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第2話 距離感をバグらせろ

玻璃宮千歳は、こちらの距離を測る男だった。 綺麗な顔で、穏やかに笑って、鈍いふりをしている。 けれど、少し近づいただけで分かった。 こいつは、人がどこまで踏み込んでくるかを見ている。 そして、踏み込んできた相手が本気なのか、ただの技術なのかを、たぶん一瞬で嗅ぎ分ける。 厄介だ。非常に厄介だ。だからこそ、負けたまま終われない。 初対面のホテルラウンジで、俺は綺麗に一本取られた。 「逃げ道を残している距離だ。優しいのか、臆病なのか、どっちだ?」 あの台詞が、店に戻ってからも耳に残っていた。 営業中、客に笑いかけても。シャンパンコールで派手に煽っても。女の子の愚痴に相槌を打っても。 気づけば、俺の頭の中では玻璃宮千歳が涼しい顔で笑っている。 それだけじゃない。 白い手袋を外した指先。 俺の手を握った時の、ひやりとした温度。 そのくせ、一瞬だけ握り返された時の熱。 ただの握手だった。仕事相手との挨拶。 それ以上でも以下でもない。 そう思っているのに、なぜか手のひらにまだ残っている気がする。 「……腹立つ」 「何が?」 目の前の客が首をかしげた。 俺はすぐ笑顔を戻す。 「いや、今日の俺が格好よすぎて」 「自分で言う?」 「誰も言ってくれないときは、自給自足」 女の子は笑った。 よし。仕事はできている。 できているのに、胸の奥がずっとざわついている。 これは敗北感だ。たぶん。いや、絶対そうだ。 俺は負けず嫌いだ。相手が女でも男でも、客でも御曹司でも関係ない。 先にこっちの手札を見抜かれた。それが気に入らない。 **** 営業後、俺はClub Perigeeの裏口を出て、そのまま冴を呼び出した。 朝の五時半。 まともな人間なら寝ている時間だ。 けれど笹目冴は、まともな人間ではない。 「で、初戦どうだった?」 駅前の喫茶店で、冴はホットコーヒーを前にしていた。 化粧も服もきちんとしている。 こっちは夜通し働いた後だというのに、向こうは朝のニュース番組に出られそうなくらい整っている。 「勝った」 「嘘つくなら、もう少し勝った顔しな」 「……引き分け」 「負けた男はだいたいそう言う」 「まだ負けてねぇよ」 冴はコーヒーを一口飲んで、俺を見る。 「じゃあ何があった?」 俺は昨夜のラウンジでの会話を話した。 近づいたこと。千歳が逃げなかったこと。 それどころか、こっちの距離の取り方を見抜いてきたこと。 逃げ道を残している距離だと言われたこと。 本気で近づく気がないなら、近いふりはやめた方がいいと言われたこと。 それから、白い手袋を外して、握手を求められたこと。 俺が、その手の冷たさをまだ覚えていること。 そこまで話すつもりはなかった。 なかったのに、気づけば言っていた。 話し終える頃には、冴は完全に面白がっていた。 「いいじゃん」 「どこが」 「強い受け」 「受けって言うな。まだ何も始まってねぇ」 「始まってるよ。アンタがその顔してる時点で」 「どの顔」 「攻略対象の手の温度を、朝まで覚えてる男の顔」 「言い方」 「事実でしょ」 「仕事上の観察だ」 「ホストって、仕事上の観察で男の手の温度を反芻するんだ?」 「反芻って言うな」 冴はメモ帳を取り出した。 本当に出した。しかもペンまで構えている。 「では反省会を始めます」 「店のミーティングかよ」 「攻略ログ第一回。テーマ、距離感」 「いや、最初からそれで行ったんだけど」 「行っただけ。踏み込めてない」 「は?」 冴はペン先でテーブルを軽く叩いた。 「アンタがやったのは、“近づいてる俺、余裕あるでしょ”って見せ方」 「それの何が悪い」 「相手が普通なら悪くない。むしろ有効。でも玻璃宮千歳は普通じゃない」 俺は黙った。それは認める。あいつは普通じゃない。 「たぶん千歳さんは、近づかれること自体には慣れてる。媚びられるのも、持ち上げられるのも、下心を向けられるのも慣れてる。だから、距離そのものじゃ動かない」 「じゃあどうすんだよ」 「距離を詰めるんじゃなくて、距離の意味を変える」 「日本語で頼む」 「アンタが近づく理由を、営業じゃなくて“見てしまったから”にする」 「……分からん」 「たとえば、疲れてるのに気づいたから近づく。