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第5話 甘やかしは裏メニューで

玻璃宮千歳が、Club Perigeeに来る。 その事実は、俺が思っていた以上に店をざわつかせた。 「財閥の御曹司が?」 「マジで?」 「男?」 「マトイさん指名?」 「それ営業としてアリなんですか?」 「いや、マトイさんならアリか……?」 開店前の控室で、後輩ホストたちが遠巻きにこっちを見ている。 見すぎだ。見世物じゃねぇぞ。いや、仕事柄、見世物ではあるけど。 「マトイ」 ソファに寝そべった仁科螢が、スマホをいじりながら言った。 「お前、ついに財閥まで釣ったの?」 「魚扱いすんな」 「じゃあ何?」 「客」 「客にしては、顔作りすぎ」 「仕事だからな」 「仕事で、店内の照明チェック三回する?」 「する」 「VIPルームの花瓶の位置直す?」 「する」 「香りが強いって言ってディフューザー下げさせる?」 「する」 「御曹司、鼻いいの?」 俺は黙った。 千歳は、俺の匂いに触れた。君の匂いがする。残っていると、少し困る。そう言った。 だから、店の香りが強すぎるのは嫌だった。 いや、違う。別に千歳のために調整したわけではない。客を迎える準備だ。 超重要客。高額客。財閥客。そういうことだ。 螢がにやにやする。 「マトイさん、分かりやす」 「殺すぞ」 「軽い軽い」 「重くするぞ」 「御曹司の前でもそのノリでいけよ」 「お前、今日ほんと黙れ」 螢は笑って、ソファから起き上がった。 「でもさ、マジな話」 「何」 「店に呼ぶって、けっこう危なくね?」 俺はネクタイを締める手を止めた。 「何が」 「ここ、お前の場所じゃん」 螢は珍しく真面目な声だった。 「今までは向こうの世界に行ってたんだろ。ホテル、ギャラリー、オークション。今回は逆。お前の仕事場に、御曹司が来る」 「それが?」 「見られるぞ」 その言葉に、少しだけ胸がざわついた。 見られる。Club Perigeeにいる俺。 客に笑う俺。甘い嘘を吐く俺。金を煽る俺。誰かの隙間に入り込む俺。 玻璃宮千歳は、それを見る。 「……見せるために呼んだんだよ」 「本当に?」 螢の問いは、やけに鋭かった。 俺は笑った。 「俺が立ってる場所を見たいって言ったのは、あいつだ」 「で、お前は見せたいの?」 「……」 「ほら」 「うるせぇな」 見せたいのか。分からない。見せたくない気もする。 千歳の前で、安いホストみたいに見られたくない。 でも同時に、俺の世界を知らないまま、あいつに並ぶなんて言えない気もした。 千歳が高い場所に立っているなら、俺は俺の場所を隠さない。 夜の街。ホストクラブ。嘘と夢。金と欲。 そして、そこから逃げる人間のための出口。俺はそこで生きてきた。 「見せるよ」 俺はネクタイから手を離した。 「俺の場所だからな」 螢は一瞬黙り、それから軽く笑った。 「いい顔」 「お前まで冴みたいなこと言うな」 「じゃあ冴さんに相談した?」 「した」 「やっぱり」 相談した。というより、強制的に反省会と作戦会議をさせられた。 昨日の深夜、冴は電話口で楽しそうに言った。 『次は甘やかし攻略ね』 『御曹司を?』 『そう。高い場所に立ってる男を、アンタの場所で休ませる』 『Club Perigeeで? 休めるか?』 『だからこそ。周りは派手でうるさい。でも、アンタだけがその中で彼をちゃんと見て、必要なものを渡す』 『必要なもの?』 『静けさ、逃げ道、飲みやすい水、座りやすい席、誰にも触れさせない距離』 『それ、甘やかしっていうか介護じゃねぇ?』 『恋愛の甘やかしは、相手の弱り方を見抜くことです』 名言っぽく言うな、と返した気がする。