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第3話 皮肉屋のデレを拾え
上着を返してもらうだけ。本当に、それだけのはずだった。
俺は何度も自分に言い聞かせた。
相手は玻璃宮千歳。
財閥の御曹司。敵が用意した攻略対象。俺は金のために近づいている。灯庭舎を守るために、あの男と世間に誤解される程度に親しくなる。それだけだ。
だから、上着一枚を返してもらうだけの約束に、わざわざ服を選ぶ必要なんてない。必要ない。
必要ないはずだった。
「……で、なんで三着目?」
鏡の向こうで、仁科螢が呆れた声を出した。
Club Perigeeの控室。
俺は黒のシャツを羽織ったまま、鏡の前で腕を組んでいた。
一着目は少しホストすぎた。
二着目は逆に地味すぎた。
三着目は、たぶんちょうどいい。
夜の匂いは残しつつ、押しつけがましくない。玻璃宮千歳の隣に立っても、浮きすぎない。
いや、浮いていい。むしろ浮くべきだ。俺はあいつの世界の人間じゃないのだから。
「これでいいか」
螢はソファに寝転がったまま、スマホ越しに俺を見る。
「どれでも顔で勝つから安心しろ」
「雑な褒め方」
「お前、人のこと言えないだろ」
「俺は客に合わせる」
「今日は誰に合わせてんの?」
即答しかけて、止まった。螢がにやっと笑う。
「御曹司?」
「仕事相手」
「上着返してもらうだけなんだろ?」
「そう」
「なのに、香水も薄めにしてる」
「鼻が利く相手かもしれないからな」
「髪もセットし直した」
「寝癖」
「今から寝癖つくほど寝てないだろ」
うるさい。
本当にこいつは余計なところばかり見ている。
螢はスマホを伏せ、起き上がった。
「マトイ」
「何」
「お前、客に会う前の顔じゃない」
「どんな顔だよ」
「初デート前の顔」
「殺すぞ」
「ホストの殺すぞ、だいぶ軽いな」
「重く言えばいいか?」
「やめろ。顔がいい男の低音は怖い」
俺はシャツのボタンを一つ留めた。一番上までは留めない。固すぎるのは違う。でも、開けすぎるのも違う。
何を真面目に考えているんだ、俺は。
「……上着返してもらうだけだ」
「自分に言い聞かせるな」
「言い聞かせてねぇよ」
「その否定がもう言い聞かせ」
螢はため息をつき、俺に紙袋を投げてきた。
「ついでにこれ、持ってけ」
「何」
「灯庭舎の子らに頼まれてたやつ。絵本。古本屋に出てた」
紙袋の中には、子供向けの絵本が数冊入っていた。端は少し擦れているが、中身は綺麗だ。
「いくら」
「いい。俺から」
「いや、払う」
「お前、そういうとこ可愛くねぇな」
「可愛さで売ってない」
「知ってる。意地で売ってる」
俺は紙袋を見下ろした。
灯庭舎の子供たちは、絵本が好きだ。特に古い建物にまつわる話や、森の話、水辺の話。
昨日見た澪標の丘の絵が、ふと頭に浮かんだ。
母が好きだった。そう言った時の、千歳の横顔。ほんの半拍だけ遅れた返事。
それから、俺の袖を一瞬だけ掴んだ指。名前で呼んだな、と拾った声。
あれを、今でも覚えている。
「……サンキュ」
「いいよ」
螢は少しだけ真面目な顔になった。
「無茶すんなよ」
「してない」
「してる時ほど、お前はそう言う」
「じゃあ何て言えば満足なんだよ」
「今日は御曹司に会うからちょっと浮かれてます、って」
「殺すぞ」
「ほら、軽い」
俺は紙袋を持って控室を出た。
廊下の途中で、スマホが震えた。冴からだった。
『今日、上着返却デート?』
俺は即座に返す。
『仕事』
すぐに返事。
『はいはい。攻略ログ02、覚えてる?』
覚えている。
忘れようがない。
昨日、冴はメモ帳にでかでかと書いた。
ーー
攻略ログ02:皮肉屋のデレを拾え
ーー
千歳は皮肉屋だ。
刺してくる。茶化してくる。こちらの軽口をそのまま返して、上から見下ろしてくる。
だが冴いわく、素直じゃない人間は、褒められると一回刺してくる。
