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第1話 攻略対象は、鈍いふりをする御曹司
俺は、女を落とすのが仕事だ。
正確に言えば、落とすという言い方はあまり好きじゃない。
疲れた顔で店に来た女に、今日は少しだけ世界が優しいと思わせる。
悪い男に金も時間も吸われている女に、まだ逃げ道はあると気づかせる。
誰にも見られていないと思っている女に、ちゃんと見ているふりをする。
ふり、だ。
ホストなんてものは、綺麗に飾った嘘でできている。
シャンパンの泡みたいに軽くて、甘くて、翌朝には消える。
だから俺は、いつも通り笑っていた。
Club Perigeeの照明は、今夜も馬鹿みたいに綺麗だった。
天井から落ちる青白い光が、グラスのふちをなぞって、女たちの指先を宝石みたいに光らせる。
その中で俺は、いつもの席に腰を下ろし、いつもの笑顔で客の話を聞いていた。
「マトイくんってさ、ほんとにずるいよね」
「褒めてる?」
「褒めてる。だって、私が欲しい言葉だけ言うんだもん」
「それは違うな」
俺はグラスを軽く持ち上げて、笑う。
「俺が言いたいことを言ったら、たまたま君が欲しがってただけ」
「ほら、そういうとこ」
女は笑った。
笑えているなら、それでいい。
笑えるうちは、まだ戻れる。
そう思った直後、スマホが震えた。
画面には、仁科螢の名前。
同じ店のホストで、俺の同僚で、余計なところばかり目が利く男だ。
俺は客に一言断って、バックヤードへ下がった。
通話ボタンを押すなり、螢の声が飛んできた。
『お前、またやっただろ』
「何を」
『とぼけんな。沙月さんの件』
俺は壁にもたれて、煙草も吸わないのにポケットを探った。
「知らねぇな」
『昨日、あの子を囲ってた半グレ崩れが店の前まで来てた。今日になったら、女の子は実家に帰ってて、男の方はなぜか警察に事情聞かれてる。偶然にしては綺麗すぎる』
「世の中、偶然でできてるからな」
『で、お前の今月の取り分がまた減ってる』
「景気悪いな」
『お前が減らしてんだよ。あの子の引っ越し費用、出しただろ』
俺は黙った。
螢はため息をつく。
『マトイ。お前、金の亡者キャラで売ってんのに、自分の取り分ゼロにするのやめろ。設定がブレる』
「うるせぇな。金は好きだよ」
『好きなやつは、もう少し自分に使うんだよ』
俺は笑って、通話を切ろうとした。
その直前、螢が声を低くする。
『灯庭舎、また連絡来てたぞ』
指先が止まった。
バックヤードの向こうでは、客席の笑い声がしている。
グラスの音。
誰かの甘えた声。
夜の街の、薄い幸福。
『修繕費、今月も足りないって』
「……分かってる」
『分かってるなら、無茶な仕事取るなよ』
「無茶な仕事ほど高い」
『そういうとこだぞ』
俺は通話を切った。
スマホの画面が暗くなる。
そこに映った自分の顔は、いつも通り、軽薄そうで、金の匂いがして、何も背負っていない男の顔だった。
上出来だ。背負っているものなんて、見せるだけ損だ。
店に戻ろうとした時、支配人に呼び止められた。
「マトイ。外に客だ」
「指名?」
「いや。紹介だと」
「今?」
「金払いはよさそうだ」
その一言で、俺は笑った。
「最高じゃん」
案内されたのは、店の奥にある小さな応接室だった。
客席の派手な音が遠くなる、商談用の部屋。
そこにいたのは、見覚えのない男だった。
三十代半ばくらい。スーツは高い。時計も高い。ただ、趣味は悪い。
本当に金を持っている人間というより、金を持っている人間の隣で甘い汁を吸っている顔だった。
「架橋纏さんですね」
「店ではマトイです」
「失礼。人気者だと聞いています」
「人気者に見えるよう努力してるんで」
男は名刺を出さなかった。
その時点で、まともな話じゃない。
俺は向かいのソファに腰を下ろし、足を組む。
「で、何の用ですか」
男は薄く笑った。
「ある方と親しくなっていただきたい」
「それ、うちの通常営業ですけど」
「相手は男性です」
一瞬、間が空いた。
