4 / 6
第4話 高慢な男を引きずり降ろせ
『じゃあ、困る』
玻璃宮千歳から届いたその一文を、俺は何度見返したか分からない。
軽くねぇよ。そう返した俺に、あいつはそう言った。
困る。
何が?
俺の言葉がか。それとも、俺が軽くないことがか。
あるいは、あいつ自身が少しでも揺れたことがか。
分からない。分からないのに、たったその3文字が頭から離れない。
ホストをやっていると、言葉には慣れる。
甘い言葉。重い言葉。欲しがる言葉。逃げたい言葉。忘れたい言葉。
いろんなものを聞いて、いろんなものを返してきた。
なのに、たった「困る」だけで、こんなに引っかかるなんて、どう考えてもおかしい。
「というわけで、次は高慢攻略ね」
笹目冴は、俺の悩みを一ミリも繊細に扱わなかった。
朝のファミレス。
俺の前には冷めたコーヒー。
冴の前には、なぜか朝から山盛りのフレンチトースト。この女の胃袋とメンタルは、だいたい同じくらい強い。
「話、聞いてた?」
「聞いてた。千歳さんに“困る”って言われて、アンタが三時間くらいスマホ眺めてた話でしょ」
「三時間じゃねぇよ」
「二時間五十分?」
「細かくするな」
冴はフォークでフレンチトーストを切りながら、俺を見る。
「で、今度の招待は?」
「玻璃宮グループ関係のチャリティオークション」
「うわ、高そう」
「言い方」
「場所は?」
「ホテルの上の方」
「ざっくり」
「名前聞いても俺には分からん。とりあえず、天井が高くて、皿がでかくて、料理が小さいところだろ」
「偏見だけど、だいたい合ってそう」
千歳からの連絡は、昨夜来た。
『明後日、時間はあるか。少し退屈な会に付き合ってほしい』
また、退屈。
この男は、俺を退屈しのぎだと言う。
けれど、そのくせ、俺が来るかどうかを聞く。
上着を返す口実。焼き菓子。書庫。澪標の丘。白蝶リゾート構想。点は増えている。
でも、まだ線にならない。
「高慢攻略って、具体的にどうすんだよ」
俺が聞くと、冴は待ってましたと言わんばかりにメモ帳を出した。
本当に好きだな、そのメモ帳。
ページには、いつの間にか大きく書かれている。
ーー
攻略ログ03:高慢な男を引きずり降ろせ
ーー
「財閥御曹司でしょ」
「そうだな」
「金、地位、顔、頭、たぶん全部ある」
「腹立つな」
「そして、褒められ慣れてる」
「だろうな」
「だから、媚びても刺さらない」
冴はフォークを俺に向けた。
「高慢タイプには、ひざまずくな」
「じゃあどうする」
「並ぶ気があると見せる」
「財閥の跡取りと、ホストの俺が?」
「そう」
「現実見ろよ」
「だからいいの。現実で並べないからこそ、言葉と態度で一歩も引かない」
俺はコーヒーを飲んだ。冷めている。苦い。
「引かない、ねぇ」
「アンタ、いつも軽いでしょ」
「営業だからな」
「軽いってことは、相手より下にも上にも立たないってこと。ふわふわ逃げられる」
「俺、ふわふわしてる?」
「してる。千歳さん相手だと特に」
「……」
否定できないのが嫌だった。
千歳の前の俺は、どうにも足元が安定しない。
近づいたと思えば引かれる。刺したつもりが刺される。
照れを拾うつもりが、自分の耳の赤さを指摘される。完全に調子が狂っている。
「でも今回は逃げない」
冴は言った。
「褒めるんじゃなくて、挑む」
「挑む」
「“お前を退屈させない”って言いな」
「それ、初回にあいつから言われた」
「なら返せばいい」
「返す?」
「うん。千歳さんが上から見てるなら、アンタは下から見上げるんじゃなくて、そこまで行くって言う」
俺は黙った。
そこまで行く。千歳のいる場所まで。
財閥の中心。冷たい会議室。白蝶会。斎門。澪標の丘。
その全部は、俺の世界ではない。俺の世界は、夜の店と、灯庭舎と、狭い控室と、安い缶コーヒーでできている。
でも、千歳は俺に言った。
君がどこまで踏み込む気があるのか、見ている。
「……上等じゃん」
口から出た声は、思ったより低かった。
冴がにやっと笑う。
「いい顔」
「何が」
「認められたい男の顔」
「違う」
「違わない」
「攻略だよ」
「はいはい。攻略ってことにしといてあげる」
冴はメモ帳にさらに書く。
ーー
目的:千歳を引きずり降ろすのではなく、自分が上がる。
ーー
「注意点」
「まだあるのかよ」
「ある。千歳さんを“高慢な嫌な男”として扱わないこと」
「高慢攻略なのに?」
「高慢に見える理由があるはず。家、立場、責任。あの人は高い場所に立ってるんじゃなくて、立たされてる可能性もある」
俺は思わず黙った。
立たされている。それは、妙にしっくり来た。
千歳は綺麗に立っている。いつも、誰かに見られる場所で。
でも、あの綺麗さは飾りというより、崩れないための姿勢に見えた。
