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第35話

「俺、神崎を傷つけるのが怖かった。」  そう呟く伊織に、神崎は先ほど考えたことをそのまま言う。 「そんなの、気をつけていきゃいいだけじゃねぇかよ。」  神崎の口調は荒いが、伊織から話すことも嫌になるくらいに嫌われたわけではないと知ったため、その表情は落ち着いている。 「それじゃ、ダメだと、思った。」  伊織は俯いて、声のトーンを下げた。  その様子から、「気をつけていく」ことが伊織にとってどれだけ難しいことなのかが伝わる。  颯希は伊織がどれだけ悩んでいたのかを知っている。  今でも目を瞑れば、水族館で話した時の伊織の儚い笑顔を思い出す。  だからこそ、現状の伊織の気持ちが痛いほど理解できて、颯希まで心に痛みを感じた。  しかし、神崎にはそんな気持ちは理解できない。  だから、神崎は不器用に要約して伊織に確認する。 「よくわかんねぇけど、俺のせいでお前が自分のことにすっげぇ悩んでて、俺のことを思って、俺を避けていた。ってことでいいのか?」  よくわからないと言いつつも、要点をしっかりと掴めている神崎に伊織は静かに頷く。  すると、神崎はため息をついて、伊織にゆっくりと話しかけた。 「…はあ。あのさ、まず俺はお前の言動にムカついたわけじゃねぇよ。  それに、明る様にイラつきを態度に出してたことは、やっぱり俺のせいだ。」  神崎が何を言いたいのかよくわからなくて、伊織が首を傾げる。 「ああっ!だからなっ!お前はなんも悪くねぇんだよっ!…だから、だからさ。」  言いたいことが上手く伝わらず、神崎は声を張り上げる。  けれど、最後の「だから」は声を小さくして顔を俯かせる。  伊織の左肩に額をあて、沈み込むように力を抜くと、ぽつりと呟いた。 「…俺のこと、避けないでくれ。」  強情で、意地っ張りで生意気な神崎が、泣き出しそうなほどに弱々しく伊織に懇願する。  神崎はなかなか素直になれない男だと理解していた颯希にとっては「素直になっただけ」だが、伊織にとっては驚くべきことだった。  いつも自分を毛嫌いしていた神崎。  口を開けば毒と暴言を吐いていた嫌な奴だったはずの男が、目の前で自らの肩に沈み込み、震えている。  伊織は何が起こっているのかわからず、パニックを起こしているようだった。 「…えっと。え?神…崎?」  珍しくあたふたと焦る伊織。  神崎は額を伊織の肩にあてたまま、ちらりと伊織の顔を見て、また戻す。  その行動は明らかに「返事は?」と伝えていた。 「わっ、わかった。避けたりしない。しないから。」  今、自らの肩に顔を埋めている男は、本当にあの神崎なのだろうか?  こんな、子供みたいに寂しがって、甘えるような男だっただろうか?  伊織の脳内は今も完全にパニックに陥っていた。  伊織からの返事を聞いた神崎はほっと安心したように口元を緩める。  伊織の左肩から視線を逸らし、その表情を確認する。  ちらりと見た伊織はやっぱりパニックを起こしていて、あたふたしていた。  それが面白かったのか、それとも嬉しかったのか、神崎の口元が今度はニヤリと笑う。  神崎が伊織の左肩から顔を離す瞬間、伊織の頰に、神崎の唇が触れ、「ちゅっ」とリップ音が鳴る。 「!?」  伊織は驚きすぎて声すら出なくなっていた。 「えっ?」  一瞬のことで、何をされたのか、理解が追いつかず、ただただ赤面している伊織に、神崎はニッと悪戯に笑ってみせる。 「そんじゃ俺、先に道場行くから。また後でな。」  脳がフリーズしている伊織を残し、神崎は何事もなかったように教室を出て、道場へと向かった。  隣の教室には、間一髪逃げ込んだ颯希が胸をおさえ、辛そうにその下唇を噛み締めていた。

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