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第36話
その後、伊織は神崎の後を追って弓道場へと向かい、颯希は自宅へと帰っていった。
シャワーが血の滲んだ下唇にヒリヒリとしみる。
心臓が握りつぶされそうに苦しい。
零れ出ることのなかった涙が針のように心を突き刺す。
悔しくて、辛い。
他のやつが、伊織に触れることが許せない。
箱が軋む音がする。
小さい頃に頑丈な箱に封じ込めた気持ち。
独占欲。
親に、愛されたかった。
姉や、弟よりも、ずっとずっと、愛して欲しかった。
そんな気持ちは颯希の中で強すぎる独占欲へと変わっていってしまった。
自分だけを見てほしくて、自分以外を求めてほしくなくて、自分以外と接してほしくない。
小さな頃の心は柔軟で、どんなものにも染まりやすい。
そして、颯希の心は独占欲という、濁った色で染まってしまった。
狂気になってしまうほどに、濁ってしまった。
自分が、怖くなった。
自分だけが愛されるためには、何をするのか、わからなくなった。
誰かを傷つけたいわけじゃない。
ただ、自分を愛して欲しいだけ。
そして、鍵をかけた。
頑丈な箱に閉じ込めて、濁った心を清めた。
何年もかけて。
何も欲しがらず、争いは自分から降りて、生きてきた。
だから、神崎に宣戦布告を受けた時、心が騒ついた。
だって、箱が軋んできたんだ。
強すぎる独占欲がこの心を濁らせれば、きっと伊織に嫌われてしまう。
本当の自分は、とても欲深くて、卑しい。
欲しいものがあれば、それを得るために手段を選ばない。
誰を傷つけても、気にも留めない。
冷酷で、無慈悲。
それが、本当の、自分。
一生開いてはいけないその箱は、少しずつ少しずつ、軋んでいく。
「本当の自分を曝け出してしまえ。」と投げかける。
「やめて、くれ。」
颯希は必死に耳を塞ぐ。
「嫌だ嫌だ、聞きたくない」と首を振る。
軋んでいた箱は、まだ開かない。
けれどその鍵は、少しずつ開き始めていた。
風呂を出て、自室へと向かう。
急いで乾かした髪はまだ少し濡れていたけれど、そのままベッドへと沈み込む。
何も考えたくない。
けれど、考えてしまう。
教室で一人残された伊織が、弓道場へと向かった時、颯希は見てしまった。
左の頰をおさえて、顔を真っ赤にしていた伊織を。
あの時、あの綺麗な瞳には、間違いなく神崎が映っていた。
思い出せば思い出すほど、心が痛い。
伊織にあんな表情をさせるのは、自分でありたかった。
伊織の瞳に映るのは、自分だけでいい。
颯希の心に、濁った感情が広がる。
ろくに行動も起こせず、神崎との関係を見ていることしかできない、弱い自分。
そんな自分が憎らしくて、颯希は下唇の傷を、また噛む。
滲んでいた血は、ようやく止まりかけていたというのに、また流れる。
まるで、何度もできるその傷に、自分を憎む颯希自身を重ねているようだ。
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