「だから、引きずり降ろすってタイトルだけど、実際は違う」
冴は言う。
「“降りてこい”じゃなくて、“そこにいるなら俺も行く”が正解」
「恋愛講座っていうより、少年漫画みたいになってきたな」
「BLはだいたい心のバトル漫画です」
「名言っぽく言うな」
冴はさらに、俺の手元を見た。
「あと、腐女子向けに言うと」
「またかよ」
「今回は手袋」
「手袋?」
「千歳さん、こういう場なら白い手袋してくる可能性あるでしょ。美術品扱う場だし」
「まあ、ありそうだな」
「アンタはたぶん、手袋越しなら平気って思う」
「何で分かるんだよ」
「分かりやすいから」
「腹立つ」
「でも、そういう男はね、手袋を外された瞬間に死ぬ」
「死なねぇよ」
「死ぬ。手袋って、距離なの。品格とか礼儀とか、他人との間に置く薄い壁。それを本人が外すのは、かなり強い」
「何語?」
「沼語」
「また沼」
「もし千歳さんが手袋外して手を差し出してきたら、逃げるな」
「差し出してこないだろ」
「来るよ。あの人、アンタの逃げ道潰すの上手そうだもん」
嫌な予言をするな。でも、想像してしまった。
白い手袋をした千歳。それをゆっくり外す指。素手。初めて握った時の、冷たさと、一瞬だけ返ってきた熱。
俺はカップを持つ手に、少し力を入れた。
冴がにやにやしている。
「今、想像したでしょ」
「してねぇ」
「はいはい。今回の作戦」
冴は指を三本立てた。
「一、媚びない」
「はい」
「二、褒めるなら表面じゃなく、その高さに立ち続けてることを褒める」
「難しいな」
「三、千歳さんが上から来たら、同じ温度で返す」
「同じ温度?」
「逃げずに、笑って、挑め」
俺は頷いた。
できる。たぶん。いや、やる。玻璃宮千歳に見下ろされて終わるのは、癪だ。
****
その日の夜、俺は灯庭舎に寄った。
次に千歳と会う前に、なぜか行っておきたくなった。
灯庭舎は、駅から少し離れた古い坂の上にある。
木造の本館。
少し傾いたフェンス。庭には、誰かが置きっぱなしにしたボール。
夜になると、窓から漏れる灯りがやたらあたたかく見える。
名前の通り、灯りのある庭。
俺が子供の頃、この場所は世界の端っこみたいだった。
どこにも行けないやつらが、ひとまず雨をしのぐ場所。
でも今は、誰かの帰る場所になっている。
「纏兄ちゃん!」
門を開けるなり、子供が飛びついてきた。小学生の蓮太だ。
「おい、腹に来るな。内臓出る」
「出ないよ!」
「出るかもしれないだろ。俺、繊細だから」
「兄ちゃんが?」
「笑うな」
玄関の方から、院長先生が顔を出した。
もう七十に近いのに、相変わらず背筋がしゃんとしている。
「纏くん。こんな時間に」
「近くまで来たから」
嘘だ。全然近くじゃない。でも院長先生は、そこを突っ込まない。
「絵本、届いたよ。ありがとう」
「螢に言って。俺じゃない」
「あなたが頼んでくれたんでしょう」
「さあ」
院長先生は笑う。
その笑い方が、少しだけ疲れて見えた。
「修繕、どう?」
「なんとか。送ってくれた分で、屋根は応急処置できそう」
「応急か」
「古い建物だからね。あちこち直したいけれど」
その先は、言わなかった。言わなくても分かる。金が足りない。
この場所は古い。古いからいい。でも古いから、壊れる。古いから、狙われる。
新しいものを建てたい人間にとっては、こういう場所は邪魔なのだろう。
白蝶リゾート構想。ふと、その名前が頭をよぎる。
「ねえ兄ちゃん」
蓮太が俺の袖を引いた。
「今度、すごい金持ち連れてくるってほんと?」
「誰情報だよ」
「螢兄ちゃん」
あいつ。余計なことを。
「金持ちは連れてこねぇよ」
「えー」
「金持ち見たいのか?」
「うん! 本当に札束で汗拭くのか見たい!」
「拭かねぇよ、たぶん」
千歳ならどうだろう。
いや、拭かない。あいつは金で汗を拭くより、金で場の空気を変えるタイプだ。
そう考えて、少し笑ってしまった。
院長先生が俺を見る。
「楽しそうね」
「何が」
「今の顔」
俺はすぐ真顔に戻した。
「してない」
「そう」
院長先生も冴と同じような顔で笑った。
周りの大人は、どうしてこうも人の顔を見るのが好きなのか。
灯庭舎を出る時、院長先生に呼び止められた。
「纏くん」
「ん?」
「無理はしないでね」
「してない」
「している時のあなたは、いつもそう言う」
同じことを、螢にも言われた。
俺は苦笑した。
「俺、そんな分かりやすい?」
「ええ。子供の頃から」
「ホストとして致命的だな」
「優しいところが隠せないのは、悪いことじゃないわ」
優しい。
その言葉が、少し苦手だった。俺は優しいわけじゃない。