俺は笑いそうになったが、笑わなかった。
「へえ」
「抵抗がありますか」
「金額によります」
男の口元が動く。
テーブルに置かれた封筒は、薄かった。
だが中身は紙ではなかった。
小切手。
俺は額面を見て、軽く口笛を吹きそうになった。
灯庭舎の屋根。水回り。古い階段。子供たちの冬の暖房費。
頭の中で、勝手に数字が組み上がっていく。
足りる。少なくとも、しばらくは。
「相手は?」
男はようやく一枚の写真を出した。
そこに写っていたのは、綺麗な男だった。
いや、綺麗という言葉が雑に思えるくらい、整っていた。
黒に近い深い髪。薄い笑み。涼しげな目。高そうなスーツ。白い手袋。
どこか人形じみているのに、視線だけが妙に生々しい。
写真越しなのに、こちらを見ているような気がした。
「玻璃宮千歳様です」
その名前くらいは、俺でも知っている。
玻璃宮グループ。古い財閥の名を残しながら、今も日本のあちこちに根を張っている巨大企業群。
その跡取りで、実質的に現在の運営の中心にいる男。
「御曹司じゃん」
「ええ」
「俺に、財閥の跡取りを落とせって?」
「言い方はお任せします」
「面白い冗談ですね」
「冗談ではありません」
男は声を落とした。
「親しくなってください。できれば、世間に誤解される程度には」
なるほど。スキャンダルか。
俺は写真の男を見下ろした。
玻璃宮千歳。御曹司。男。三十歳。財閥の中心。
俺とは住む世界が違う。そして、誰かに落とされるには、あまりにも高い場所にいる。
「理由は聞いても?」
「聞かない方が賢明です」
「俺、あんまり賢く見えないでしょ」
「その方が仕事に向いている」
嫌な言い方だった。
俺は写真から目を離し、男を見る。
「相手は男ですよ」
「存じています」
「俺、そっちの経験はないですけど」
「経験より、才能を買っています」
「才能ね」
女を泣かせない才能。女を笑わせる才能。女が欲しい言葉を、欲しい温度で渡す才能。
それを、男に使えと。
俺は少しだけ考えた。
灯庭舎の古い廊下が浮かぶ。
雨の日になると、湿った木の匂いがした。小さい頃、俺はあそこでよく転んだ。
その度に、院長先生が笑って、膝についた埃を払ってくれた。
帰る場所なんて大げさなものじゃない。
でも、あそこがなくなると困るやつがいる。
俺みたいに、困るやつが。
「成功条件は?」
「玻璃宮様があなたに心を許したように見えれば十分です」
「“ように”でいいんだ」
「ええ。事実である必要はない」
俺は笑った。
この商談は、はじめから嘘の匂いしかしない。
けれど俺は、嘘で飯を食っている男だ。
いまさら綺麗事を言う資格なんてない。
「分かりました」
男が目を細める。
「お受けいただけると?」
「ただし、前金で」
「もちろん」
「あと、相手に無理やり何かする趣味はない」
「必要ありません。あなたらしく振る舞っていただければ」
俺らしく。一番信用ならない言葉だ。
男が去った後、俺は写真をもう一度見た。
玻璃宮千歳は、写真の中で薄く笑っていた。
視線は涼しい。
白い手袋の指先が、膝の上で静かに揃えられている。
たった一枚の写真なのに、そこだけ妙に目についた。
指が長い。手袋越しなのに、骨の形が綺麗だと分かる。
「……何見てんだ、俺」
俺は写真を伏せた。
「まあ、御曹司様だろ」
落ちない男なんて、面白い。
そう口にしたはずなのに、なぜか脳裏には、薄い笑みより先に白い手袋の指先が残っていた。
****
その夜、店が終わる頃には、空が少しだけ白み始めていた。
俺はClub Perigeeの裏口から出て、まだ眠っている街を歩いた。
朝の歌舞伎町は、夜の化粧が剥がれている。
空き缶。濡れたアスファルト。香水と煙草と酒の混じった残り香。
そういうものの中を歩く俺は、たぶん一番この街に似合っている。
駅前のコンビニで缶コーヒーを買い、駐車場の端に立っていた女に声をかけた。
「帰れる?」
女は、昨日俺が逃がした沙月だった。
薄いカーディガンを羽織って、目の下にくまを作って、それでも昨日より少しだけ顔色がよかった。
