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第38話

「さっ颯希!人、いるからっ、みてるからっ!」  伊織が混乱しながらも周りの状況を気にする。  正月に手を繋いだ時は平気だった伊織も、今回ばかりは人の視線が気になるようだ。  その伊織の様子に、颯希の心が少しだけ潤う。  けれど颯希は伊織を抱きしめる力を緩めなかった。  二人の身長差は二センチほどしかない。  颯希は、伊織の顔を隠してあげられないことを悔しいと感じたが慌てふためく伊織が見れたことを嬉しくも感じる。  颯希は「自分は意外と意地悪なのかもしれない」と思った。  心の中でそんな呑気にいろいろ考えられるのは、周りの視線や囁きが吹っ飛ぶほどに現状が幸せだからだろう。  ずっとずっと、こうして伊織に触れたかった。  唇や頰へのキスまでできなくても、ただ抱きしめたかった。  伊織の暖かさに颯希は安堵する。  ずっと溜め込んできた悲しみと苦しみが、じわじわと和らいでいく感覚がした。  伊織が慌てる姿をみると「その瞳には今、自分がうつっているんだ」と思えて、幸せを感じた。   一方、伊織はそれどころではない。  周りを歩く人々は思いきり二度見するし、複数人で頬を赤らめて何かを話し出す人々もいる。  そして、男友達にいきなり抱きしめられているこの状況。  もう意味がわからない。  冷静に意味を考えようとしても、こんな状況じゃそんなことできるわけない。  とにかく、颯希を剥がさなくてはどうしようもないと考えた伊織は自らの腕に力を込め、颯希の胸板を押し返そうとする。  けれどそれは、もう一人の親友の登場で遮られることとなった。 「よお。二人とも、おっはよー」  軽い口調で、いつものように笑顔で声をかけた悠馬がそれとともに二人に勢いよく抱きつく。  悠馬は颯希に、伊織に聞こえないように小さな声で囁く。 「おい、颯希。落ち着けって」  悠馬の声に気づいた颯希は、はっ、と我に帰る。  伊織から離れ、欲に流されて周りが見えていなかった自分を恥じた。 「…え?」  颯希が腕の力を緩め伊織から一歩遠ざかるが、伊織の頭はまだパニックを起こしていた。  そんな伊織に悠馬はすかさず声をかける。 「伊織、お前今日はどうしたんだよ。お前が時間通り来るなんて、俺、驚きすぎて電車でスマホ落としたわー」  悠馬が「お前もやればできんだなー!」と言いながら伊織の頭を撫でる。   悠馬のその行動が、場の空気を和ませていった。  周りで見ていた人々は「仲のいい男子中学生達がじゃれ合っているだけ」と再認識し、次々と去っていった。  けれど、颯希と伊織の間に和やかな雰囲気などあるわけもない。  二人してだんまりを決め込む中、悠馬が口を開く。 「そんじゃ、みんな揃ったことだしっ!いこーぜ!」  二人の気まずい空気を、明るく元気な声と表情で一瞬で消し去る悠馬。 「…うん」 「そう…だね」  二人も悠馬につられて口を開いた。

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