ただ、放っておけないものが多いだけだ。放っておいたら、自分が昔見捨てられたみたいな気分になる。だから手を伸ばす。それだけだ。
「金、なんとかするから」
「纏くん」
「俺、稼ぐの得意だし」
「でも、自分を売りすぎないで」
一瞬、言葉が詰まった。
自分を売る。
ホストなんて、ある意味ずっとそうだ。
顔を売る。時間を売る。優しさを売る。夢を売る。嘘を売る。
今度は、玻璃宮千歳とのスキャンダルを売ろうとしている。
「大丈夫」
俺は笑った。
「高く売るから」
院長先生は、困ったように笑った。
俺は手を振って、灯庭舎を出た。
夜風が冷たい。
坂道を下りながら、スマホを見た。
千歳からの連絡はない。俺から送る理由もない。
理由もないのに、画面を開く。
馬鹿だ。
****
翌日。
チャリティオークション当日。
会場は、予想通り皿がでかくて料理が小さい世界だった。
都心の高級ホテル最上階。
ガラス張りの窓の向こうに、夜景が広がっている。
シャンデリアは控えめなのに、壁も床も、どこか光っている。
招待客は、前回の内覧会よりずっと華やかだった。
企業人。政治家。芸術関係者。旧家の関係者らしき人間。
そこに混じる俺は、明らかに異物だ。
でも、異物だからこそ目立つ。ホストの俺が、この場で隠れようとする方が不自然だ。
受付を済ませた直後、視線がいくつも刺さった。
好奇。軽蔑。興味。値踏み。
慣れている。
夜の店でも、似たような目は浴びる。ただ、ここでは値札の見方が違う。
この場の人間は、顔や服だけじゃなく、家柄、肩書き、血筋、後ろ盾まで値踏みする。
俺は微笑んだ。得意だ。値踏みされながら、値踏み返すのは。
「来たな」
背後から声がした。
振り返る。千歳がいた。
黒のタキシード。白いシャツ。首元の黒いタイ。そして、白い手袋。
前回までより、さらに“御曹司”だった。
人の上に立つための服。
視線を集めても揺れない立ち方。
この会場のどの照明より、千歳自身が場を支配しているように見えた。
腹が立つくらい、似合っていた。そして、腹が立つくらい、手元に目が行った。
白い手袋。薄い布一枚。
たったそれだけなのに、あの手の温度を思い出させる。
冷たい指。一瞬だけ握り返された熱。
俺は視線を戻した。見てない。見ていない。
「御曹司様」
俺はわざと軽く頭を下げる。
「今日も後光が差してますね」
「それは照明だ」
「歩くだけで床が高級そうに見える」
「床に謝れ」
「存在がブランド」
「語彙が安い」
「高級ホストなのに」
「高級なら、もう少し高い言葉を仕入れろ」
いつもの調子。
周囲には、俺たちのやりとりがどう見えているのだろう。
軽いホストと、それを面白がる御曹司。たぶん、そんなところだ。
千歳は俺の姿を上から下まで見た。
「今日は、ずいぶん抑えたな」
「隣に立つ相手に合わせました」
「俺に?」
「この場に」
「逃げたな」
「半分」
「残りは?」
俺は一歩、千歳に近づいた。
近づきすぎない。でも、逃げもしない。
「お前の隣で、安っぽく見られたくなかった」
千歳の目が、ほんのわずかに見開かれた。本当に一瞬。
でも、見えた。よし。今のは刺さった。たぶん。
「……そういうことを」
千歳は言いかけて、止めた。
「軽い口で言うな、ですか?」
「分かっているなら言うな」
「でも、軽くねぇよ」
言った瞬間、千歳が俺を見る。
前のメッセージの続きみたいだった。
軽くねぇよ。じゃあ、困る。
あのやりとりが、二人の間だけでふっと浮かぶ。
千歳は目を伏せた。
「なら、困る」
やっぱり言った。心臓が跳ねる。
でも、今日は逃げない。高慢攻略。媚びるな。挑め。
「困らせに来たんで」
千歳の眉が動いた。
「ほう」
「退屈させるなって言ったの、そっちだろ」
「言ったな」
「じゃあ、見てろよ」
「何を?」
「俺が、お前の隣で浮かないところ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
冴の言葉が頭に響く。降りてこいじゃなく、そこにいるなら俺も行く。
千歳は静かに俺を見ていた。
その顔は、いつもの皮肉屋のものではない。少しだけ真面目だった。
「楽しみにしている」
また、それだ。楽しみにしている。
でも今日は、その言葉が前より重く感じた。
千歳は白い手袋の指先を軽く持ち上げた。
「では、エスコートを」
「俺が?」
「俺が君を」
「逆だろ」
「この場では、俺が案内役だ」
千歳が手を差し出してくる。
手袋越しの手。白い布に包まれた、綺麗な指。
俺は一瞬だけ迷った。素手じゃない。
手袋越しなら平気だ。そう思った瞬間、千歳の目が細くなった。
「手袋越しなら平気そうな顔だな」
心臓が跳ねた。
「……何の話」
「では、外そうか」
「待て待て待て」
思わず出た。完全に出た。