「マトイくん」
「ちゃんと新幹線乗れよ」
「うん」
「連絡先は消した?」
「消した」
「偉い」
俺が笑うと、沙月は泣きそうな顔で笑った。
「私、ちゃんと返すから」
「何を」
「お金」
「いらない」
「でも」
「じゃあ、飯食って寝て、変な男に戻らなかったら返したことにして」
沙月は唇を噛んだ。
「マトイくんって、ホストなのに変」
「ホストへの偏見」
「だって、もっと悪い人だと思ってた」
「悪い人だよ」
「嘘」
俺は缶コーヒーを開けた。
「嘘つくのが仕事だからな」
沙月は笑った。ちゃんと笑えた。それでいい。
****
彼女を駅まで見送った後、俺はスマホを開いた。
入金通知。小切手とは別に、手付金が振り込まれている。桁が、重い。
それを確認してから、すぐに別口座へ送金した。
灯庭舎。
振込完了の画面を見て、ようやく息を吐く。
その直後、背後から声がした。
「相変わらず、金の使い方が下手」
振り向くと、笹目冴が立っていた。
ベージュのトレンチコートに、低いヒール。
朝帰りの街にまったく馴染んでいないのに、なぜか誰より堂々としている。
幼馴染で、俺より少し年上で、俺のことをだいたい全部見抜いてくる最悪の女。
「何してんの、冴」
「それはこっちの台詞。女の子を駅で見送って、朝から送金。善人ぶるには詰めが甘い」
「善人じゃねぇよ」
「そういうことにしたいなら、もう少し悪い顔しな」
冴は俺の手から缶コーヒーを奪い、一口飲んで顔をしかめた。
「甘っ」
「返せよ」
「で、今度は何に首突っ込んだの」
「仕事」
「まともな?」
俺は黙った。
冴はため息をつく。
「はい、まともじゃない」
「男を落とすことになった」
冴が缶コーヒーを落としかけた。
「……は?」
「御曹司」
「情報量」
「玻璃宮千歳」
「さらに情報量」
俺はスマホに保存した写真を見せた。
冴は画面を覗き込み、眉を上げる。
「うわ、綺麗」
「だろ」
「でも無理そう」
「早くない?」
「この顔は、簡単に落ちる顔じゃない」
「顔で分かんの?」
「分かる。これは落ちる側じゃなくて、落ちる人間を観察する側」
俺は画面を見る。
写真の中の千歳は、やはり薄く笑っている。白い手袋の指先まで、やけに整っている。
「でも仕事だからな」
「アンタ、男相手は?」
「ない」
「恋愛対象として?」
「ない」
「じゃあ勉強しな」
「何を」
「BL」
俺は笑った。
「急にジャンル名で来るな」
「相手が男だからって、女の子のテンプレをそのまま使えばいいわけじゃない」
「でも人間だろ」
「そこは合ってる。女とか男とかより、相手が何に寂しがってて、何を欲しがってるかを見る。その点、アンタは得意」
「褒めてる?」
「半分」
「残りは?」
「慢心すると死ぬ」
冴はスマホの写真を指で軽く叩いた。
「この人、たぶん本心が読めないタイプだよ。天然のふりしてるけど、天然じゃない。鈍いふりができる人間は、だいたい怖い」
「怖い御曹司とか、最悪だな」
「最高じゃん」
「どこが」
「アンタが負けるところ、見たい」
「幼馴染の情は?」
「あるから見たい」
俺は缶コーヒーを奪い返した。
「で、攻略法は?」
冴は笑った。
「まずは距離」
「雑だな」
「雑じゃない。恋愛の八割は距離。残り二割は顔」
「顔なら勝った」
「その慢心で負けるんだよ、ホスト」
「距離ね」
「近づきすぎず、でも意識させる。逃げ道を残す。相手に“この人は自分に特別な距離で入ってきた”と思わせる」
「得意分野だな」
「だから危ないの」
「なんで」
「得意技ほど、本気が混ざった時にバレるから」
俺は鼻で笑った。
「本気なんて混ざらねぇよ」
「はいはい」
「流すな」
「あと、腐女子向けに言うと」
「何向け?」
「腐女子向け」
「俺、仕事の相談してるんだけど」
「だからしてるの。最初から抱きしめたら安い。キスも早い。まず手」
「手?」
「指先。手首。袖。そういうので沼らせる」
「沼らせるって何」
「そこが分かってないからアンタは危ない」
「俺が?」