寒そうだから上着をかける。危なそうだから手を引く。そういう距離は、ただの色仕掛けじゃない」 俺は腕を組んだ。 「つまり、気遣い?」 「そう。ただし、押しつけると負ける」 「むずくない?」 「むずいよ。相手、攻略不能御曹司だもん」 「その呼び方やめろ。腹立つから」 「でも合ってる」 「合っててもやめろ」 冴は楽しそうに笑った。 それから、なぜか真顔になった。 「あとね、腐女子向けに言うと」 「また出た。何向けだよ」 「腐女子向け」 「俺、仕事の反省会してるんだけど」 「だからしてるの。最初から抱きしめるのは安い。キスなんか論外。今は手」 「また手かよ」 「そう。指先。手首。袖。グラスを渡す時に触れる一瞬。そういうのが効く」 「何に」 「沼に」 「だから沼って何だよ」 「落ちたら抜けられないやつ」 「俺が落とす側だろ」 「うん。そう思ってるうちが一番危ない」 「怖いこと言うな」 冴は俺の手元を見た。 「で、手はどうだった?」 「冷たかった」 「ほう」 「でも、握り返された時だけ少し熱かった」 「はい」 「何が、はい、だよ」 「それ、もうログに書きな」 「書かねぇよ」 「書くよ。アンタそういう男だから」 腹立つ。 でも、書く気がしている自分がもっと腹立つ。 冴はメモ帳に大きく書いた。 ーー 攻略ログ01:距離感をバグらせろ ーー そして、その下にさらに書く。 ーー ただし、近づく理由を作れ。 ーー 「今日の作戦」 冴がペンを突きつけてくる。 「一、むやみに距離を詰めない」 「距離感攻略なのに?」 「だからこそ。近づく時は理由を持つ」 「はいはい」 「二、千歳さんの小さな変化を見る」 「疲れ、寒さ、警戒、興味、そういうやつ?」 「そう。アンタの得意分野」 「褒めた?」 「半分」 「残りは?」 「調子乗るな」 「はいはい」 「三、近づいた後に、必ず引く」 俺は眉を上げた。 「引く?」 「逃げ道を残してるって言われたんでしょ。なら今回は、逃げ道じゃなくて選択肢を渡す」 「違いは?」 「逃げ道は、自分が傷つかないため。選択肢は、相手を尊重するため」 俺は黙った。 そう言われると、昨日の俺はたしかに、傷つかない距離にいた。 いや、傷つくわけがない。 仕事だし。相手は男だし。御曹司だし。 「……何その顔」 冴がじっと見てくる。 「別に」 「もう刺さってるじゃん」 「刺さってねぇよ」 「その否定が刺さってる証拠」 うるさい。 俺は残りのコーヒーを一気に飲んだ。苦かった。 その時、スマホが震えた。 画面を見る。知らない番号。けれど、なぜか出る前から分かった。 通話ボタンを押す。 『おはよう、ホストくん』 声は、昨夜と同じだった。 涼しくて、少しだけ人をからかう響き。 玻璃宮千歳。 冴が目だけで「誰?」と聞いてくる。 俺は口の形だけで「御曹司」と返した。冴の目が輝く。最悪だ。 「朝からどうも、御曹司様」 『昨夜は楽しかったよ』 「それはよかった。俺も退屈しませんでした」 『そうか。君は退屈すると顔に出そうだからな』 「まだ一回しか会ってないのに、俺の何を知った気で?」 『一回で分かることもある』 相変わらず、嫌な間で刺してくる。 俺はわざと軽く笑った。 「で、朝のご指名ですか?」 『今日の夕方、時間は?』 「相手によります」 『俺なら?』 「空けます」 冴が向かいで無言の拍手をした。 やめろ。 『素直だな』 「仕事熱心なんで」 『その言い方は、少し寂しいな』 一瞬、返事が詰まった。冴のペンが止まる。 千歳は電話の向こうで、淡々と続けた。 『玻璃宮グループ主催の小さな内覧会がある。美術品と、開発予定地に関する資料展示だ。退屈しのぎに来るかい』 「俺を退屈しのぎに誘う御曹司、だいぶ豪胆ですね」 『君が俺を落とすつもりなら、俺の退屈くらいは引き受けるべきだろう』 心臓が変な鳴り方をした。 知っている。やっぱりこいつ、かなり知っている。 どこまでかは分からない。でも、何も知らない顔でこちらを誘っているわけじゃない。 俺は口元だけで笑った。 「分かりました。お相手しますよ」 『楽しみにしている』 通話が切れた。冴が身を乗り出す。 