千歳の口元が、ゆるく上がる。勝った顔だ。腹立つ。
「冗談だ」
「性格悪いな」
「五回目か?」
「数えるな」
「君の本音は印象的だから」
千歳は手袋を外さなかった。
だが、差し出された手はそのままだ。
俺は息を吐き、手袋越しの手を取った。ほんの短いエスコート。
会場内を歩くための、礼儀としての手。
それなのに、手袋越しでも分かる。千歳が、俺の手の動揺を見ていることが。
「君の手は」
千歳が低く言った。
「今日は、少し熱いな」
「会場が暑いんですよ」
「そういうことにしておこう」
「御曹司様は、手袋してるから分からないでしょう」
「分かるよ」
「何が」
「君が平気なふりをしていることくらいは」
本当に、可愛くない。
だが、そのまま手を離すのも負けた気がして、俺は軽く握り返した。
手袋越し。ほんの少しだけ。
千歳の指先が、一瞬だけ動いた。見えた。今度は俺が見た。
「今、動いた」
「歩くためだ」
「へえ」
「君はすぐ勝った顔をする」
「勝ったんで」
「まだだ」
「じゃあ、続きは会場で」
千歳はほんの少し笑った。
手は、すぐに離れた。たった数秒。
でも、手袋越しの薄い温度が、妙に手のひらに残った。
****
オークションが始まるまで、千歳は俺を会場内に案内した。
壁際には、出品される美術品や工芸品が並んでいる。
古いガラス細工。陶器。絵画。由緒ある家から出たらしい調度品。
俺に価値は分からない。でも、人間の価値の見せ方は分かる。
どの品の前に人が集まり、どの品の前では会話が盛り上がり、どの品は誰もが気にするふりをして素通りするか。
そういうものを見ていると、だいたい場の流れが見える。
千歳は俺の横で、淡々と説明した。
「これは明治期のガラス器」
「へえ」
「こちらは旧華族家から出たもの」
「高そう」
「語彙」
「すごく高そう」
「悪化した」
俺は笑った。
その時、少し離れた場所でざわめきが起きた。
白いドレスの女が、年配の男に腕を掴まれている。
顔は笑っているが、肩が強ばっている。周囲は見て見ぬふり。
この場では、下手に介入すると厄介なのだろう。
千歳も視線だけを向けた。表情は変わらない。
しかし、白い手袋の指先がわずかに動いた。気づいている。
でも、立場上、すぐには動けないのかもしれない。
俺はグラスを持ち替えた。
「ちょっと失礼」
「何をする気だ」
「床に謝りに」
「意味が分からない」
俺は笑って、その二人の方へ向かった。
年配の男は、どこかで見た顔だった。たぶん、企業役員か何か。
女は二十代半ばくらい。胸元のネックレスがやけに高そうだが、顔色は悪い。
「失礼」
俺はにこやかに割って入った。
「お嬢さん、玻璃宮さんがお探しでしたよ」
女が驚いた顔で俺を見る。
年配の男は眉をひそめた。
「君は?」
「玻璃宮千歳様の連れです」
その一言で、男の手が少し緩む。
さすが御曹司の名前。強い。使えるものは使う。
「彼女とは話の途中でね」
「では、その続きは玻璃宮様の前でどうぞ」
俺は笑った。
「ちょうど、女性の腕を掴みながらする話に、興味があるそうなので」
男の顔が引きつる。
女はその隙に腕を引いた。俺は彼女の前に少しだけ立つ。
近すぎず、守りすぎず、逃げ道を作る位置。これはもう、体に染みついている。
男はしばらく俺を睨んだが、千歳がこちらを見ていることに気づいたらしい。舌打ちしそうな顔をして、去っていった。
女は小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「いえ。玻璃宮さんが本当に探してたかは分かりませんけど」
「え?」
「でも、今から探すと思います」
俺が振り返ると、千歳が近づいてきていた。
完璧な笑顔で。怖いくらい綺麗な笑顔で。
「纏」
名前。初めて、そう呼ばれた。
いや、違う。名前で呼ばれたことに反応している場合ではない。
千歳は女に丁寧に声をかけた。
「お怪我は?」
女は安心したように首を振る。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「静かな部屋を用意させます。少し休んでください」
スタッフがすぐに来る。
千歳がほんの少し指示を出すだけで、場が動いた。
女が連れて行かれた後、千歳は俺を見る。
「君は」
「はい」
「俺の名前を便利に使ったな」
「すみません」
「謝る気のある顔ではない」
「でも、助かったでしょ」
千歳は黙った。俺は続ける。
「御曹司様は、こういう場だと動き方が難しいんだろ」
「……」
「俺は場違いだから、多少雑に動いても失うものが少ない」
千歳の目が、少しだけ変わった。
「自分を安く使うな」
その声は、思ったより低かった。
怒っている。俺に?