「そう。手ってね、相手を感じたいって感情が出るの。握る、離す、掴む、触れそうで触れない。男同士だと、そこでかなり出る」
「何語?」
「BL語」
「そんな言語あるのかよ」
「ある。いい? 最初は手で攻めな」
「手で攻めるって何だよ」
「グラスを渡す時に指が触れる。握手する。袖を掴まれる。手首を止められる。そういうので十分」
「十分って、何が」
「沼」
「だから沼って何だよ」
冴はにやっと笑った。
「分かんないなら、そのまま実践しな。たぶん、アンタの方が先に分かる」
「嫌な予言するな」
冴はスマホの写真をもう一度見た。
「この人、手も綺麗そうだしね」
「どこ見てんだよ」
「アンタも見てたでしょ」
「見てない」
「嘘つきホスト」
言い返せなかった。
写真の中の白い手袋が、頭の隅にまだ残っていたからだ。
その時の俺は、冴の言葉を笑い飛ばした。
本気。沼。手で攻める。
そんなものが何なのか、まるで分からなかった。
俺は仕事で近づく。相手は御曹司。男。財閥の跡取り。
俺とは違う世界の住人。金のために落とす。
ただ、それだけだ。
そう思っていた。
****
その日の夕方、俺は玻璃宮グループ所有のホテルラウンジにいた。
照明はClub Perigeeよりずっと上品で、音楽も静かだった。
客の笑い声すら、磨かれた銀器みたいに控えめだ。
俺はスーツを整え、髪を軽く直した。
鏡に映った自分は、いつも通り完璧だった。
軽くて、甘くて、相手の隙間に入り込むための顔。
待ち合わせの時間より五分早く着いた。
こういう相手には、余裕を見せるより誠実さを一滴混ぜた方がいい。
そう判断した。
テーブルにつき、グラスの水に指を伸ばした時だった。
「待たせたかな」
声が降ってきた。
顔を上げる。
写真より、実物の方が厄介だった。
玻璃宮千歳は、黒いスーツを着ていた。
派手ではない。
けれど、ひと目で分かる。
仕立てが違う。
纏っている空気が違う。
ラウンジの光が、彼の髪の輪郭に薄く引っかかっている。
そして。-ー白い手袋。
写真で見た時より、ずっと目を引いた。
手袋をしているから見えないはずなのに、指の動きが綺麗だと分かる。
椅子の背に軽く触れる。
ジャケットの前を整える。
グラスの横に、音もなく手を置く。
それだけで、空気の端が揃う。
「いえ。俺が早く来ただけです」
「仕事熱心だ」
いきなり刺してくる。
俺は笑う。
「御曹司様相手ですから」
「その呼び方、店では受けるのか?」
「相手によりますね」
「俺には?」
「お嫌いですか?」
千歳は向かいに座った。
動作に無駄がない。
視線も、指先も、呼吸すらも、全部計算されているみたいだった。
「嫌いではないよ」
「ならよかった」
「ただ、君がどの程度まで役を作っているのか、少し気になる」
心臓の奥を、細い針でつつかれた気がした。
早い。
まだ座って一分も経っていない。
俺は笑顔を崩さず、グラスを持ち上げた。
「役なんて作ってませんよ。俺、素でこうなんで」
「そうか」
千歳は水を一口飲む。
「では、素で嘘がうまいんだな」
今度こそ、少しだけ黙った。
千歳はそれを見逃さなかった。
唇の端が、ほんの少し上がる。
「分かりやすい」
「よく言われます」
「嘘だろう」
「バレました?」
「今のは分かりやすすぎる」
なんだ、こいつ。俺は内心で舌打ちした。
距離を詰める前に、もうこっちの足元を見ている。
だが、焦るな。距離。
近づきすぎず、でも意識させる。
逃げ道を残す。
それが今夜の作戦だ。
俺は椅子を少し引き、メニューを取るふりをして、テーブル越しに身を乗り出した。
近すぎず、遠すぎず。
相手が逃げられる余白を残しながら、意識だけはこちらに向けさせる距離。
女の子相手なら、この時点で大体分かる。
肩が強ばるか、目が泳ぐか、声が甘くなるか。
さて、御曹司様はどう出る。
「お好きなものは?」
俺は声を少し落とした。
「甘いものでも、苦いものでも。俺、合わせるの得意なんで」
千歳はメニューを見ずに、俺を見た。まっすぐに。
「近いな」
来た。意識した。
俺は笑う。