その刺し方の奥に、反応がある。照れ。困惑。興味。小さな揺れ。
それを拾う。
今回の作戦は、それだった。
スマホがまた鳴る。
『今日の注意点。
千歳さんの皮肉に怒らない。
笑って受ける。
でも、照れを見つけたら軽く拾う。
押しすぎると死ぬ』
死ぬって何だ。俺は短く返した。
『了解。刺された後に笑えばいいんだろ』
『そう。あと、腐女子向けに言うと、手元を見逃すな』
また出た。腐女子向け。
俺は眉間を押さえた。
『手元?』
『皮肉屋は口で隠す。でも本音は、指先、袖、カップを置く手に出る。そこ拾え』
何語だ。本当に何語なんだ。
俺は返信する。
『俺は御曹司を落とす相談をしてるんだが』
『だからしてる。ただし、あんたが照れる可能性も高い』
『ない』
『その即答がフラグ』
俺はスマホを伏せた。
冴の言葉はうるさい。でも、だいたい当たるからもっと腹が立つ。
****
約束の場所は、前回のホテルでも、ギャラリーでもなかった。
千歳が指定してきたのは、古い洋館を改装した会員制のティーサロンだった。
財閥関係者が密談に使いそうな、やたら静かな場所。
外観は控えめなのに、ドアマンの靴が俺の家賃より高そうだった。
受付で名前を告げると、奥の個室へ通された。
扉が開く。
千歳はもう席にいた。白いシャツに、薄いグレーのジャケット。昨日までより少し柔らかい色なのに、妙に近寄りがたい。
机の横には、丁寧に畳まれた俺のジャケットが置かれていた。
透明なカバー越しでも分かる。クリーニング済みだ。しかも、端まできっちり整えられている。
「遅い」
「約束の五分前ですけど」
「俺は十分前に来た」
「御曹司様、せっかちですね」
「君が遅く感じた」
言われた瞬間、返事に困った。何だそれ。ずるくないか。
千歳は澄ました顔でカップを持ち上げる。
「どうした?」
「いや。今の、軽く言うには火力高いなと」
「火力?」
「こっちの話です」
俺は向かいに座った。
テーブルには、紅茶と、やたら綺麗な焼き菓子が並んでいる。
「上着」
千歳が言う。
「返す。世話になった」
「丁寧ですね」
「借りたものは返す」
「返すだけなら、秘書に預けてもよかったんじゃ?」
千歳はカップを置いた。
「そうすると、君に会う口実がなくなる」
まただ。さらっと刺してくる。
俺は心臓が跳ねたのを、笑顔で隠した。隠せているはずだ。
「口実、欲しかったんですか?」
「君は欲しくなかったのか?」
「質問に質問で返すの、ずるいですよ」
「答えにくい質問をする君が悪い」
千歳は俺のジャケットを手に取った。白い手袋ではなかった。今日は素手だった。
それに気づいた瞬間、俺の視線は一瞬だけそこへ落ちた。
細く長い指。カバーの端をつまむ指先。あの冷たさと熱を知ってしまった手。
「どうした?」
「いえ」
「手を見ていたな」
「見てません」
「嘘が下手になったな」
早い。初手から早い。
千歳は立ち上がり、俺の方へジャケットを差し出した。
受け取るしかない。俺は手を伸ばした。
透明なカバーの上から、千歳の指先と俺の指先が触れる。
ほんの一瞬。けれど、前より近い。布ではなく、薄いビニール一枚。冷たさはほとんど伝わらない。なのに、あの手だと分かる。
「今日は動揺しないんだな」
千歳が言った。
「上着返してもらうだけで動揺する男に見えます?」
「昨日は手を褒めただけで、少し詰まっていた」
「よく覚えてますね」
「印象的だったから」
「俺の反応が?」
「君の顔が」
「顔は商品なんで」
「では、よく見ておこう」
やめろ。そういうことを、そんな涼しい顔で言うな。
俺はジャケットを受け取った。
千歳の指が離れる。その離れ方が、なぜか少しだけ惜しく感じた。
馬鹿か。上着を返してもらっただけだ。
「で」
俺は椅子に戻り、少しだけ身を乗り出した。
近づきすぎない。距離の意味を変える。今日は、反応を見る。
「俺に会いたかった?」
千歳は眉ひとつ動かさなかった。
「自意識が高いな」