「安くは使ってない」
「そうか?」
「お前の名前を借りたんだ。高くついた」
千歳は、数秒俺を見た。
そして、ふっと笑った。
「言うようになったな」
「御曹司様に鍛えられてるんで」
「俺のせいか」
「だいたい」
「責任が重いな」
「取れよ」
自分で言って、少し固まった。
今のは軽い。軽いはず。だけど、妙に変な響きになった。
千歳も一瞬だけ黙った。
それから、目を逸らす。
「……場所を選べ、馬鹿」
その言い方が、あまりにも素の響きだった。
俺は笑いそうになった。可愛い。また思った。
まずい。
「今、照れました?」
「照れていない」
「目、逸らした」
「会場を見ただけだ」
「俺じゃなく?」
「君は会場ではない」
「俺も展示品みたいに見られてるのかと思った」
「展示するには、落ち着きが足りない」
「ひど」
「でも、退屈はしない」
まただ。また、少しだけ褒める。
俺はその一言で、馬鹿みたいに胸が軽くなる。
冴に言われた通りだ。
認められたい。俺は、千歳に認められたいと思っている。
その事実が、今さらのように胸の真ん中へ落ちてきた。
****
オークションが始まった。
会場中央に設けられたステージ。上品な司会者。静かに上がっていく金額。
俺には現実感がなかった。
一枚の絵に、灯庭舎の一年分の修繕費がつく。
古い花瓶に、子供たちの食費何年分かが乗る。
金持ちの世界は、本当に別の物理法則で動いている。
隣に座る千歳は、時折パドルを上げた。
派手に競り合うわけではない。必要なものだけ、静かに押さえていく。
白い手袋をした指が、パドルを持ち上げる。
その動きは優雅で、ほとんど感情がない。
それなのに、俺には分かった。あの指が少し力む時がある。
何かを見ている時。何かを隠している時。
その横顔は、やはり高い場所にいる人間のものだった。
俺は小声で言った。
「金持ちって、こういう時も静かなんだな」
「騒ぐ金持ちもいる」
「お前は騒がない」
「騒ぐ必要がない」
「上からだな」
「上にいるからね」
来た。今日の核心。
俺は千歳を見る。千歳もこちらを見ている。試すような目。
俺がどう返すかを待っている。
前なら茶化した。御曹司様は怖いですね、とか。
その上から目線、眩しいですね、とか。
でも今日は逃げない。
「じゃあ、降ろす」
千歳の目がわずかに細くなった。
「どうやって?」
「さあ。考え中」
「無計画だな」
「でも、退屈しないだろ」
千歳は黙った。
その沈黙が、妙に長い。
ステージでは、次の出品物の説明が始まっている。
古いガラスの器。
水の流れを模したような、淡い青の器だった。
千歳の視線が、ほんの少しそちらへ向く。
パドルを持つ白い指が、わずかに止まった。
「欲しいのか?」
俺が聞くと、千歳は目を戻した。
「なぜそう思う」
「さっきから、それだけ見方が違う」
「君は、本当によく見る」
「ホストなんで」
「便利な言葉だな」
「今日は使いません」
「では?」
俺はステージの器を見る。
青いガラス。
水路。澪標。千歳の母。たぶん、そのあたりに繋がる。
「お前が、金じゃなくて記憶を見てる顔だったから」
言った瞬間、千歳の表情が消えた。
怒らせたか。そう思った。
しかし、違った。千歳はただ、何かを隠し損ねた顔をしていた。
「……それは」
「言いたくないなら、いい」
冴に言われた。逃げ道ではなく、選択肢を渡す。
今度は、それが自然にできた気がした。
千歳はしばらく黙った後、低く言った。
「母が、似た器を持っていた」
「うん」
「澪標の丘の水を、この色だと言っていた」
「そうか」
「俺には、ただの水にしか見えなかった」
「今は?」
千歳は器を見る。
「少し、分かる気がする」
俺はパドルを見た。千歳の手元にある。
金額は、すでにかなり高い。俺の口座感覚なら卒倒する額だ。
だが千歳は迷っている。
不思議だった。欲しいなら買える。この男なら、たぶん。でも、上げない。
「買わないのか?」
「私物にする理由がない」
「欲しいんだろ」
「欲しいものを、すべて手に入れる人間は下品だ」
「高慢なのに?」
「高慢にも品格はある」
「めんどくせぇ」
「君には言われたくない」
俺は器を見た。
この場で俺にできることはない。
金では勝てない。地位でも勝てない。家柄でも勝てない。
でも、言葉くらいなら。
「欲しいなら、欲しいって言えばいいだろ」
千歳が俺を見る。
「君は簡単に言う」
「難しくしてるのはお前だ」
「俺の立場を知らないから言える」
「そうだな」
俺は認めた。
「知らねぇよ。お前が毎日どれだけのもの背負って、どれだけ見られて、どれだけ言葉選んでるかなんて、俺には分からない」
千歳は黙っていた。
「でも、欲しいものを欲しいって言えない顔してるのは分かる」
言ってしまった。
踏み込んだ。でも、今日は引かない。
「千歳さん」
初めて、そう呼んだ。
御曹司様ではなく。玻璃宮でもなく。千歳さん。
千歳の睫毛が、ほんのわずかに震えた。見えた。
「俺はお前を退屈させないって言ったよな」
「……言った」
「じゃあ、たまには退屈じゃない買い物しろよ」