でも、冴の言葉は残った。 相手の弱り方を見抜く。 千歳は甘え下手だ。疲れていても、寒くても、困っていても、自分からは言わない。 言ったとしても、皮肉や命令に変える。だから、こちらから気づく。でも押しつけない。 これが今回の攻略。甘やかしは裏メニューで。 店が開く少し前、俺はVIPルームを確認した。 広すぎず、狭すぎない部屋。外の音は少しだけ聞こえる。完全な静寂ではない。 この店に来た意味が消えない程度に、夜の気配が残る。 テーブルには酒ではなく、水と温かいお茶も用意した。 甘いものは、上品すぎない焼き菓子。 千歳が子供の頃から好きだったという焼き菓子には及ばないだろうが、少し似た系統を選んだ。 「……やりすぎか?」 自分で呟いた瞬間、ドアの外から声がした。 「やりすぎだね」 冴だった。 「なんでいる」 「見学」 「帰れ」 「嫌だ。攻略ログの現場検証」 「お前、ほんと暇なの?」 「忙しい女は、大事な祭りだけ見に来るの」 「祭りじゃねぇ」 冴はVIPルームをぐるっと見て、満足そうに頷いた。 「いいじゃん」 「そうか?」 「うん。ホストクラブなのに、ちゃんと逃げ場になってる」 「……逃げ場」 「千歳さん、たぶんこういう場所に来たことないでしょ」 「ないだろうな」 「だから、刺激はある。でも刺激だけだと疲れる。アンタがそこで、逃げ道を用意する」 俺はテーブルの水差しを見た。 逃げ道。 前に千歳に言われた。逃げ道を残している距離だ。 あの時は、自分が傷つかないための逃げ道だった。 でも今は違う。千歳が息を抜くための逃げ道を置いている。 「甘やかせる?」 冴が聞いた。 「得意分野だろ」 「営業用じゃなくて」 「……人間用で頼む、だろ」 「分かってるじゃん」 「うるさい」 冴は笑った。 「今日の注意点」 「まだあるのか」 「ある。千歳さんが甘えてきても、はしゃぎすぎない」 「甘えてくるか?」 「来るよ。あの人、たぶん自分で許可出すタイプ」 「許可?」 「甘やかすんだろ、って言ってくる」 「それ、想像?」 「女の勘」 「信用ならない」 「当たるよ」 冴はドアへ向かいながら、最後に振り返った。 「あと、纏」 「何」 「今日、あんたは自分の場所を見せる。だから格好つけすぎないこと」 「いつも格好いいから無理だな」 「そういう格好じゃなくて」 冴は少し真面目な顔をした。 「優しいところ、隠しすぎないでいいよ」 俺は返事をしなかった。 冴はそれ以上言わず、手を振って去っていった。 優しいところ。またそれだ。 俺は優しいわけじゃない。 ただ、目の前で困っているやつを見過ごすのが下手なだけだ。 それを優しさと呼ぶなら、たぶん俺は、昔から隠すのが下手だった。 **** 開店から一時間後。 玻璃宮千歳は、本当にClub Perigeeに現れた。 店内の空気が、一瞬で変わった。男の客が来ること自体は珍しくない。 だが、千歳は違った。入口に立った瞬間、夜の店の照明すら品定めする側に回ったように見えた。 黒のロングコート。中は深いグレーのスーツ。 派手ではない。でも、明らかに浮いている。 この店のきらびやかな嘘とは別の、冷たい本物の輝きがある。 周囲のホストたちが一瞬、動きを止める。 客の女の子たちもちらちら見る。 そりゃそうだ。顔がいい。金がある。そして、どう考えても場違い。 その場違いさを、本人はまったく気にしていない。さすが御曹司。 俺は入口まで迎えに行った。 「いらっしゃいませ、玻璃宮様」 わざと営業声で言う。 千歳は少し眉を上げた。 「ずいぶん他人行儀だな」 「店ではこういう仕様です」 「では、俺は客か」 「今日はそうですね」 「君を指名すればいい?」 やめろ。普通の顔で言うな。周囲がざわつくだろ。 実際、ざわついている。