来た。皮肉。ここで笑う。刺された後に笑う。
俺は口元を上げた。
「ホストなんで」
「自意識で食べている?」
「顔と会話と少しの夢で食べてます」
「夢が少ないな」
「多すぎると重いでしょ」
「君の夢は軽そうだ」
「ひど」
「でも、持ち運びやすそうではある」
「褒めてる?」
「半分」
「残りは?」
「保留」
俺は笑った。
千歳も、ほんの少しだけ笑った。本当に少し。カップの向こうで唇の端が揺れる程度。でも、見えた。
「今、笑いましたね」
千歳の目がこちらを向く。
「笑ったが?」
「認めるんだ」
「笑うことくらいある」
「俺の前で?」
「君の前で笑うと、何か特典が?」
「俺が喜びます」
「安い特典だ」
「でも、限定品ですよ」
「君の喜びが?」
「俺が本気で喜ぶのが」
口にしてから、少しだけしまったと思った。
本気。この単語を軽く使うと、千歳は見逃さない。案の定、千歳の視線が細くなる。
「本気?」
「言葉の綾です」
「逃げた」
「エスコートです」
「便利な言葉だ」
昨日と同じ返し。けれど、今日は少し空気が柔らかい。
昨日より近い。物理的ではなく、会話の距離が。
俺はそこで作戦を思い出した。皮肉の奥のデレを拾え。
千歳は皮肉で返す。でもその皮肉は、全部を拒絶するためではない。むしろ、受け取り方が分からない時に出るのかもしれない。
「御曹司様って」
「何かな」
「褒められるの苦手でしょ」
千歳はカップを持つ手を止めた。ほんの一瞬。
よし。見えた。
「なぜそう思う」
「褒めると、だいたい刺してくる」
「君の褒め方が雑だからだ」
「顔がいいとか?」
「雑だ」
「金があるとか?」
「もっと雑だ」
「でも、綺麗ですよ」
千歳がこちらを見る。
「それも雑だな」
「本気でも?」
沈黙。今度は、少し長かった。
やばい。踏み込みすぎたか。けれど、引くには遅い。
千歳は静かに言った。
「君は、綺麗という言葉をずいぶん簡単に使う」
「仕事柄」
「だろうな」
「でも、さっきのは仕事じゃない」
また言ってしまった。この前も同じようなことを言った。今のは仕事じゃない。
あの時、千歳は「少し困る」と言った。今日も、同じように困るのだろうか。
千歳は目を伏せ、紅茶の水面を見た。指先がカップの縁をなぞる。
一周。それから止まる。
「……そういうのを、簡単に言うな」
声が低い。
怒っているわけではない。責めているわけでもない。たぶん、困っている。
俺は軽く笑おうとして、うまくできなかった。
「簡単じゃないですよ」
「なら、なお悪い」
「何で」
「返し方に困る」
可愛い。そう思った。
まずい。非常にまずい。この男を可愛いと思うのは、かなりまずい。
冴の声が頭で爆笑している気がした。俺はごまかすように焼き菓子へ手を伸ばした。
「食べていいですか」
「そのために用意した」
「御曹司様、甘いもの好き?」
「嫌いではない」
「出た。嫌いではない」
「何が」
「好きって言わないところ」
「君はすぐ分類したがるな」
「仕事柄」
「それで、俺は何に分類された?」
「皮肉屋のツンデレ」
空気が止まった。しまった。言った。言ってしまった。
千歳はカップを置いた。ことん、と小さな音がする。
「俺が?」
「いや、これは」
「ツンデレ」
「違います。作戦上の用語というか」
「作戦」
やばい。今、一番言ってはいけない単語を踏んだ。
千歳の笑みが深くなる。柔らかいのに怖い。
「君は今日、俺の“デレ”を拾いに来たのか」
「……」
「ホストくん」
その呼び方が、いつもより甘く聞こえた。
いや、違う。甘いのではない。餌だ。こっちを逃がさないための、綺麗な餌。
「答えにくい?」
「まあ、少し」
「では、答えなくていい」
意外だった。追及されると思った。
千歳は焼き菓子を一つつまんで、小さな皿ごと俺の前へ滑らせた。
「代わりに、君のデレを拾うことにする」
「は?」
皿が俺の手元に来る。
俺が受け取ろうとした瞬間、千歳の指先が皿の端に残っていた。
