから身を離した。顔が熱い。きっと真っ赤になっている。
ポフは気にした様子もなく、中へ入っていった。
「……おかえり」
小さく呟くと、耳元でフレアが「ただいま」と返した。
ポフに言ったつもりだったから、フレアの不意打ちでさらに顔が熱くなる。
テーブルを三人で囲んで座った。
役所の書類らしい紙が何枚も広げられる。フレアとポフで話を進めている。何の書類か聞いてみたけれど、居住証明だの税金控除だの、難しい言葉ばかりで途中で諦めた。
文字は読めない。
それでも、「フレア」と「フォレスト」だけは分かる。
ポフが名前を書く。フレアも名前を書く。
同じ紙の中に、二人の名前が並ぶ。
「……ガシュウの名前がない」
拗ねたような声が出た。
ポフが困ったように笑う。
フレアは顔を上げると、手帳を取り出した。何かを書いて、そのページをちぎって差し出してくる。
「まずは書けるようにしたらどうだ。自分の名前くらい」
その紙を受け取った。
きれいな文字が並んでいる。
「『ガシュウ』って書いてあるよ」
ポフが横から覗き込んで教えてくれる。
「……ガシュウの、名前」
物心ついた頃には、もう両親はいなかった。
誰がつけたのかも分からない名前だ。
――ガシュウ。
良い名前だと思った。
フレアの文字が、そう言ってくれているようだった。
「練習します。今から」
そう言うと、フレアが紙とペンを寄越した。
持ち方もよく分からないまま、見よう見まねで書いていく。線が曲がって、形も揺れて、それでも何度も何度も書いた。
夜。
寝る前、兄弟の部屋でベッドに入ろうとした時だった。
「ガシュウ、ちょっといいかな」
ポフに呼び止められる。妙に真面目な顔をしているから、悪い話かと身構えてしまう。
ベッドの端に座り直すと、ポフも隣に座った。
「これ、役所でもらってきたんだ」
差し出されたのは、一枚の紙だった。
「これはなあに?」
首を傾げる。
役所の書類なら、さっきフレアと一緒にやっていたではないか。
「これね、ガシュウの名前が必要な紙なんだ」
「そうなの?」
自分の名前が必要な紙。
それだけで嬉しくなって、紙をまじまじと見つめた。
「ここの欄に、ガシュウの名前を書くんだ。今日練習してたでしょう。書けるかな」
「うん。書けるよ」
まだまだ下手だけれど、自分では形になっているように見えた。
ポフからペンを受け取って、床に座り直す。ローテーブルに向かって、ひと文字ずつ、丁寧に自分の名前を書いていく。
「書けたよ、ポフ」
「うん。ばっちり」
後ろから覗き込んで、ポフが頷いた。
「この紙には、もうひとり名前が必要なんだ」
「誰の名前?」
「フレアさん」
意外だった。てっきりポフの名前だと思っていた。
「ところで、何の紙?」
ポフは少しだけ考えてから言った。
「……契約書、みたいなものかな」
「契約」
その言葉に、息を呑む。
「この家で一緒に暮らしていくなら、こういう紙があってもいいかなって思って」
「もう一緒に暮らしてるよ」
「うん。だから、なくても困らないの。フレアさんが書かなくても平気だから、安心してね」
安心。
なくても困らない。
結局、よく分からない。
「でもね、フレアさんに見せたら、たぶん分かると思う。あとは、二人で決めてね」
ポフがイタズラっぽく笑う。少しだけ悪い顔だ。こんな顔をする子だっただろうか。
「なんで?」
「……曖昧なままだと、また困るかもしれないでしょう」
小さく言って、ポフは肩をすくめた。
「ガシュウが傷つくのは、やだから」
その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。
ポフは、自分が知らないところで、いろんなものを見ているのかもしれない。
「じゃあ、寝ようか」
ポフが先に布団に潜り込む。
ガシュウも、その隣へ入った。
ポフがくれた紙は、枕元に置いた。
役所の書類はいつも難しくて、よく分からない。
けれど、そこに自分の名前を書いた。
フレアの名前も、ここに並ぶのかもしれない。
明日、早速聞いてみよう。
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