俺は笑顔を保った。 「もちろん。俺、高いですよ」 「知っている」 「何を」 「高くつく男だと」 この男。初手から飛ばしすぎだ。 俺は低く笑って、手を差し出した。 「では、ご案内します」 千歳はその手を見た。 取るか。取らないか。ほんの一瞬、迷ったように見えた。 そして、手袋を外さずに俺の手に指先を乗せた。 触れたというより、許可された。 その仕草だけで、店内の空気がまた揺れる。 俺は心臓が変な鳴り方をするのを無視して、VIPルームへ案内した。 途中、螢がわざとらしく頭を下げる。 「ようこそ、Club Perigeeへ。マトイがいつも大変お世話になっております」 「おい」 千歳は螢を見る。 「君が仁科螢か」 螢が少し驚く。 「俺のこと、ご存じで?」 「纏の周囲くらいは調べる」 さらっと言うな。螢が俺を見る。 「調べられてるって」 「うるさい」 千歳は涼しい顔で続けた。 「彼が自分の取り分をどこに消しているのかも、君なら知っていそうだ」 螢の顔から笑みが少し消えた。俺も足を止めた。 千歳は俺を見る。 「何だ」 「……店に来て初手でそこ突くな」 「気になっていた」 「今日は客だろ」 「客は興味を持ってはいけないのか?」 「興味の方向が怖いんだよ」 螢が小さく笑った。 「御曹司さん、いい性格してますね」 「よく言われる」 「たぶんマトイにしか言われてないですよ」 「では君で二人目だ」 千歳は本当に楽しそうに見えた。 螢が俺に小声で言う。 「お前、負けてるな」 「まだ何も始まってねぇ」 「もう始まってるだろ」 俺は螢を無視して、千歳をVIPルームへ入れた。 部屋に入ると、店内の音が少し遠くなる。千歳は部屋を見回した。 「意外と静かだな」 「うるさい方がよかった?」 「君の店だから、もっと騒がしいのかと思った」 「俺を何だと思ってるんだよ」 「派手な男」 「間違ってないのが腹立つ」 千歳はソファへ座った。姿勢が綺麗すぎる。 VIPルームのソファが、急に応接室の椅子みたいになる。 俺は向かいではなく、斜め隣に座った。 近すぎず、遠すぎず。ただし今日は、逃げ道ではなく休むための余白を残す。 「飲む?」 「酒を勧めないのか」 「今日は初回なので」 「俺は子供か」 「ここ、酒は逃げるために飲むやつも多いから」 千歳がこちらを見る。 「君は?」 「俺は飲ませる側」 「逃げたい時は?」 「水飲んで寝る」 「つまらない」 「現実的と言え」 俺は水のグラスを差し出した。 「今日はこれ」 千歳はグラスを受け取ろうとした。 その瞬間、俺の指と千歳の指が、グラスの側面で重なった。 手袋越し。冷たさは分からない。 けれど、千歳の指がグラスではなく、俺の指の上にほんの少しだけ乗ったことは分かった。 俺はすぐ離そうとした。 でも、千歳の指先が、わずかに押さえた。 「……千歳さん?」 「君の手は」 千歳は涼しい顔で言った。 「いつも温かいな」 一瞬、呼吸が止まった。 最初の握手。冷たい手。一瞬だけ握り返された熱。 あれが、今になって戻ってくる。 「手袋越しで分かるんですか」 「分かる」 「適当言ってるでしょ」 「君が動揺したことも分かる」 「……御曹司様、今日は甘やかされる側では?」 「甘やかされる側が、反撃してはいけない決まりはないだろう」 可愛くない。本当に可愛くない。 俺はグラスから手を離した。 千歳はゆっくり水を飲む。その仕草だけで絵になるのが、少し腹立つ。 「俺を酔わせない?」 「酔った御曹司様を口説く趣味はない」 「では、素面なら?」 「……今日、そういう刺し方の日?」 「君の店だから、君の流儀を学ぼうと思って」 「俺の流儀は、相手をむやみに酔わせない」 「ホストらしくないな」 「よく言われる」 千歳はグラスを置いた。