俺の指が、そのすぐ横に触れる。触れてはいない。でも、近い。白い皿の端で、指先同士が触れそうで触れない。
千歳はそこを見て、少しだけ目を細めた。
「君は分かりやすい」
「俺が?」
「そうだ」
「どこが」
「俺が少し笑うと、嬉しそうな顔をする」
息が止まった。千歳は穏やかに続ける。
「俺が君の言葉に困ると、君も困る」
「……」
「俺が上着を返す口実で君を呼んだら、妙に丁寧な格好で来た」
「それは普通に」
「香水も薄い」
「……」
「俺が匂いに触れたから?」
最悪だ。全部見ている。本当に全部見ている。
俺は顔に出さない方だと思っていた。少なくとも、客相手にはそうだった。
感情を見せるのも仕事。隠すのも仕事。
けれど千歳の前では、隠したつもりのものが、なぜか拾われる。
「御曹司様」
「何かな」
「人のこと観察しすぎでは?」
「君が先に俺を攻略しようとした」
「まだ何も言ってない」
「言わなくても分かる」
「怖」
「君ほど分かりやすい教材は珍しい」
「教材扱いですか」
「男を見る目を勉強中なんだろう?」
会話を覚えている。
俺が言った、男を見る目は勉強中という言葉。こんなところで返してくるか。
「性格悪いな」
「君がそう言うのは二回目だ」
「数えてるんですか」
「印象的だったから」
「俺の悪口が?」
「君の本音が」
また、返せない。
今日の作戦は、千歳の皮肉の奥のデレを拾うことだった。でも実際には、俺の反応ばかり拾われている。それも、こっちが隠しているつもりのものばかり。
千歳は、俺の皿に置いた焼き菓子を指した。
「食べないのか」
「食べますよ」
俺は焼き菓子を口に入れた。甘い。上品な甘さ。
たぶん、普段の俺なら「うまい」で終わる。でも、千歳が見ているから、なぜかちゃんと言わなければいけない気がした。
「美味い」
「そうか」
「これ、好きなんですか」
「子供の頃から」
「へえ」
「母がよく買ってくれた」
また、母。
千歳の亡き母、水緒。澪標の丘。
灯庭舎。
まだ俺は、その繋がりを知らない。
でも、千歳が母の話をする時、少しだけ声の温度が変わることは分かる。
「じゃあ、大事な味ですね」
言ってから、自分で驚いた。まただ。また、雑にできなかった。
千歳も、少しだけ驚いたように見えた。ほんの一瞬。
だがすぐに、いつもの皮肉屋に戻る。
「君は本当に、時々だけ言葉を選ぶ」
「時々だけですか」
「普段は安い」
「高級ホストなのに」
「高級だからといって、語彙まで高級とは限らない」
「刺すなぁ」
「刺さった?」
「まあまあ」
「なら、謝ろうか」
「謝れるんですか?」
「君相手なら、検討する」
「それは光栄ですね」
「光栄そうな顔ではないな」
「いや、今ちょっと嬉しいです」
千歳の動きが止まった。俺も止まった。何を言っているんだ、俺は。
ちょっと嬉しいです。普通に言った。あまりにも自然に。
客相手の甘い台詞ではない。相手を落とすための言葉でもない。ただ、今そう思ったから言った。
冴の言葉が脳内で響く。本気が混ざった時にバレる。
千歳は、少しだけ視線を逸らした。本当に、少しだけ。そして言った。
「今、照れただろ」
俺は目を見開いた。
「は?」
それ、俺の台詞だった。今日の作戦では、俺が千歳に言うはずだった。
千歳の小さな反応を拾って、今、照れましたねと軽くからかうはずだった。なのに、言われた。先に。
「照れてない」
「目が泳いだ」
「泳いでない」
「声も少し遅れた」
「分析するな」
「耳が赤い」
「照明のせいだ」
千歳の口元が、ゆるく上がる。
「ここ、間接照明だけど」
俺は言葉を失った。
最悪だ。俺が言うはずの台詞を、なぜか全部逆に食らっている。
「君の存在が目に悪い」
千歳が言った。
「……は?」
「照明ではなく、君の存在が目に悪い。だから見間違えたことにしておこう」
そう言って、千歳は紅茶を飲んだ。涼しい顔で。
俺は固まっていた。今のは何だ。皮肉か?照れ隠しか?両方か?
