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57.お誘い

 新しい生活が始まって、一週間ほどが経った。  細かい片付けはまだ終わっていない。それでも任務には行くし、朝になれば食事をして、夜になれば眠る。生活は止まらずに続いていく。  階段下の一室は兄弟の部屋になった。貧困街の家から持ってきた家具が、そのまますっぽり収まっている。  二階の一室はフレアの部屋だ。もともと荷物が少なく、広めのベッドだけがやけに目立つ。  隣にもう一室あるが、空き部屋だ。将来はポフの部屋になるかもしれないが、今は物置代わりになっている。  バルコニーで花を育てるポフが、二階へよく来ていた。  フレアは一階の居間によく長居していた。  結局、ソファが落ち着くのだ。  ガシュウはポフのそばにいたかと思えば、いつの間にかフレアの横にいる。相変わらず落ち着きがない。  今日は休暇日だった。  フレアはいつも通り朝早く起きた。  三人で朝食をとる。ガシュウはいつも眠そうにしているが、この時間だけは必ず席につく。そのあと二度寝をしているが、努力は認める。  ポフが図書館が開放される9時に合わせて家を出た。前の家より遠くなったと言っていた。今日はカウンセリングがあるから、帰りは夕方になるそうだ。  一緒に暮らすようになって分かったが、ポフは学校へ通っていなかった。それも、いずれ解決しなければならない。やるべきことは山ほどある。  まずは、まだ夢の中にいるガシュウを現実へ引き戻すことからだった。 「……いや、無理ですって」 「いや、起きろ」  はがした毛布を掴み直して潜ろうとするから、ガシュウを毛布ごと抱き上げた。 「ひあっ」  どこから出したか分からない悲鳴を上げる。居間のソファまで運んで座らせた。 「目が覚めたか?」 「……まあまあです」  半分閉じた目は睨んでいるのか、眠いだけなのか分からない。  欠伸をして、伸びをして「着替えてきます」と立ち上がった。起きる気には、なったらしい。  午前中は、ふたりで荷物の整理をした。  何をどこに置くか、ひとつずつ相談しながら決めていく。  慌ただしく時間が過ぎ、昼になった。  昼食の準備をする。この家の問題は、誰一人まともに料理ができないことだ。  弁当ばかりに頼るわけにもいかず、こうしてフレアも練習している。  ガシュウにはベーコンを焼くことを任せた。焼くことだけは知っている。たぶん大丈夫だろう。  案の定、少し焦げた。  焦げ目のついたベーコンに、サラダとじゃがいものスープ、それからパンを並べて昼食にする。 「ポフ、帰りが遅いですね」 「今日の帰りは夕方になると言っていた」 「あら……そうなんですか」  朝食の時に言っていた。一緒に聞いたはずなのに、覚えていないらしい。  食べ終えたあとは、そのままソファで休んだ。  広い窓に向けて置かれたソファからは、遠くの街が絵画のように見える。  落ち着いた時間だ。  太陽の光がやさしい。  今、ガシュウとふたりきりだ。  近頃は、三人で過ごす時間ばかりだった。ふたりきりなのは、久しぶりのように思えた。  ふたりきりと言っても、噴水広場や宿舎のロビーのような、人の目のある場所だった。  こうして家の中で、誰もいない空間にふたりきり。少しの気まずさを感じた。  やるべき事は午前中にだいたい済ませた。  これと言って、話すこともない。 「……ポフは、しっかりしているな」 「ええ」  会話をしようと出したポフの話題が、短く終わった。そういえば、なぜポフと呼ぶのだろう。本名はフォレストだ。 「なあ。なぜポフは――」  ガシュウの指先が、唇をふさぐように触れた。 「ポフじゃなくて、もっとあたしに興味を持ったらどうですか」  指が離れる。  顔が近い。  ポフの話題を遮るなんて、ガシュウらしくない。  その言葉が妙に嬉しかった。  ガシュウが身を固くして、不器用に目を閉じる。  そこまでされれば、何を求めているのか分かる。  ガシュウの後頭部に手を添えて、引き寄せる。唇を重ねた。久しぶりに重ねた唇は、変わらずにカサカサしていて、可笑しかった。  一度離して、また重ねる。滑るように角度を変えて、その熱を味わった。  ガシュウは逃げなかった。  睫毛が小さく震えている。  肩を押して、ソファに倒した。細い身体が、柔らかい生地に沈んだ。  ガシュウに瞳は閉じられたままだった。  乗りかかり、また唇を合わせる。  少し離して、また口付けようとした時。顔のあいだにガシュウの手のひらが入った。 「……だめです」  その一言で、胸の底が冷えた。  すぐに身を離して、距離を取る。 「……嫌、だったか?」  かろうじて、声は震えていない。 「ここでは、だめです」 「……ここ?」 「……ここは、家族の場所だから」  視線をそらせたガシュウの顔が赤い。 「するなら、……フレアの部屋で」  消え入りそうな声。  精一杯の誘い文句だ。  フレアは片方の口角だけ上げた。  唇が触れる寸前まで近づく。 「そうする」  囁くように答えると、ガシュウがぎこちなく頷いた。  そのまま体を抱き上げる。 「わっわわ」 「安心しろ。落とさない」  行き先は自分の部屋だった。  照れて顔を隠したガシュウを落とさないように、丁寧に一段一段、階段を登る。  ふたりぶんの息が、静かな家に混ざった。

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