「どういう意味だ」
「欲しいから買う。理由はそれでいい」
「子供の理屈だな」
「子供でも言えることが、大人になると言えなくなるんだろ」
千歳の指が、パドルに触れた。
一秒。二秒。そして、上がる。
会場の視線が集まる。
司会者が金額を読み上げる。
さらに誰かが競る。
千歳は、少しだけ目を細めた。そして、もう一度パドルを上げた。
静かなざわめき。
最後、落札を告げる音が鳴った。
千歳は青いガラスの器を手に入れた。
俺はなぜか、勝った気分になった。
いや、俺は何もしていない。金を出したのは千歳だ。欲しいと言ったわけでもない。ただ、ほんの少し背中を押しただけ。
なのに、千歳が俺の方を見て、低く言った。
「責任を取れ」
「何の」
「俺に無駄遣いをさせた」
「御曹司様の無駄遣い、規模が怖いな」
「君のせいだ」
「じゃあ、飾る場所を選ぶくらいは付き合いますよ」
「当然だ」
「当然なんだ」
千歳は、ほんの少し笑った。
「君が言った。欲しいから買えばいいと」
「言ったな」
「なら、俺は君を付き合わせたいから付き合わせる」
その言い方。心臓に悪い。
「……それも欲しいもの?」
聞いてから、しまったと思った。
千歳は答えない。ただ、まっすぐ俺を見る。
その沈黙が、何よりの答えみたいで、俺は先に目を逸らしそうになった。
だが、逸らさなかった。
今日は逃げない。
千歳のいる高さまで上がる。少なくとも、そのふりくらいはする。
****
オークション後の歓談時間、俺たちは窓際に立っていた。
夜景が遠くまで広がっている。
Club Perigeeから見る朝の街とは、まるで違う。
こちらは、汚いものが全部光で隠されている。
「金持ちって、褒められ慣れてるからつまんねぇだろ」
俺は言った。
千歳がこちらを見る。
「急だな」
「今日の俺の結論」
「君は褒める以外もできるのか?」
来た。俺は笑う。
「できる」
「では、俺を退屈させないでくれ」
「急に面接にするな」
「面接なら不採用だ。君は態度が悪い」
「そっちこそ、上からだな」
「上にいるからね」
「じゃあ、そこまで行く」
千歳の目が変わった。
さっきの「降ろす」より、自分でもずっとしっくりきた。
「引きずり降ろすより、そっちの方が面白そうだ」
「……」
「お前が高いところにいるなら、俺もそこまで行く」
千歳は何も言わなかった。
ただ、夜景の光を受けて、目の奥がわずかに揺れた。
「君は」
その声は、少し低かった。
「自分が何を言っているのか、分かっているのか」
「分かってない」
「無責任だな」
「でも、嘘じゃない」
まただ。軽くない言葉。俺は自分で吐いた言葉に、少し息苦しくなる。
「御曹司様を退屈させないって、簡単じゃないだろ」
「当然だ」
「でも、簡単な男なら、俺がここまで考えてねぇよ」
千歳が、俺を見る。
「考えているのか」
「仕事なんで」
「今のは、仕事か?」
何度も突かれている問い。
今のは仕事か。今のは作戦か。途中から先は何なのか。
俺は少し笑った。
「途中までは」
千歳の表情が動いた。
「そうか」
「そこから先は、まだ分類中」
「君は本当に、分類したがるな」
「分類しないと、落ち着かない」
「俺を分類できるか?」
「無理」
即答だった。
千歳は少し驚いたように見えた。
「早いな」
「だって、無理だろ。お前、歳上っぽいのに時々子供みたいに意地張るし、高慢なのに変なところで我慢するし、皮肉屋なのに母親の話になると声変わるし、甘え下手なくせに人の上着は返す口実にするし」
言ってから、口を閉じた。言いすぎた。
千歳は、しばらく沈黙した。そして、静かに笑った。
「ずいぶん見ている」
「ホストなんで」
「それは逃げだ」
「……」
「でも、悪くない」
悪くない。
その一言が、胸の奥に落ちる。認められた。そう思ってしまった。
たった一言で。俺は、玻璃宮千歳に悪くないと言われただけで、こんなに嬉しい。
本当に馬鹿だ。
「何だ、その顔」
千歳が言う。
「どの顔」
「嬉しそうだ」
「してねぇよ」
「してる」
「してない」
「分かりやすいな、纏」
また名前。今度は、さっきより自然だった。
俺は言葉に詰まる。
「名前」
「嫌か?」
「いや」
「では呼ぶ」
「……こっちも呼ぶぞ」
「どうぞ」
軽い挑発のつもりだったのに、千歳は逃げなかった。
俺は喉の奥が少し熱くなるのを感じながら、言った。
「千歳さん」
千歳の睫毛が、ほんのわずかに震えた。
見えた。確かに、見えた。
「さん付けか」
「いきなり呼び捨ては距離感バグるだろ」
「今さら?」
「今さら」
千歳は笑った。
その笑顔は、今日一番柔らかかった。
俺は、勝ったと思った。ほんの少しだけ。けれど次の瞬間、千歳が低く言った。
「いいよ。君が俺に並ぶつもりなら、見ていてあげる」
上からだった。
圧倒的に上からだった。
でも、それは見下しではなかった。
期待だった。俺に向けられた、明確な期待。
「上からだな」
俺は言った。千歳は、綺麗に笑う。
「上にいるからね」
「……絶対、そこまで行く」
「楽しみにしている」
その言葉に、今度は胸が熱くなった。