分からない。分からないが、破壊力が高い。
君の存在が目に悪い。それは、悪口なのか。それとも。
「御曹司様」
「何かな」
「それ、褒めてます?」
「どうだろう」
「逃げた」
「エスコートだ」
「俺の台詞取らないでください」
「便利だったから借りた」
「返してください」
「嫌だ」
「子供か」
「君には言われたくない」
千歳の声は、さっきよりわずかに柔らかい。
その柔らかさを、俺はたしかに拾った。拾ったのに、うまく扱えない。
からかえばいい。軽く押せばいい。「照れましたね」と言えばいい。
でも、口が動かなかった。
千歳が本当に少しだけ照れているのだとしたら、そこを雑に触るのがもったいない気がした。
いや、違う。怖かった。この柔らかさを、俺の軽口で台無しにするのが。
「……何だ」
千歳が俺を見る。
「黙ると不気味だな」
「普段の俺、そんな喋ります?」
「喋る。意味のあることも、ないことも」
「ないこと多い?」
「多い」
「ひど」
「でも、ないことを喋っている時の方が、君は楽そうだ」
今度は俺が黙った。千歳はカップを置く。
「今のは、刺さった?」
「……まあまあ」
「なら、謝ろうか」
「検討で」
「では検討する」
俺は笑った。
それで、ようやく少し呼吸が戻る。
この男は怖い。人の軽さを剥がしてくる。けれど、剥がし方が乱暴ではない。
刃物なのに、冷たい手当てみたいでもある。痛いのに、嫌じゃない。それが一番まずい。
「ところで」
千歳が言った。
「君に見せたいものがある」
「俺に?」
「そう」
「また罠ですか」
「君は罠と分かっていても来るだろう」
「高い罠なら」
「今回は無料だ」
「逆に怖いな」
千歳は席を立った。俺も続く。
上着を返すだけの約束だったはずが、会員制サロンの奥へ案内されている。
扉を抜けた先には、小さな書庫があった。
壁一面の本棚。古い資料。革張りの椅子。窓の外には、手入れされた中庭。
ここだけ時間が止まっているみたいだった。
「すご」
思わず素で出た。
千歳がこちらを見る。
「語彙が安い」
「今のは素直な感想です」
「ますます安い」
「御曹司様、俺への当たり強くないですか」
「君が丈夫そうだから」
「雑」
千歳は本棚から一冊の古いファイルを取り出した。
表紙には、玻璃宮グループの古い印がある。
「昨日、君は澪標の丘に反応した」
「そうでした?」
「した」
「よく見てますね」
「君も見ていただろう」
返す言葉がない。
千歳はファイルを開き、古い地図を見せた。
澪標の丘。その名前が、地図の端に書かれている。
緑地。水路。古い建物の記号。ただ、それが何を意味するのかは、まだ分からない。
千歳の指が、地図の上をなぞる。
白く長い指。さっき俺にジャケットを返した手。焼き菓子の皿を押した手。俺の反応を全部拾ってくる手。
「ここは、今少し面倒なことになっている」
「面倒?」
「開発の話がある」
「リゾートとか?」
千歳が、わずかに目を細めた。
「よく分かったな」
「昨日、白蝶会って名前が出た時、あんたの顔が一瞬変わった」
「……君もよく見ている」
「ホストなんで」
「便利な言葉だな」
「貸しましょうか」
「もう借りている」
千歳は地図を指でなぞった。
「白蝶リゾート構想。表向きは地域再生計画だ」
「表向きは?」
「実際には、古いものをまとめて潰して、新しい金の流れを作るだけだ」
その声は冷たかった。綺麗な刃物のように。
でも、怒りがある。千歳は怒っている。穏やかに、静かに。
「反対してるんですか」
「俺はね」
「御曹司様が反対してるなら、止められるんじゃ?」
「簡単なら、君をこんなところに連れてきていない」
「俺、関係あります?」
千歳は俺を見た。
その視線は、探るようでもあり、試すようでもあった。
「今は、まだ分からない」
「今は?」
「君がどこまで踏み込む気があるのか、見ている」
まただ。距離。どこまで踏み込む気があるのか。