「今の何」 「デートのお誘い」 「仕事でしょ」 「そうとも言う」 「向こうから誘ってきたの?」 「ああ」 「罠じゃん」 「だろうな」 「行くの?」 「行く」 冴は深いため息をついた。 「あんた、分かってて罠に行くタイプだったっけ?」 「高い罠なら行く」 「金の亡者」 「褒め言葉」 「違う」 冴は俺の手元を見た。 「今日も手、見すぎないようにね」 「見ねぇよ」 「昨日の今日でそれ言う?」 「うるさい」 「あと、触れる時は理由。忘れない」 「はいはい」 「はいは一回」 「お前は俺の何なんだよ」 「腐女子向け戦術顧問」 「もう意味が分からん」 **** 夕方、指定された会場は、玻璃宮グループが所有する小さなギャラリーだった。 小さいと言っても、俺の感覚では十分でかい。 白い壁。高い天井。静かな照明。 派手なシャンデリアではなく、作品だけを浮かび上がらせるような光。 招待客は少ない。 財界人、文化人、金の匂いがする人間。 それから、金の匂いを消すのがうまい人間。 俺は黒のスーツで行った。ホストらしさは少し抑えた。 けれど完全には消さない。俺は俺で来た方がいい。 玻璃宮千歳を落とすために作った男ではなく、架橋纏という素材に、少しだけ夜の匂いを乗せた姿。 その方が、たぶんあいつは見る。 受付で名前を告げると、すぐにスタッフが中へ通してくれた。 その奥に千歳がいた。 濃紺のスーツ。白いシャツ。ネクタイはしていない。 昨日より少しだけ柔らかい印象なのに、近づきにくさは増している。 白い手袋は、今日もしていた。 やめろ。そこを見るな。 俺は自分に言い聞かせる。 「来たな、ホストくん」 「呼んだのはそっちだろ、御曹司様」 「遅刻しないのは好感が持てる」 「褒め方が上司」 「部下にした覚えはない」 「じゃあ何にする予定で?」 「それを見極めているところだ」 初手からこれだ。俺は笑った。 「怖い面接だな」 「君は不採用になっても来そうだ」 「しつこいんで」 「懐くと?」 「それ、気に入ったんですか」 千歳は少しだけ目を細めた。 「君が嫌そうな顔をするから」 「性格悪いな」 「よく言われる」 たぶん、言われない。周囲はこの男に、綺麗で、穏やかで、少し鈍い御曹司という印象を持っているのだろう。 けれど、俺にはもう分かっている。 こいつは全然鈍くない。むしろ、刃物みたいに鋭い。ただ、その刃を白い布で包んでいるだけだ。 「案内してくれるんですか?」 「もちろん。退屈させるなと言ったのは俺だが、招いたのも俺だからね」 千歳は歩き出した。 俺は隣に並ぶ。近づきすぎない。けれど遠くもない。 まずは相手の歩幅を見る。 千歳の歩き方は静かだった。 急がない。けれど遅くもない。 誰かに合わせているようで、実際は場全体を自分に合わせている。 展示されているのは、古い陶器やガラス細工、絵画、そして土地にまつわる資料だった。 その中に、水辺の丘を描いた古い絵があった。 青みがかった緑。ゆるやかな斜面。小さな建物。 俺はなぜか、その絵の前で足を止めた。 「気になる?」 千歳が聞いた。 「なんとなく」 「澪標の丘を描いたものだ」 「みおつくし?」 「水路の道しるべ。古い言葉だよ」 「へえ。御曹司様、教養ある」 「俺を何だと思っている」 「顔がいい金持ち」 「情報が浅い」 「これから深めます」 「期待している」 また、期待。昨日も言われた。 楽しみにしてる。その言葉が、なぜか手のひらの感覚と一緒に残る。 俺は絵を見るふりをして、千歳の横顔を見た。 ほんの少しだけ、目の温度が違った。 この絵を見ている時の千歳は、財閥の跡取りというより、何か大事なものを遠くから見ている人間の顔をしていた。 「好きなんですか、この場所」 千歳はすぐには答えなかった。 半拍。ほんの半拍だけ遅れた。 「母が好きだった」 「……そうですか」 「どうして敬語に戻る」 「戻りました?」 「戻った」 「じゃあ、癖で」 「嘘が下手になったな」 また刺された。俺は肩をすくめる。 「母親の話を雑に扱うほど、悪いホストじゃないんで」 千歳が、こちらを見た。その視線が、少しだけ止まる。 初めてだった。俺を観察する目ではなく、俺の言葉の内側を見ようとする目。 「それは、営業?」 「さあ」 「そこは否定するところだろう」 「否定したら安くなる気がした」 「……君は時々、変なところで言葉を選ぶ」 「褒めてる?」 