「嫌なら離れますけど?」
「いや」
千歳は、少しだけ身を乗り出した。
俺が作った距離を、あっさり上書きするように。
「逃げ道を残している距離だ」
「……」
「優しいのか、臆病なのか、どっちだ?」
喉の奥が詰まった。
俺は一瞬、返しを失った。千歳の目は涼しい。
でも、その奥にあるものは涼しさじゃなかった。
こちらの手札を一枚ずつめくって、面白がっている目。
「本気で近づく気がないなら」
千歳は穏やかに笑った。
「近いふりは、やめた方がいい」
その瞬間、俺は理解した。
この男は、鈍いふりをしている。
落とされる側の顔をして、最初からこちらを観察している。
そして、たぶん。俺が何のために来たのかも、ある程度は知っている。
普通なら、ここで引く。けれど俺は、引けなかった。
金のため。灯庭舎のため。
それもある。
けれど、もっと単純に。腹が立った。
そして、少しだけ面白かった。
「御曹司様」
「何かな」
「俺、結構しつこいですよ」
千歳は目を細める。
「懐くと?」
その言葉に、一瞬だけ耳の奥が熱くなった。
犬扱いか。いや、違う。
この人は、軽い冗談の顔で、こっちの反応を見ている。
「落とすまで」
千歳は、初めて少しだけ楽しそうに笑った。
「では、退屈させないでくれ」
その時、ウェイターが飲み物を運んできた。
千歳が注文したのは、紅茶だった。俺はコーヒー。
並べられたカップの縁に、ラウンジの光が薄く乗る。
千歳は白い手袋のまま、砂糖をひとつ取った。
その指先の動きが、やけにゆっくりに見えた。
「甘いものは嫌いかと思いました」
俺が言うと、千歳は砂糖を紅茶に落としながら答えた。
「嫌いではないよ」
「意外ですね」
「俺を何だと思っている?」
「苦いものしか飲まない御曹司様」
「雑だな」
「半分は褒めてます」
「残りは?」
「観察です」
千歳はスプーンを置いた。
それから、ふと俺の方へ手を差し出した。
白い手袋の指先が、テーブルの上を滑る。
「では、俺も観察しよう」
「何を?」
「君の距離感を」
「距離感?」
「君は、逃げ道を残して近づく。なら、こちらから距離を詰めた時にどうするのか見たい」
嫌な予感がした。
千歳はゆっくり、右手の手袋を外した。
指先から、丁寧に。
まるで、こちらが見ていることを知っているみたいに。
いや、知っている。絶対に知っている。
俺は視線を外そうとして、外せなかった。
白い手袋の下から現れた手は、想像より少し血色が薄かった。
細くて、長い。綺麗だ。
そう思った瞬間、自分の中で何かがまずい音を立てた。
「握手を」
千歳が言った。
「握手?」
「御曹司相手の仕事熱心なホストなら、断らないだろう」
「……もちろん」
手くらい、いくらでも握ってきた。
女の子の手、客の手。
泣いている子を駅まで送る時に、転ばないように取った手。
営業の握手、別れ際の握手。
そんなものに動揺するわけがない。
俺は手を出した。
千歳の手が、俺の手に触れる。
冷たかった。
けれど、ただ冷たいだけじゃなかった。
指先はひやりとしているのに、掌の奥にちゃんと温度がある。
強くは握られない。でも、逃がされてもいない。
優雅で、静かで、試すような握り方。
冴の声が頭の中でよみがえる。
『手ってね、相手を感じたいって感情が出るの』
いや、違う。これは仕事だ。観察だ。
俺が相手を観察しているだけだ。
そう思ったのに、俺の意識は完全に千歳の手に持っていかれていた。
「温かいな」
千歳が言った。
「ホストなので」
「それは関係あるのか?」
「たぶん」
「では、俺の手は?」
俺は答えに詰まった。
冷たい。綺麗。思ったより、薄くない。
人形みたいな見た目なのに、ちゃんと人の手だ。
そう言いそうになって、飲み込んだ。
「……綺麗ですね」
言ってから、まずいと思った。
千歳の目が、ほんの少しだけ丸くなる。
それから、ゆっくり細められた。
「手を褒められたのは初めてだ」
「顔は褒められ慣れてそうなので」
「君もだろう」
「俺は顔が商品ですから」
「では、俺の手は?」
