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第1話

 明日からの北京出張に向けて、寝室とそこに続くウォークインクローゼットを行ったり来たりしていた包文維は、ふと寝室の入口から自分を見つめる視線に気づいた。それは、いつもと変わらぬ一途で純粋な黒い瞳だったが、今夜はどこか不安そうな陰りがあった。 「どうしました、煜瑾?」  寂しい気持ちを抱えているのだと思った文維は、いつも恋人を魅了する柔らかく優しい笑みを浮かべて近付いた。 「たった3日の出張ですよ。すぐに帰ってきますからね」  そう言って文維が煜瑾を抱き寄せた。素直にその腕に身を任せ、煜瑾は黙っている。  心細く思っている煜瑾を慰めたくて、文維はギュッと力を込めてその体を抱き締めた。 「違うのです…」  だが煜瑾は、消え入りそうな声で否定した。 「え?」 「私が寂しいというだけではないのです…」  不思議そうな文維に、煜瑾は思い詰めた目で恋人を見つめ、力なく言った。 「文維と3日も離れて過ごすのはとても寂しいです。でも…、それだけではなくて…」  不安そうに、思わず煜瑾は強く縋りついた。 「今度のお仕事は、とても難しいお仕事だというのは、よく分かっています。もちろん、優秀な文維ならちゃんとできると思いますけれど、それでも…特別なお仕事だから…」 「煜瑾…」  文維は、ようやく煜瑾の暗い眼差しの理由を理解した。  明日から3日間の北京出張は、非常に特殊なものだった。  とある外国大使の息子が犯した犯罪の心理判定を下す、と言うもので、司法と外交の両面からの圧力がかかる仕事だった。  これが一般の外国人であれば、国内法により刑を下すことも出来るのであるが、大使館から「加害者の犯行当時の心理状態」の判定をするように要請があったのだ。その心理鑑定員として3名の専門医が選ばれたのだが、そのうちの1人が大使館からの指名で、アメリカで権威ある大学での心理カウンセラーの資格を持つ精神科医の包文維だった。 「『北京』のお仕事はとても重大で、文維の名誉や将来に影響することは分かっているのです。でも…。その分、とても…デリケートだから…」  文維も、煜瑾の不安の理由を充分に理解していた。  「北京」での仕事は、中央政府の「意向」と直結している。もしも、正確に判定をした結果が「意向」に反するようなものであった場合、文維の立場が危ういことを、煜瑾は心配していた。  そのことは、文維も承知している。自分の判定が「意向」におもねるものではなかった場合、最悪、「北京」から「上海」へ戻れない可能性も考えられなくもない。  だが、文維は自分の内心の不安を隠し、繊細な大切な恋人を安心させようと温柔に微笑んだ。 「大丈夫。私以外の鑑定員は『北京』の著名な先生方です。私の意見など形ばかりのものですよ」 「でも…」  そんな文維の楽観的な発言では、心から信じられない煜瑾の憂いは拭われない。 「せめて、上海でのお仕事なら…。お兄さまが助けて下さると思うのですが…」  上海だけでなく、全国でも有数の富豪であり、名門である唐家の次男である煜瑾だ。けれど日頃は唐家の権威に頼るようなことはしない。心が清らかで、純粋な煜瑾は、いつも慎ましく、控えめで、謙虚であり、実家を利用するようなことは考えないのだ。  けれど、愛する人のためであれば、経済界だけでなく広く影響力を持つ兄の唐煜瓔に頼ることも辞さない、一途な煜瑾だった。  そんな恋人に笑顔を取り戻したいと、文維は必要以上に明るく煜瑾に話しかけた。 「私は、北京で良かった、と思っているんです」 「え?どうしてですか?」  驚きを隠せない煜瑾は、ただでさえ大きな目を、さらに大きく見開いて文維を見つめた。その黒々とした深い色の瞳が、文維は好きだった。 