「半分」 「残りは?」 「困っている」 その言い方が妙に静かで、俺は笑い返せなかった。 やめろ。そういう顔をするな。こっちは攻略中だ。 心の中で自分に言い聞かせる。 俺は玻璃宮千歳を落とすためにここにいる。 相手が少し寂しそうな顔をしたからって、調子を崩す必要はない。 その時、背後から男の声がした。 「千歳さん」 千歳の表情が、すっと変わった。 薄い微笑。穏やかな御曹司の顔。一瞬で、さっきの温度が消える。 振り返ると、スーツ姿の男が近づいてきた。 四十代くらい。いかにも財閥関係者という顔だ。 視線が俺を見て、一瞬だけ値踏みする。 それから、興味を隠すように千歳へ笑いかけた。 「お連れ様ですか?」 「ええ。友人です」 友人。 俺は内心で少し笑った。 御曹司の友人にしては、ずいぶん夜の匂いが強いだろう。 男は俺に軽く会釈した。 「失礼。玻璃宮グループの斎門様もいらしているようで」 千歳の目が、ほんの少しだけ細くなった。 斎門。 その名前を覚える。 「叔父上が?」 「ええ。白蝶会の方々と」 白蝶会。 今度は千歳の指先が、一瞬だけ止まった。 白い手袋の指が、手元のパンフレットの端を押さえる。 本当に一瞬。でも見えた。 「そうですか。後ほどご挨拶を」 「ぜひ」 男が去る。 千歳はしばらく無言だった。 その横顔は、もう絵を見ていた時のものではない。 玻璃宮グループの中枢にいる男の顔。冷たくて、硬い。 俺はその隣に立ったまま、何も言わなかった。 今は踏み込むべきなのか。引くべきなのか。分からない。 分からないけれど、冴の言葉が頭に浮かんだ。 近づく理由を作れ。 疲れ。寒さ。警戒。興味。 そういう小さな変化を見る。 千歳は、警戒している。 そして、たぶん少し疲れている。 俺は近くのスタッフからグラスの水を二つ受け取り、片方を千歳に差し出した。 「飲む?」 千歳がこちらを見る。 「気遣い?」 「毒見済みじゃないけど」 「君が飲んだ方を渡せば、毒見になる」 「間接何とか狙いですか」 「その発想が安い」 「高級ホストなんで」 「値札を見せろ」 「お前限定なら時価」 千歳が、少しだけ笑った。 よし。戻った。いや、戻した。 俺が? そんな馬鹿な。 千歳はグラスを受け取った。 白い手袋の指先が、俺の指に軽く触れる。ほんの一瞬。 昨日なら、ここで少し押した。 触れた指をきっかけに距離を詰める。耳元で何か囁く。相手の呼吸を乱す。 でも今日は違う。俺はすぐに指を離した。 千歳が、その動きを見た。 「今日は引くんだな」 「押してばっかじゃ芸がないんで」 「昨日の反省?」 「俺は成長する男です」 「誰に教わった?」 痛いところを突く。 俺は笑う。 「企業秘密」 「女性かな」 「妬いた?」 「分析した」 「可愛くない」 「君が可愛い反応を担当しているから、役割が被る」 「誰が可愛い反応だ」 「今」 くそ。言い返せない。 千歳は水を飲み、また歩き出した。 俺は隣に並ぶ。今度は、さっきより少しだけ近い。 自分で詰めたわけじゃない。千歳の歩幅が、こちらに寄った。 偶然かもしれない。いや、たぶん違う。 こいつは、そういう偶然を装うのがうまい。 「ところで」 千歳が言った。 「君は、どうしてホストになった?」 不意打ちだった。 「急ですね」 「君が俺を知ろうとしているから、俺も君を知ろうと思って」 「俺を?」 「不公平は嫌いなんだ」 「御曹司様、公平とか気にするんだ」 「気にするよ。人を利用する時ほどね」 さらっと言う。 俺は笑ったが、胸の奥は笑っていなかった。 人を利用する時ほど。 やっぱり、千歳は俺をただの招待客とは見ていない。 こちらが何かの意図を持って来ていると知っている。 それでも、俺に問いを投げてくる。 「ホストになった理由ねぇ」 俺は絵画の前で足を止めた。 答えはいくつも用意できる。 顔がよかったから。金になるから。女に困らないから。夜の街が似合っていたから。 どれも嘘ではない。でも、全部ではない。 「金になるから」 結局、一番雑な答えを選んだ。 千歳は少しも驚かなかった。 「正直だな」 「嘘が下手になったって言われたんで」 「それで、金は好きか?」 「好きですよ」 「どう使う?」 