悔しい。嬉しい。腹が立つ。認められたい。
全部がごちゃ混ぜになって、どうしようもなかった。
その時、千歳がふと窓辺の展示台に置かれていた小さな案内札を直そうとした。
白い手袋の指が、紙の端を押さえる。
俺も反射的に、ずれかけたグラスを避けようとして手を伸ばした。
指が触れた。手袋越し。ほんの一瞬。
けれど、今度は俺も千歳も逃げなかった。
「……悪い」
「何が?」
「手、当たった」
「そうだな」
「離す?」
「なぜ?」
前にも同じやりとりをした気がする。
古い地図の上。触れた指先。
理由がないので、と言った俺に、千歳は言った。
理由ができたら、離れないのかと思って。
その記憶が、手袋越しに戻ってくる。
「理由がないから」
そう言うと、千歳は俺を見た。
「今日はあるだろう」
「何の」
「並ぶため」
心臓が跳ねた。
千歳は白い手袋越しに、俺の指をほんの少し押さえた。
握るほどではない。触れていると呼ぶにも、短い。
けれど、確かに逃がさない力だった。
「君がそこまで来ると言うなら」
千歳は低く言った。
「このくらいで逃げるな」
負けた。完全に。
でも、悔しいのに、嫌ではなかった。
俺は指先に力を返した。ほんの少しだけ。
「逃げねぇよ」
「そうか」
「ただし」
「何かな」
「手袋越しはずるい」
千歳の目が細くなる。
「では、外そうか」
「待て」
今度は小声だった。
でも、千歳は笑った。柔らかく。楽しそうに。
「君は本当に、退屈しない」
それだけで、また胸が熱くなる。
会の終盤、少し離れた場所に、年配の男がいた。
前回名前だけ出た、玻璃宮斎門。
千歳の叔父だ。
顔立ちは千歳と少し似ているが、目の奥に鬱屈したものがある。
その隣には、白いドレスの女。いや、女というには鋭い。
美しいが、冷たい。蝶の標本みたいな人間。
「凍蝶院瑠璃香」
千歳が小さく言った。
「後妻?」
「そうだ」
「あれが」
瑠璃香は遠目にも分かるほど優雅に笑っている。
だが、その視線は千歳を見ていた。笑っているのに、温度がない。
その隣には、もう一人。派手なスーツの男。
犬のように瑠璃香の側に立っているのに、目だけは主を食う獣みたいだった。
「狗飼錆人」
千歳の声が、さらに低くなる。
「あまり近づくな」
「知り合い?」
「敵だ」
明確だった。敵。その言葉を、千歳は迷わず使った。
狗飼錆人。
なぜか、その名前を聞いた瞬間、胸の奥が嫌なふうにざらついた。
見覚えはない。たぶん。でも、あの男の目を、俺は知っている気がした。
人の弱いところを探す目。
逃げ道を塞ぐ側の目。
「纏」
千歳が俺の名を呼んだ。
「顔が変わった」
「そうか?」
「そうだ」
「……嫌な目してるなと思っただけ」
「正しい」
千歳はグラスを置いた。
「今日は近づかない」
「いいのか?」
「まだ、盤面が足りない」
盤面。その言葉が、この男らしい。
人も、場所も、感情も、全部盤面として見る。
でも、それだけではない。千歳は澪標の丘を守りたい。母の記憶を守りたい。
だから、盤面を見る。守るために。
「千歳さん」
「何かな」
「お前、面倒な場所に立ってるな」
千歳は笑った。
「今さら?」
「今さら」
「降りてこいとは言わないのか」
「言わない」
俺は瑠璃香と錆人を見た。それから、千歳を見る。
「そこにいる必要があるんだろ」
千歳は黙った。
「なら、俺が上がる」
その言葉は、さっきより自然に出た。
千歳はしばらく俺を見ていた。そして、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……君は、本当に困る男だな」
「褒めてる?」
「半分」
「残りは?」
「期待している」
また、胸が鳴る。
もう駄目だ。俺はこの男に期待されるのが嬉しい。
認めたくないが、嬉しい。
****
オークションが終わり、会場を出る頃には、夜はさらに深くなっていた。
千歳はロビーまで俺を送った。普通なら逆だ。
ホストが御曹司を送るべきだろう。
でも、千歳は当然のように俺の隣を歩いている。
「今日は退屈しなかった」
千歳が言った。
「それはよかった」
「少し腹も立った」
「何で」
「君に背中を押された」
「青い器?」
「そう」
「買ってよかっただろ」
「まだ分からない」
「じゃあ、飾ったら呼べよ」
千歳が立ち止まる。
「来るのか」
「呼ばれたら」
「呼ばれたい?」
「……質問がずるい」
「答えは?」
俺は息を吐いた。
逃げるな。今日は高慢攻略だ。対等に挑め。
「呼ばれたい」
千歳は、少しだけ目を見開いた。それから、ふっと笑う。
「素直だな」
「今だけ」
「希少価値がある」
「高くつくぞ」
「君が?」
「俺が」
千歳はなぜか少し楽しそうだった。
「では、考えておく」
「何を」
「君をどこまで呼ぶか」
その言い方が妙に意味深で、俺は返事に詰まった。
千歳は勝った顔をした。悔しい。
「千歳さん」
「何かな」
「次は俺が呼ぶ」
「どこへ?」
一瞬、灯庭舎が浮かんだ。
子供たち。古い廊下。院長先生。灯りのある庭。
でも、まだ早い。あそこは、俺の一番奥だ。
軽く連れていける場所ではない。