「上海で、煜瑾に心配を掛けたり、煜瓔お兄さまにご迷惑をおかけしたりするよりは、北京であれば、お爺さまがいらっしゃいます」 「『お爺さま』?」  余裕を見せる文維に、煜瑾はきょとんとあどけない表情をした。  そんな可愛い恋人を労わるように、文維は煜瑾を抱き寄せて、いつも2人で横たわる大きなベッドの端に、並んで腰を下ろした。 「母の父、恭家のお祖父さまですよ」  文維の母、恭安楽の実家は北京の名家で知られている。清朝時代から続く家柄だが、これまで中央政府に在籍した公的な記録はない。長い歴史の中、常に裏側で大業をなしてきたフィクサーが「恭家」であった。  中でも恭安楽の父は、世界中を飛び回り、「私人」として外交を重ね、表には出ない成果を発揮してきたと言われている。その「力」は、決して公に知られることはないが、今でも現政権への影響力がある。 「何かあったとしても、北京にはお爺さまや、小敏のお父さまである、羽厳の伯父さまもいらっしゃいますからね。きっと力になって下さいますよ」 「羽家の伯父さま!」  煜瑾は大好きな親友の父であり、文維の伯父でもある羽厳の名にようやく明るい表情になった。軍の上層部に所属し、その人格も認められた有能な将軍である。  その名の通りに厳格で、冷淡な態度の軍人だが、1人息子の小敏は溺愛しており、有能な甥の文維も気に入っているため、2人には甘い顔を見せることも多い。  そんな息子の親友であり、甥の最愛の相手である唐煜瑾にもまた、初対面こそ冷ややかな態度であったものの、煜瑾の純真で素直な人柄を一目で見抜いた羽厳はすぐに心を許した。  険しい人柄の軍人であっても、煜瑾の天使の魂は優しく溶かしてしまうのだ。  今や、煜瑾は羽厳伯父のお気に入りであったし、煜瑾もまた羽厳を慕っていた。 「そうですね、恭家のお爺さまや羽厳の伯父さまがいらしたら、心配はいりませんね。きっとお2人が文維を守って下さいます」  ようやく煜瑾は、その綺麗な顔から憂いを消した。浮かんだ笑顔に、文維もホッとして改めて天使を優しく抱きしめる。 「それより…。明日から3日も会えないのですよ」  急に文維の声に艶やかな色気が混じる。その変化に、煜瑾はハッとして、ドキドキしながら頬を赤くし、俯いてしまう。  そんな、まだまだ初心な煜瑾が愛らしくて、文維はほんの少しイジメたくなってしまった。 「3日も離れて、北京で『煜瑾』が足りなくて、仕事が出来なくなったらどうしたらいいですか?」 「そんな…、いけません、文維!」  政府の息のかかる大切な仕事に支障があると言われ、煜瑾は慌ててしまう。 「さあ、もう心配しないで、夕食にしましょう」 「そうでした。夕食の支度ができたので、文維を呼びに来たのです」  素直な煜瑾をこれ以上からかっては可哀想だと思った文維は、すぐに気持ちを切り替えた。  夕食と聞いて思い出した煜瑾は、清らかで無邪気な笑みを浮かべた。 「今夜は、『カレーライス』ですよ。この前、小敏に珍しい日本のレトルトパックのカレーをもらったのです」  ウキウキした様子で、煜瑾はそう言った。そんな無邪気な煜瑾が愛しくて、文維は煜瑾を抱き寄せながら寝室を後にした。 「今日は、文維はビーフカレー、私はチキンカレーをいただきましょうね」  楽しそうに、煜瑾はキッチンに駆け込み、お鍋の中のレトルトパックを温め直した。 「味が違うなら、半分ずつ分けて食べるのはどうですか?」 「わ~、それは素敵ですね。どちらも味見ができるなんて嬉しいです」  そう言ってはしゃぐ、あまりに素直で無垢な煜瑾に、文維は笑うしかなかった。この煜瑾の清純さを文維は愛していた。けれど、純粋であるがゆえに、この天使が傷つくことを文維は怖れてもいた。  自分の一生を懸けても、この無邪気な魂を必ず守るのだと、文維は胸の内で誓っているのだった。

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