「秘密」 「女に?」 「たまに」 「自分に?」 「必要な分だけ」 「残りは?」 質問が、まっすぐすぎる。 俺は千歳を見た。 千歳も俺を見ている。 涼しい目。でも、好奇心だけではない。何かを探っている。 俺が何を隠しているのか。金の亡者の顔の下に、何を置いているのか。 「御曹司様って、金持ちのくせに金の使い道気にするんですね」 「金は人間の本音が出る」 「名言?」 「経験則」 「じゃあ俺の本音は?」 千歳は答えなかった。その代わり、少しだけ距離を詰めた。 さっきまで俺がしていたことを、そのまま返すみたいに。 「君は、金が好きなふりをしている」 耳に届くくらいの低い声。近い。 昨日、俺が作ろうとした距離より、ずっと自然で、ずっと逃げにくい。 「ふり?」 「金そのものより、金で何かを繋ぎ止めようとしている顔だ」 息が止まりかけた。 灯庭舎。古い屋根。子供たちの声。院長先生の笑い皺。 全部が一瞬、頭に浮かぶ。 やめろ。そこを見るな。 「さすが御曹司様。金の話はお得意で」 俺は軽口で逃げた。 千歳は追わなかった。それが、逆に怖かった。 「今は、そういうことにしておこう」 「優しいですね」 「違う」 千歳は穏やかに笑った。 「逃げ道ではなく、選択肢を渡している」 頭の中で、冴の声がした。 逃げ道は自分が傷つかないため。選択肢は相手を尊重するため。 まさか。こいつ。 俺が今日やろうとしていたことを、また先にやったのか。 「……性格悪いな」 思わず本音が出た。 千歳は楽しそうに微笑む。 「よく言われる」 「絶対言われてないだろ」 「君には言われた」 「光栄ですね」 「そう思っている顔ではない」 「顔まで読むな」 「読みやすい」 「最悪だ」 「褒め言葉として受け取っておく」 やっぱり勝てない。 距離を詰めようとしても、こっちが近づく前に、千歳が距離の意味を変えてくる。 こいつは、俺が触れる前に、俺の内側へ手を伸ばしてくる。 触れていないのに近い。近づいていないのに逃げ場がない。 それが腹立たしい。 そして、厄介なことに。少し、心地よかった。 内覧会の終盤、千歳は数人の招待客に囲まれた。 俺は少し離れた場所でグラスを持ち、様子を見る。 穏やかに微笑む千歳。 相手の言葉に頷き、時折短い返事をする。 誰も彼が本音を隠しているとは思っていない。 鈍いふり。柔らかなふり。何も気づいていないふり。 けれど、俺にはもう少しだけ分かる。 千歳は全部拾っている。 誰が何を言ったか。誰が誰を見たか。誰が白蝶会という言葉に反応したか。 誰が叔父の名前を出したか。その全部を、笑顔の奥で並べている。 「綺麗な顔して、忙しそうだな」 俺が呟いた時、千歳がこちらを見た。本当に一瞬だけ。 招待客に囲まれたまま、視線だけが俺に来た。 見られている。分かっている。俺が離れたところから観察していることも。 俺が何を考えているかまでは、さすがに分からないだろう。分からないでほしい。 しばらくして、千歳が輪から抜け出してきた。 「退屈したか?」 「いや。御曹司様の仕事ぶり、見応えありました」 「褒めている?」 「半分」 「残りは?」 「疲れそうだなって」 千歳が、ほんの少し黙った。 その沈黙が、今日二度目の半拍だった。 「君は」 「はい?」 「そういうところだけ、雑ではないな」 「普段が雑みたいに言う」 「普段は雑だ」 「ひど」 「でも、今のは嫌いじゃない」 俺は返事に困った。 そんな何気ない言葉が、妙に胸に残る。 嫌いじゃない。それだけなのに。 「じゃあ、今後もたまに出します」 「何を」 「雑じゃない俺」 「希少価値があるなら見ておこう」 「限定品です」 「安売りは?」 「しません」 「良い判断だ」 会場の外へ出ると、夜風が少し冷たかった。 千歳はコートを持っていなかった。 車寄せまでは短い距離だ。でも、首元に当たった風に、千歳の睫毛がほんのわずか揺れた。寒いのか。 たぶん。ここで上着をかける。分かりやすい気遣い。距離を詰める理由にもなる。 けれど、千歳はそういうのを見抜く。 営業用だと判断する。 それでも。俺はジャケットを脱いだ。ただし、肩にかける前に声をかける。 「寒い?」 千歳がこちらを見る。 「聞くのか」 「聞くよ」 「ホストなら、黙ってかけた方が絵になる」 「絵より本人確認」 「……変な男だな」 「褒めてる?」 