俺は笑おうとした。でも、うまく笑えなかった。
「俺、ホストですよ」
「知っている」
「財閥の開発問題とか、似合わない」
「似合うかどうかで人は役に立たない」
「御曹司様、そういうところ意識高いですね」
「茶化した」
「バレた」
「なぜ茶化した?」
なぜ。答えは簡単だ。重かったからだ。
千歳の守りたいもの。白蝶会。開発。澪標の丘。
その全部が、俺の知っている何かに近い気がした。
でも今はまだ、それが何か分からない。分からないから、怖い。
俺は、まだ千歳の世界に踏み込む覚悟がない。
攻略対象としてなら近づける。男としてなら、どうだ。
「……すみません」
自然に出た謝罪に、千歳が少し目を見開いた。
「謝れるのか」
「御曹司様ほどじゃないですけど」
「俺はまだ謝っていない」
「検討中でしたっけ」
「そうだったな」
千歳は少し笑った。その笑い方が、サロンで見たものとは違った。
ほんの少しだけ、力が抜けている。俺はそれを拾った。今度こそ、拾えた。
「今の笑い方、いいですね」
千歳の動きが止まる。
「何だ、急に」
「いや。さっきまでの笑顔より、そっちの方が好きです」
言ってから、またやったと思った。今日の俺は、どうも口が先に動く。
千歳は視線を逸らした。今度は確実に。耳が、ほんの少し赤い。たぶん。いや、これは照明じゃない。書庫の灯りは暖色だが、耳だけ赤くなるほどではない。
「今、照れた」
言えた。ようやく、俺の番だった。
千歳が俺を見た。
「目が悪いんじゃないか?」
来た。
「いや、耳が赤い」
「照明のせいだ」
「ここ、間接照明だけど」
千歳の眉がわずかに動く。
俺は勝ったと思った。一瞬だけ。本当に、一瞬だけ。
千歳はゆっくり近づいてきた。俺の目の前に立つ。
近い。ずっと自然で、逃げ道のない近さ。
「では、君の目が悪いのではなく」
千歳が低く言った。
「君の存在が、俺の目に悪いんだろう」
さっきと同じ言葉。でも、近い距離で言われると、意味が変わる。
俺は固まった。
千歳がほんの少し首を傾げる。
「今、照れただろ」
「……してねぇよ」
「してる」
「してない」
「顔が赤い」
「照明のせいだ」
「ここ、間接照明だけど」
全部返された。完璧に。しかも俺より上手く。
「……性格悪いな」
「三回目」
「数えるな」
「君の本音だから」
「本音じゃねぇ」
「その否定も分かりやすい」
もう何も勝てない。何を仕掛けても、千歳はその一手先で返してくる。
それなのに、俺は腹が立つより先に、笑ってしまった。
「何だ」
千歳が言う。
「いや、御曹司様、ほんと可愛くないなと思って」
「褒めている?」
「半分」
「残りは?」
「……面白い」
千歳の目が少しだけ細くなる。
「俺が?」
「はい」
「君は、変な男だな」
「よく言われます」
「誰に?」
「冴に」
「女性の名前だ」
「幼馴染。姉貴分。俺の人生に口を出す係」
「恋人?」
「違います」
即答だった。自分でも驚くほど即答だった。
千歳はそれを見て、わずかに笑う。
「なぜそんなに慌てる」
「慌ててない」
「慌てている」
「違う」
「俺に誤解されたくなかった?」
まただ。すぐにそこを見る。
「……御曹司様って、性格だけじゃなくて目も悪いですね」
「今の返しは弱い」
「うるさい」
「ホストくんが崩れてきたな」
「誰のせいだと」
「俺?」
「自覚あるなら性格が悪い」
「四回目」
****
俺たちは、しばらく書庫で地図を見ていた。
千歳は澪標の丘について、それ以上深くは話さなかった。俺も聞かなかった。
ただ、白蝶リゾート構想という名前だけは、頭に残った。白蝶会。斎門。澪標の丘。千歳の母。そして、開発。まだ線にはならない。でも、点は増えている。
その時、古い地図の端が、窓から入った風で少し浮いた。
千歳が指で押さえる。俺も反射的に、反対側を押さえた。
地図の上で、俺たちの手が向かい合う。触れてはいない。でも、間にある距離は指一本分もない。