だから俺は、別の答えを選んだ。
「俺の店」
千歳の眉が上がる。
「Club Perigee?」
「そう。御曹司様には刺激が強いかもな」
「俺を退屈させない自信がある?」
「ある」
「上からだな」
「たまにはな」
千歳は楽しそうに笑った。
「いいよ。君のいる高さを見てみたい」
心臓が静かに鳴った。
俺のいる高さ。夜の街。ホストクラブ。嘘と夢でできた場所。
そこへ、玻璃宮千歳が来る。それが何を意味するのか、まだ分からない。
でも、次の一手は決まった。
「招待する」
「楽しみにしている」
また、その言葉。
でも、今日の俺はもう、ただ振り回されるだけではなかった。
少なくとも、そう思いたかった。
****
その夜、反省会は電話だった。
冴は眠そうな声で出たくせに、俺が一通り話すと完全に目を覚ました。
『え、名前呼び?』
「そこに食いつくな」
『千歳さんって呼んだの?』
「呼んだ」
『向こうは纏って?』
「呼んだ」
『はい勝ち』
「勝ってねぇよ」
『いや、腐女子的には祝杯』
「腐女子を召喚するな」
冴は電話の向こうで笑っている。
『で、高慢攻略は?』
「微妙」
『何があった?』
「引きずり降ろそうと思ったけど、無理だった」
『うん』
「でも、あいつが高い場所にいる理由は、少し分かった気がする」
『うん』
「だから、降りてこいじゃなくて、俺が上がるって言った」
電話の向こうで、冴が黙った。
それから、やけに優しい声で言った。
『満点』
「は?」
『攻略としては満点。恋としては赤点スレスレ』
「どういう意味だよ」
『だってアンタ、それもう“隣に立ちたい”じゃん』
俺は黙った。
『あと、手は?』
「……手?」
『あったでしょ。絶対あった』
「お前、怖い」
『腐女子向け戦術顧問なので』
「意味分からん肩書き名乗るな」
『手袋?』
「……あった」
『ほら』
「手袋越しなら平気だと思ったら、見抜かれた」
『最高』
「最高じゃねぇよ」
『で?』
「外そうか、って言われた」
電話の向こうで冴が息を呑んだ。
『千歳さん、やっぱり強い』
「何が」
『手袋を外すって、壁を外すってことだから』
「何語だよ」
『沼語』
「また沼」
『でも外さなかったんでしょ?』
「外さなかった」
『焦らしが上手い』
「お前、楽しんでるだろ」
『かなり』
俺はベッドに転がった。
今日の会場。青いガラスの器。千歳の横顔。白い手袋。
指先に触れた薄い温度。
瑠璃香。錆人。斎門。
いろんなものが頭の中で混ざる。
でも一番残っているのは、千歳の声だった。
君が俺に並ぶつもりなら、見ていてあげる。
「冴」
『何』
「あいつ、上からなんだよ」
『うん』
「腹立つくらい」
『うん』
「でも、見下してるだけじゃない」
『分かってきたじゃん』
「たぶん、待ってる」
言ってから、自分でも驚いた。
千歳は待っている。
誰かが、自分のいる高さまで来るのを。あの冷たい場所に、ひとりで立たなくていいと言う誰かを。
それが俺だなんて、まだ言えない。まだ、そんな資格はない。でも。
『纏』
冴の声が少し低くなる。
『次、どうする?』
「Club Perigeeに呼ぶ」
『うわ、来るの? 御曹司が?』
「たぶん」
『じゃあ次は、甘やかしでいこう』
「甘やかし?」
『高い場所に立ってる男を、アンタの場所で少しだけ休ませる』
「……できるか?」
『営業用じゃなくて、人間用で頼む』
人間用。
それが妙に胸に残った。
甘やかしは裏メニューで、御曹司を俺の店へ呼ぶ。俺の世界へ。
今までは、俺が千歳の世界に足を踏み入れていた。
ホテルラウンジ。ギャラリー。会員制サロン。チャリティオークション。
次は逆だ。
千歳が、Club Perigeeへ来る。夜の街へ。俺が立っている場所へ。
その意味を考えると、胸の奥が少し熱くなる。
電話を切った後、千歳からメッセージが届いていた。
『青い器は、しばらく俺の執務室に置くことにした』
俺は画面を見つめた。
そして、返す。
『似合いそうだな』
すぐに既読。
返事は少し遅れた。
『見に来るか』
心臓が、またうるさく鳴った。
俺はしばらく考えて、打った。
『その前に、今度は俺の場所に来いよ。
Club Perigee。
御曹司様を退屈させない店、見せてやる』
既読。
少し間が空く。そして、返事。
『楽しみにしている』
まただ。
何度も聞いた言葉。でも、今夜は少し違った。
期待されている。試されている。見られている。その全部が、嫌じゃない。
俺はスマホを伏せた。
手のひらに、白い手袋越しの感触が残っている。薄い壁。
外されなかった距離。
でも、確かに触れた。まだ、手だけ。
まだ、そこまでなのに、俺はもう、次に千歳がどんな顔で俺の場所へ来るのかを考えている。
これは仕事だ。まだ、そう言える。たぶん。
でも、今日分かったことがある。
玻璃宮千歳は、高い場所にいる。降りてこない。降りられない。
だから俺は、そこまで行く。
攻略のために。灯庭舎のために。
それから、たぶん。
あいつに、悪くないと言われた自分が、どうしようもなく嬉しかったから。
ともだちにシェアしよう!