「今日は、少し」 千歳は目を伏せた。 「寒い」 一言だった。 俺はジャケットを千歳の肩にかけた。 近い。でも、昨日みたいな“見せるための近さ”ではなかった。 千歳が寒いと言ったから。だから近づいた。それだけだ。 「どうぞ、御曹司様」 「軽いな」 「重い上着は嫌でしょ」 「そういう意味ではない」 「分かってますよ」 千歳はジャケットの襟元に指をかけた。 その指が、布を少しだけ握る。 「君の匂いがする」 心臓が跳ねた。本当に、馬鹿みたいに。 「……ホストにそれ言うの、危なくないですか」 「危ないのは君だろう」 「俺?」 「今、動揺した」 「してません」 「している」 「してない」 「嘘が下手になったな」 またそれだ。俺は顔をそらした。 「寒いなら車まで行きますよ」 「逃げた」 「エスコートです」 「便利な言葉だ」 「ホストなんで」 「仕事?」 「……今のは違う」 言ってから、自分で驚いた。 千歳も少しだけ目を見開いた。その表情は、一瞬で消えた。けれど、見えた。 揺れた。今、千歳が揺れた。 俺は一歩下がろうとした。近づきすぎたと思った。 その瞬間、千歳の指が俺の袖口を軽く掴んだ。 本当に軽く。引き止めるというほど強くない。けれど、離れるなと言うには十分だった。 「……千歳?」 呼んでから、自分で驚く。 玻璃宮様でも、御曹司様でもなく。名前。 千歳の指先が、俺の袖を掴んだまま、ほんの少しだけ強くなる。 すぐに離れた。 「今、名前で呼んだな」 「……まずかったですか」 「いや」 千歳は俺のジャケットの襟を指で押さえた。 「その方が、今日は近い」 胸の奥が変な音を立てた。 近い。今日は昨日より近かった。 まだ言われる前に、もう分かってしまった。 俺は笑うしかなかった。 「じゃあ、サービスってことで」 「また仕事に戻すのか」 「戻さないと危ないんで」 「何が?」 「俺が」 千歳が、少しだけ笑った。 「正直だな」 「嘘が下手らしいんで」 「良い傾向だ」 **** 車寄せに黒い車が停まっている。 運転席から降りてきたのは、初老の男だった。 銀縁の眼鏡。整った白髪。 背筋がまっすぐ伸びた、絵に描いたような執事。 「坊ちゃま」 千歳の眉がわずかに動く。 「外ではやめろ、鏡味」 「失礼いたしました、千歳様」 鏡味。この人が、千歳の執事か。 鏡味静臣。 名前は知らなかったが、雰囲気で分かる。この男は、千歳の側の人間だ。 しかも、ただの使用人ではない。千歳の本当の顔を、たぶん俺よりずっと知っている。 鏡味は俺に目を向け、丁寧に頭を下げた。 「架橋纏様でいらっしゃいますね」 「はい。どうも」 「本日は、千歳様がお世話になりました」 「俺の方が遊んでもらった感じです」 鏡味の目が、わずかに細くなる。笑ったのかもしれない。 「そのようでございますね」 千歳が横から言う。 「余計なことを言うな」 「まだ何も」 「言う前の顔だった」 「さすがでございます」 なんだこの主従。 強い。 俺が見ていると、鏡味の視線が千歳の肩にかかった俺のジャケットへ落ちた。 そして、ほんの少しだけ表情が柔らかくなる。 「楽しそうでございますね」 「どこがだ」 「いえ。失礼いたしました」 千歳は明らかに不機嫌そうな顔をした。 しかしジャケットは返さない。 その事実に、なぜか俺の口元が緩みそうになる。 いけない。ここでにやけると負ける。 「じゃあ、俺はこれで」 「送らせようか」 千歳が言った。 「いいんですか?」 「君の上着を借りている」 「返してもらえばいいだけでは」 「寒い」 言い方。ずるい。 さっきまで財閥の人間相手に完璧な笑顔で立っていた男が、俺の上着を着たまま、当然のように「寒い」と言う。 その一言に、なぜか胸が締めつけられる。 「じゃあ、貸しときます」 「返す口実ができるな」 「……狙ってます?」 「君はどう思う?」 「御曹司様は怖い」 「正解だ」 千歳は車に乗り込む前、俺を見た。 「今日は昨日より近かった」 俺は返す言葉を探した。昨日より近かった。 それは成功なのか。それとも、また見抜かれただけなのか。 「俺の作戦勝ちですかね」 「作戦だったのか?」 笑顔で刺してくる。 俺は黙った。千歳は、俺の沈黙を見て薄く笑った。 