さっき俺の指に重ねた手で。 それだけなのに、指先がまだ変な感じだった。 「今日は甘やかしコースだ」 俺は軽く言った。 千歳の目が動く。 「料金表にあるのか?」 「お前限定裏メニュー」 「安売りはしない方がいい」 「高くつくぞ?」 「君が?」 「……俺が」 千歳は少しだけ笑った。 「なら、今日は送って」 「え?」 「甘やかすんだろ」 冴。当たった。本当に言った。 俺は一瞬固まった後、なんとか笑った。 「いいですよ。家まで?」 「途中まででいい」 「警戒してる?」 「している」 「正直ですね」 「君を信用していないわけではない」 「では?」 「信用しているから、境界線を引いている」 その言い方が、妙に刺さった。 信用しているから、境界線を引く。千歳らしい。 この男は、全部を許すことで信じるのではなく、線を引いたうえで、その内側へ入れるかどうかを見ている。 「了解。途中まで」 「素直だな」 「甘やかしコースなんで」 「便利だな、そのコース」 「延長します?」 「検討する」 俺は笑った。 千歳が焼き菓子に目を留める。 「これは?」 「前に好きって言ってたやつに似てるかなと思って」 「俺は好きとは言っていない」 「嫌いではない?」 「……そうだ」 「はいはい」 千歳は焼き菓子を一つ取った。 口に運ぶ。表情は変わらない。 でも、まばたきが少し遅い。気に入ったのか。 「どう?」 「悪くない」 「それ、千歳さん基準だとかなり良いってこと?」 「調子に乗るな」 「乗ってんのは俺じゃなくて、御曹司様の口角では?」 「何を」 「ちょっと上がってる」 千歳は指先で口元に触れた。 「嘘だろう」 「嘘です」 「君は」 「でも、ちょっと嬉しそうではあった」 千歳は黙った。 そして、焼き菓子をもう一つ取る。 「……悪くはない」 可愛い。 また思った。もう最近、思いすぎている。危ない。 俺は咳払いをした。 「店、どう?」 「想像より居心地がいい」 「褒めてる?」 「半分」 「残りは?」 「危ない場所だとも思う」 「まあ、夜の店だからな」 「違う」 千歳はグラスを置いた。 「ここは、寂しい人間にとって、優しすぎる」 言葉が、すっと胸に入ってきた。 ホストクラブをそんなふうに言われたのは初めてだった。 大抵は、派手、危ない、高い、軽い、嘘っぽい。 そういう言葉で片づけられる。でも千歳は、優しすぎると言った。 「……優しいか?」 「少なくとも、君はそう見せている」 「営業だよ」 「営業でも、救われる人間はいる」 俺は返事に詰まった。 千歳は店内の音に耳を澄ませるように、少し視線を外した。 「人は、嘘だと分かっていても、必要な嘘があるんだな」 「御曹司様の世界にもあるだろ」 「ある」 「何が違う?」 千歳は少し考えた。 「俺の世界の嘘は、人を縛る。君の世界の嘘は、少しだけ逃がす」 喉が詰まった。 なんなんだよ。どうしてこの男は、そんな見方をする。ただのホストクラブだ。 金を払って、夢を買う場所。綺麗に飾った嘘でできた場所。 なのに千歳は、そこから人が逃げる余白を見つける。 俺が隠していたものまで、勝手に見つける。 「買いかぶりすぎ」 「そうか?」 「そうだよ。俺は金が好きなホスト」 「それだけなら、あの女性を助けない」 視線がぶつかった。 やっぱり調べている。沙月のことか。他の女の子たちのことか。どこまで知っている。 「調べたのか」 「少し」 「趣味悪いな」 「必要だった」 「何のために」 「君を利用していい男か、見極めるために」 部屋の空気が、少しだけ変わった。 利用。その単語は、まだ俺たちの間で完全には処理されていない。 俺は仕事で千歳に近づいている。千歳はそれを知っている。 そして千歳も、俺を利用するつもりで会っている。 