千歳の指が、澪標の丘の文字を押さえている。
俺の指は、その少し下の古い建物の記号を押さえていた。何の建物かは、まだ分からない。けれど、胸の奥がざわついた。
「ここは?」
俺が聞くと、千歳は視線だけを落とした。
「古い施設跡だ。今は詳細を確認中」
「ふうん」
その記号から、なぜか目が離れなかった。
灯庭舎の古い廊下の匂いが、一瞬だけ頭をよぎった。
千歳の指先が、地図の上で少し動く。俺の指先と、ほんの少しだけ触れた。
紙越しでも、分かる。冷たい。
けれど、逃げなかった。俺も、逃げなかった。
「……悪い」
俺が言うと、千歳は地図から目を離さずに言った。
「何が?」
「手、当たった」
「そうだな」
「離します」
「なぜ?」
答えに詰まる。
なぜ。触れたから。近いから。仕事の距離ではない気がしたから。
「理由がないので」
そう言うと、千歳の指が止まった。それから、彼はほんの少しだけ笑った。
「君は、時々だけ学習する」
「褒めてます?」
「半分」
「残りは?」
「惜しい」
「何が」
「理由ができたら、離れないのかと思って」
心臓が、また変な音を立てた。
俺は地図を押さえたまま、顔を上げられなかった。この男は、本当に危険だ。
****
帰り際、千歳は改めて俺にジャケットを渡した。今度はカバーを外して。
布地が、俺の腕に戻る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「クリーニングは済ませた」
「そこまでしなくても」
「君の匂いを消した」
「……え」
千歳は真顔だった。
「残っていると、少し困る」
また、困る。
こいつは俺を困らせるくせに、自分も困ると言う。ずるい。
「何で困るんですか」
「言わせる気か?」
「はい」
千歳は俺を見る。数秒、沈黙。そして、穏やかに笑った。
「まだ早い」
その言い方が、あまりにも余裕で。それでいて、少しだけ本音に近い気がして。俺は何も言えなかった。
****
店に戻る途中、俺は上着を腕にかけたまま歩いた。クリーニング済み。
千歳の言う通り、香水の匂いは薄くなっている。
けれど、完全には消えていない気がした。
何の匂いかは分からない。紅茶。古い書庫。澪標の丘の資料。
それから、玻璃宮千歳という男の、静かな体温。
馬鹿か、俺は。俺は首を振った。
****
そのまま冴の部屋へ向かった。
反省会は、もはや恒例になりつつあった。
「で、ツンデレだった?」
冴は開口一番、それを聞いた。
俺はソファに倒れ込む。
「……俺がツンデレ扱いされた」
冴は両手を叩いて笑った。
「正解じゃん」
「違う」
「その否定がもうツン」
「うるさい」
「で、千歳さんのデレは拾えた?」
俺は天井を見た。
拾えた、たぶん。耳が赤かった。視線を逸らした。俺の言葉に困った。俺の匂いが残ると困ると言った。また会う口実を作った。
地図の上で手が触れても、逃げなかった。
でも、それ以上に、俺の反応を、全部拾われた。
「拾ったけど、拾われた」
「いいね」
「よくねぇよ」
「何拾われたの?」
「俺が嬉しそうとか、照れたとか、服選んだとか、香水薄めたとか」
「全部じゃん」
「言うな」
冴はしばらく黙った。そして、にっこり笑った。
「全部恋じゃん」
「違う」
「その否定も恋」
「違うって」
「纏」
冴の声が少しだけ優しくなる。
「あんた、今日の作戦、何だった?」
「皮肉屋のデレを拾え」
「実際に起きたことは?」
「……俺の反応を拾われた」
「つまり、千歳さんはアンタを見てる」
俺は黙った。
「それ、嬉しかった?」
言葉が詰まる。
嬉しかった。そう言えば、何かが決定的になる気がした。だから俺は、黙った。
冴はそれを見て、何も言わなかった。
代わりにメモ帳を開く。
ーー
攻略ログ02:皮肉屋のデレを拾え
ーー
その下に、書き加える。
ーー
結果:千歳のデレを拾う前に、纏のツンデレが拾われた。
ーー
「消せ」
「消さない」
「殺すぞ」