「途中までは、そうだったんだろう」 「……」 「そこから先は?」 答えられなかった。 風が吹く。千歳の肩のジャケットが揺れる。 俺の匂いがすると言ったあの布を、千歳が指先で押さえる。 さっき袖を掴んだ指先が、今は俺のジャケットを掴んでいる。 それだけなのに、なぜか視線が外せない。 「次までに考えておけ」 「宿題ですか」 「君は勉強中なんだろう? 男を見る目を」 「……性格悪いな」 「よく言われる」 「俺にしか言われてないだろ」 「なら、君が初めてだ」 その言い方が、妙に甘く聞こえた。 いや、甘く聞いた俺の耳がおかしい。 車のドアが閉まる。黒い車が静かに走り出す。 俺はその場に立ったまま、自分の肩が少し寒いことに気づいた。 ジャケットを貸したからだ。 それだけ。それだけなのに、変な感じがした。 奪われた、というより、置いてきた。あの男の肩に、自分の一部を。 「……何やってんだ、俺」 **** その夜、俺は冴の部屋に直行した。 正確には、冴が「どうせ来るでしょ」と言って、勝手に場所を指定してきた。 笹目冴の部屋は、俺の部屋よりずっと生活感がある。 本棚、観葉植物、テーブルの上の茶菓子。 恋愛相談に来る男を迎えるには、妙に整いすぎている。 冴はソファに座り、膝にクッションを抱えていた。 「で、距離感攻略は?」 「勝った」 「顔」 「……引き分け」 「負けた男はだいたいそう言う」 「本日二回目」 「何があった」 俺は話した。 内覧会。澪標の丘の絵。千歳の母の話。白蝶会と斎門という名前。 千歳の肩にジャケットをかけたこと。寒いかと聞いたこと。 今のは仕事じゃないと言ってしまったこと。 そして、千歳が、俺の袖を掴んだこと。 冴は途中から、完全にニヤニヤしていた。 「何だよ」 「いや、いい負け方してるなと思って」 「負けてねぇ」 「じゃあ、攻略成功?」 「……距離は近づいた」 「物理的には?」 「ジャケット貸した」 「手は?」 「袖を掴まれた」 冴の目が輝いた。 「はい、来た」 「何が」 「袖掴み」 「だから何なんだよ」 「腐女子向けに言うと、袖を掴む男は強い」 「何でだよ」 「言葉にできない感情が指に出るから」 「……」 「千歳さん、何て言った?」 「名前で呼んだなって」 「ほら」 「何が、ほら、だよ」 「袖を掴んで、名前を拾った。もう十分強い」 「全然分からん」 「今は分からなくていいよ。あとで死ぬから」 「殺すな」 冴は楽しそうに笑った。 「心の距離は?」 俺は黙った。冴はにこっと笑う。 「はい、敗因」 「まだ言ってない」 「あんたが“距離を詰める作戦”をしてるつもりだったのに、途中から本気で心配したこと」 「心配くらいするだろ」 「仕事相手を?」 「寒そうだったから」 「そう。寒そうだったから近づいた。そこが今回の成功」 「成功なのかよ」 「成功だよ。でも勝ってはいない」 「なんで」 「千歳さんは、それを見抜いた」 俺はソファに沈んだ。 そう。見抜かれた。作戦だったのかと聞かれた。 途中までは、そうだったんだろう。 そこから先は?あの問いに答えられなかった。 「……なんなんだよ、あいつ」 「攻略不能御曹司」 「その呼び方やめろ」 「本当に攻略不能かもね」 「は?」 冴は真面目な顔になった。 「タイプ分類が効かないんだよ。歳上、甘え下手、高慢、承認欲求、ツンデレ、意識高い。たぶん全部ちょっとずつ当たってる。でも、どれでもない」 「めんどくせぇ」 「そう。めんどくさい男は腐女子向けに強い」 「腐女子向けって何だよ」 「沼」 「説明になってない」 冴は俺を無視して、メモ帳を開いた。 ーー 攻略ログ01:距離感をバグらせろ ーー その下に丸をつける。 「今回分かったこと」 「はいはい」 「千歳さんは距離そのものには動かない」 「うん」 「でも、理由のある距離には反応する」 「……たぶん」 「さらに、あんたが作戦から外れた瞬間を見抜く」 「最悪」 「最高」 「どっちだよ」 「腐女子向けには最高」 「また分からん言葉でまとめるな」 「それから」 冴はペン先を俺に向ける。 「あんたは、千歳さんの小さな変化をちゃんと見てる」 「仕事だからな」 「本当に?」 「本当に」 「なら、なんで母親の話で敬語に戻ったの」 俺は黙った。 