互いに嘘を持っている。互いに手札を隠している。 それでも、こうして焼き菓子を食って、水を飲んで、くだらない会話をしている。 「結果は?」 俺は聞いた。 「まだ保留」 「厳しいな」 「でも、少し甘く見てもいいとは思っている」 「甘やかしコースなのに、俺が甘く見られるのか」 「不満か?」 「いや」 俺は笑った。 「ちょっと嬉しい」 千歳の指が止まる。 まただ。こういうことを言うと、千歳は困る。 分かっているのに、今日は止まらなかった。 千歳は目を伏せる。 「君は、本当に」 「何」 「俺を困らせるのが上手い」 「御曹司様ほどじゃない」 「俺が?」 「そうだよ。あんた、自分がどれだけ人を振り回してるか分かってる?」 「君は振り回されているのか?」 「……少し」 言ってから、しまったと思った。でも、取り消さなかった。 千歳は俺を見た。その目は、いつものように涼しいのに、少しだけ熱があるように見えた。 「そうか」 「何でちょっと嬉しそうなんだよ」 「君が振り回される側に見えないから」 「俺だって振り回されることくらいある」 「俺に?」 「……調子乗るな」 「乗っているのは君の心拍では?」 「何を!」 千歳が口元を押さえて笑った。 声を出してではない。でも、確かに笑った。 俺は一瞬、何も言えなかった。 この店の照明の中で、千歳が笑っている。御曹司の顔ではなく、少しだけ力が抜けた顔で。それだけで、店を用意した甲斐があった気がした。 いや、攻略だ。攻略の成果。そう思うことにした。 **** しばらくして、千歳は店内を見てみたいと言った。 俺はVIPルームから出て、店内を案内した。 煌びやかなメインフロア。シャンパンタワー。客席。 若いホストたちの笑顔。甘い声。派手な音楽。 千歳はそれらを、好奇心を隠さずに見ていた。 珍しいものを見る子供みたいに。 けれど、時折すぐに御曹司の顔に戻る。周囲から向けられる視線を、ちゃんと処理している。 「あれがシャンパンコールか」 「ああ。見たい?」 「見たら君がやるのか?」 「指名入れば」 「では、注文すればいい?」 「やめろ。高いやつ頼むな」 「安いものなら?」 「それも店がざわつく」 「では何を頼めばいい」 「水飲んでろ」 「客に対する態度か?」 「お前限定裏メニューなんで」 千歳はまた笑った。 店内の女の子の一人が、遠くから俺に手を振った。 以前、悪い男から逃げるのを手伝った客だった。 今は別のホストの席についているが、顔色は前よりずっといい。 俺が軽く手を振り返すと、千歳がそれを見ていた。 「知り合いか」 「客」 「それだけ?」 「……昔ちょっと」 「助けた?」 「大げさ」 「そうか」 千歳はそれ以上聞かなかった。 その“聞かない”が、なぜかありがたかった。 「君は」 「ん?」 「人を逃がすのが上手いんだな」 また、それ。逃がす。逃げ道。 この男は、俺の仕事の奥にあるものを、やたらと正確に言語化してくる。 「ホストなんで」 「それはもう聞いた」 「便利だから」 「便利な言葉で隠すな」 千歳の声は静かだった。 でも責めてはいない。ただ、そこにあるものを見ている。 俺は返事を探して、結局笑った。 「千歳さんこそ、人の逃げ道を塞ぎそうな顔してるのに、意外と選択肢くれるよな」 「顔は余計だ」 「事実」 「君には、選択肢が必要そうだから」 「俺に?」 「君は自分で逃げ道を作るのが下手だ」 胸の奥を、軽く叩かれた気がした。 俺は誰かの逃げ道を作るのは得意だ。でも、自分が逃げる道はあまり考えていない。逃げる場所なんて、昔からなかった。灯庭舎は帰る場所だった。 でも、あそこも今は守らなければ消える場所だ。 逃げ込む先ではなく、俺が支える先。 