「はいはい、照れ隠し」
俺はクッションを投げた。冴は見事に避けた。
「あと、腐女子向けに言うなら」
「もういい」
「よくない。今日の最大ポイントは、地図の上で手が触れたところ」
「そこ?」
「そこ。二人がまだ知らない場所で、手が先に繋がってる。そういうのが強い」
「何が強いんだよ」
「沼」
「また沼」
「今は分からなくていい。でも覚えておきな。あの手、後で効くから」
意味が分からない。
でも、あの古い地図の上で触れた指先は、たしかにまだ残っていた。俺の中に。千歳の冷たくて、でも逃げなかった指。
「次の攻略、行くよ」
「もう?」
「次は高慢攻略」
「高慢」
「御曹司だよ? 金も地位も顔もある。そういう相手には、媚びるより対等に挑む方が刺さる」
「対等に?」
「そう。褒めてひざまずくんじゃなくて、“並ぶ気がある”って見せる」
俺は千歳の言葉を思い出した。
君がどこまで踏み込む気があるのか、見ている。
千歳はたぶん、上から見ている。でも、見下しているだけではない。
来るなら来いと、どこかで待っている。そんな気がした。
「高慢タイプはね」
冴が言う。
「褒められるのは慣れてる。媚びられるのも慣れてる。だから、ほんの少しだけ対等に張り合う」
「俺、財閥の御曹司と張り合えるものある?」
「顔」
「それは勝った」
「だから慢心で負けるなって」
「他は?」
冴は少し考えて、言った。
「人を見る目」
俺は顔を上げた。
「金も地位も家柄もない。でもアンタは、人の寂しさを見る目がある。それは、たぶん千歳さんにも刺さってる」
「……そうか?」
「じゃなきゃ、上着返すだけで会員制サロンに呼ばないし、書庫に連れて行かないし、母親の話なんてしない」
俺は黙った。
それは、そうかもしれない。いや、そう思いたいだけかもしれない。
「次は対等に挑む」
冴は言った。
「ただし、上から引きずり降ろすんじゃない。自分も上がる」
「難易度高くない?」
「攻略不能御曹司だからね」
「その呼び方、本当に腹立つな」
「でも、今ちょっと燃えたでしょ」
否定しようとして、やめた。燃えた。たしかに。
千歳に並びたい。あの涼しい顔を崩したい。余裕の上から、こちらを見ている男に言わせたい。お前は面白いと。お前なら、隣に立てるかもしれないと。
そう思ってしまった。
その瞬間、自分の中に生まれた感情が、仕事の熱なのか、それとも別のものなのか、俺にはまだ分からなかった。
分からないまま、スマホが震えた。千歳からだった。
『今日の焼き菓子は気に入ったか』
俺はしばらく画面を見た。
返事を考える。軽い台詞なら、いくらでも浮かぶ。でも、結局こう打った。
『気に入った。あんたが好きな理由も、少し分かった気がする』
既読はすぐについた。返事は、少し遅かった。
『そういうことを、軽い口で言うな』
俺は笑った。指が勝手に動く。
『軽くねぇよ』
また既読。今度の返事は、もっと遅かった。
『じゃあ、困る』
俺はスマホを伏せた。顔が熱い。冴がそれを見て、にやにやする。
「照れてる」
「照れてない」
「目が悪いんじゃない?」
「やめろ」
「耳が赤い」
「照明のせいだ」
「ここ、普通の部屋だけど」
俺はクッションをもう一度投げた。今度は当たった。
冴が笑う。俺も、少しだけ笑ってしまった。
千歳のメッセージが、まだ胸の中で光っている。
じゃあ、困る。
困っているのは、たぶん俺の方だ。
作戦のはずなのに。攻略ログのはずなのに。
俺は、玻璃宮千歳の小さな反応が欲しくてたまらなくなっている。
あいつの皮肉の奥にある、ほんの少しの柔らかさを見つけるたびに、馬鹿みたいに嬉しくなる。
これは仕事だ。仕事だと、まだ言える。
でも、少なくとも、上着を返してもらうだけの約束が終わった今。次に会う理由がほしいと思っている自分を、俺はもう否定できなかった。
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