「なんでジャケットを黙ってかけずに、寒いか聞いたの」 「……」 「なんで“今のは仕事じゃない”って言ったの」 「……うるせぇな」 冴は笑わなかった。 「いい? 今のアンタがやってるのは、攻略だけじゃない」 「じゃあ何だよ」 「理解しようとしてる」 胸の奥を、変なふうに押された気がした。 理解。 玻璃宮千歳を? 俺が? 仕事相手を? 男を? 御曹司を? 「違う」 「違わない」 「俺は、落とすために知ろうとしてるだけだ」 「うん。最初はね」 「今もだ」 「じゃあ次も試す?」 冴がメモ帳のページをめくる。 「次はツンデレ攻略」 俺は眉をひそめた。 「三十の御曹司にツンデレって」 「年齢は関係ない。素直じゃない人間は、褒められると一回刺してくる」 「あいつ、常に刺してくるけど」 「だから練習になる」 「何を?」 「刺された後に笑う練習」 「俺、サンドバッグ?」 「恋愛初心者」 「誰が」 「男相手は初心者でしょ」 言い返せない。冴は楽しそうに続ける。 「次のテーマは、皮肉の奥のデレを拾え」 「デレがあるように見えねぇ」 「あるよ」 「どこに」 「ジャケット返す口実ができるな、って言ったんでしょ?」 俺は黙った。 冴の笑みが深くなる。 「あれ、また会う口実を作ったのは千歳さんの方だよ」 「……」 「よかったね、ホストくん。次回予約入りました」 「うるせぇ」 本当にうるさい。 うるさいのに、否定できない。 スマホが震えた。画面を見る。 知らない番号からのメッセージ。 けれど、もう誰かは分かっている。 『上着を返したい。明後日の夜は空いているか』 たったそれだけ。 たったそれだけなのに、俺は数秒、画面を見たまま固まった。 冴が横から覗き込む。 「うわ」 「見るな」 「デレじゃん」 「これが?」 「千歳さん的にはたぶん最大級」 「分かりづらすぎる」 「だから攻略不能なんでしょ」 俺はスマホを握ったまま、しばらく返事を考えた。 軽く返すなら、いくらでもある。 もちろんです、御曹司様。ご指名ありがとうございます。 今度は俺の上着だけじゃなく、俺も持って帰ります? いつもの俺なら、そのくらい打った。 でも、指が止まった。なぜか、軽くしたくなかった。 冴がそれを見て、少しだけ優しい顔をした。 「ねえ、纏」 「何」 「得意技ほど、本気が混ざった時にバレるって言ったでしょ」 「言ってたな」 「もうバレ始めてるよ」 「何が」 「アンタが、あの人を雑に扱えなくなってること」 俺は返事をしなかった。 代わりに、短くメッセージを打った。 『空いてる。返すだけで済むと思うなよ』 すぐに既読がついた。 返事は少し遅れてきた。 『では、退屈しないようにしてくれ』 俺は思わず笑った。 冴がそれを見て、勝ち誇ったように言う。 「今、嬉しそうな顔した」 「してねぇよ」 「してる」 「してない」 冴はメモ帳を自分の方へ引き寄せ、さらさらと短く書いた。 ーー 結果:距離は近づいた。ただし、纏が先に揺れた。 ーー 「攻略ログ。結果だけ」 「もっと書くことあるだろ」 「あるけど、アンタが認めないから書かない」 「何を」 「千歳さんに雑に触れなくなってること」 俺は言い返せなかった。冴は笑った。 「次回、ツンデレ攻略ね」 「俺が攻略する側だろ」 「そういうことにしといてあげる」 俺はスマホの画面を伏せた。 胸の奥に、まだ千歳の声が残っている。今日は昨日より近かった。そう言われた。 たしかに、少しだけ近づいた。 でも、それが俺の作戦通りだったのかは分からない。むしろ、近づいたと思った瞬間、俺の方が引き寄せられている気がする。 落とすために距離を詰めている。そう自分に言い聞かせる。 でも、冴の言葉が耳から離れない。 理解しようとしてる。 違う。これは仕事だ。俺は玻璃宮千歳を落とす。 そのために近づいている。そのはずだ。 なのに、どうしてだろう。返してもらう上着が、少しだけ惜しいと思った。 そして、次に会う理由ができたことに、少しだけ安心している自分がいた。まだ、これは攻略だ。そう言える。 でも、あの男の肩に置いてきた上着の感触だけは、どうしても仕事だけでは片づかなかった。

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