「商品じゃないでしょう」
「なら、なぜ褒めた?」
完全に詰められている。俺は笑うしかなかった。
「綺麗だと思ったからです」
千歳の指が、一瞬だけ俺の手を握り返した。
ほんの少し。誰にも分からないくらい。
でも俺には分かった。
その一瞬、千歳の表情がわずかに柔らかくなったことも。
すぐに手は離れた。たった数秒。ただの握手。
なのに、俺の手にはまだ彼の温度が残っていた。
いや、冷たさが残っていた。
違う。どっちだ。
千歳は外した手袋を、ゆっくり戻した。
その動きまで、妙に目に焼きつく。
「マトイくん」
「はい」
「君は、女の人にもそうやって手を褒めるのか?」
「必要なら」
「必要?」
「相手が、それを欲しがっているなら」
「では、俺が欲しがっていたと?」
俺はまた言葉に詰まった。
千歳の視線は、穏やかなのに逃げ場がない。
「……そこは、まだ観察中です」
「そうか」
千歳は少し笑った。
「では、俺も観察を続けよう」
「何を?」
「君が、どこまで役を作っているのか」
またそこか。
俺は笑みを深くした。
「御曹司様、疑い深いですね」
「鈍いふりは得意だが、鈍くはないので」
その一言に、背筋が少し冷えた。
自分で言った。鈍いふり。やっぱり、この人は分かっている。
「それ、自分で言うんですね」
「君には、先に言っておいた方が面白そうだから」
「面白がられてます?」
「かなり」
「褒めてます?」
「半分」
「もう半分は?」
「興味」
その言葉が、さっきの握手よりも少しだけ熱かった。
この時点では、まだ俺は勘違いしていた。
これは仕事だと。俺が仕掛けているのだと。玻璃宮千歳を落とすゲームが、今始まったのだと。
違う。ゲーム盤の上に立たされたのは、俺の方だった。
そして俺は、そのことに気づかないまま、人生で一番厄介な男に向かって笑っていた。
****
ラウンジを出る頃、夜はすっかり深くなっていた。
ホテルの自動ドアを抜けると、外の空気が少し冷たい。
俺はタクシー乗り場へ向かう途中で、何度か自分の手を開いた。
馬鹿みたいだ。
ただの握手だ。仕事相手と握手しただけ。
それなのに、指先の感覚が消えない。
冷たい。
でも、握り返された一瞬だけ、確かに熱かった。
俺はスマホを取り出し、冴にメッセージを送った。
『手で攻めるって、意味分からん』
すぐに返信が来た。
『分かった?』
俺は舌打ちした。
『分かってない』
さらに返信。
『じゃあ、覚えてる?』
俺は画面を見たまま、少し黙った。
千歳の手。白い手袋。外される指先。
握られた瞬間の冷たさ。一瞬だけ強くなった力。
全部、覚えていた。腹立つくらい。
俺は返信せずに、スマホを閉じた。
****
その夜、部屋に戻ってから、 今日一日を思い起こした。
作戦は、近づきすぎない。触れすぎない。余裕のある男を演じる。
結果はどうだったか。
向こうから距離を詰められた。握手させられた。
玻璃 宮千歳、こちらの演技を見抜く。鈍いふりをしているだけで、鈍くない。
手が冷たかった。けど、握り返された時だけ少し熱かった。
何で覚えてるんだ俺。
白い手袋を外す千歳の指先が、また頭に浮かんだ。
俺はため息をつく。あの人の手を、もう一度確かめたい。
「……いや、違うだろ」
仕事だ。観察だ。御曹司を落とすための情報収集だ。
俺は男にどうこうなったことなんてない。
相手はただの攻略対象。
高額報酬つきの、面倒くさくて綺麗で読めない男。
そう言い聞かせた。
何も始まっていない。キスどころか、ハグでもない。手を握っただけ。
それなのに、俺はもう、少しだけ困っていた。
玻璃宮千歳。
鈍いふりをする御曹司。透明な宮殿に閉じこもった男。
俺はそいつを落とす仕事を受けた。金のために。灯庭舎のために。軽い仕事だと思って。
けれど、その夜。俺の頭に浮かんで消えない思い。
あの人の手を、もう一度確かめたい。
それこそが最初の敗北だと、まだ知らなかった。
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