「……御曹司様、店でそういう重い話やめて」 「逃げたな」 「エスコートです」 「便利すぎる」 「流行らせるか」 「やめろ」 店内を一周した頃、千歳の表情にわずかな疲れが見えた。 目元。肩。ほんの少しだけ、呼吸が浅い。 慣れない場所。多すぎる視線。派手な音。強い光。 この男は平然としているようで、ずっと周囲を見ている。そりゃ疲れる。 「戻るぞ」 俺は言った。千歳がこちらを見る。 「まだ見ていない場所があるだろう」 「あるけど、今日はここまで」 「俺は子供か」 「疲れてるだろ」 千歳が黙った。正解。 「疲れていない」 「嘘が下手になったな」 言ってやった。千歳は、少しだけ悔しそうに俺を見る。 「君に言われるとは」 「お返し」 俺は自然に手を差し出した。千歳はその手を見た。 今度は、さっきより長く。 「戻るだけだ」 俺は言う。 「逃げ道じゃなくて、休憩」 千歳の睫毛がわずかに揺れた。 そして、手袋越しではなく、素手で俺の手に触れた。 俺の手の上に、そっと指が重なる。 触れたのは一瞬ではなかった。ほんの数秒。 けれど、千歳が自分から体温を預けた。 「……では、休憩する」 俺はその手を強く握らなかった。 引っ張りもしなかった。ただ、千歳が離すまで、そこにいた。 手を握るというより、戻る場所を示すだけの接触。 でも、手のひらには確かに千歳の温度が残った。冷たい。けれど、前より少しだけ近い。 VIPルームへ戻ると、千歳はさっきより少し深くソファに座った。 背もたれに体を預ける。 ほんの少しだけ。たったそれだけなのに、俺の胸が変なふうに熱くなる。 千歳が、俺の店で力を抜いている。 それが嬉しい。 「顔」 千歳が言った。 「何」 「嬉しそうだ」 「してねぇよ」 「してる」 「してない」 「俺が休むと、君は嬉しいのか」 「……甘やかしコースだからな」 「便利なコースだ」 千歳は目を閉じた。 「少しだけ、このままでいいか」 声が、いつもより柔らかかった。でも、甘えているとまでは言わない。 この男は、甘える時も許可を取るみたいに言う。 俺は照明を少し落とした。音楽も小さくする。 「寝る?」 「寝ない」 「五分だけ目閉じとけ」 「君は俺の母親か」 「お前の母親は焼き菓子好きだろ」 言ってから、しまったと思った。 母の話は軽く触れるべきではなかった。 でも千歳は怒らなかった。目を閉じたまま、静かに言った。 「よく覚えているな」 「……まあ」 「君は、俺の話をよく覚えている」 「仕事なんで」 「違う」 否定が早い。俺は黙った。 千歳は目を開けないまま続ける。 「仕事なら、必要な情報だけ覚える。君は、必要でないものまで覚えている」 「御曹司様の好物とか?」 「母の話も」 「……忘れにくいだろ、そういうのは」 「なぜ」 「大事そうだったから」 静かな時間が落ちた。店の外の音が、遠くで波みたいに聞こえる。 千歳は目を閉じたまま、少しだけ息を吐いた。 「君は、本当に困る」 「今日、何回目だよ」 「数えていない」 「俺は数えようか?」 「やめろ」 「困らせるの、得意なんで」 「知っている」 千歳が薄く笑った。 その笑みは、さっきよりずっと無防備だった。 俺は、それを見ていいのか一瞬分からなくなった。 見たい。でも、見てしまったら戻れない気がする。 千歳が俺の店で、俺の用意した水を飲み、俺の選んだ菓子を食べ、俺の言葉で少し休んでいる。 その事実が、やたらと重い。 「纏」 名前を呼ばれた。静かな声で。 「何」 「この店は、君に似ている」 「派手でうるさい?」 「それもある」 「おい」 「でも、奥に逃げ場がある」 俺は息を止めた。 「誰かに見つけてほしい人間が来る場所だ」 千歳は目を開けた。 「そして君は、見つけるのが上手い」 そんなふうに言われるとは思っていなかった。 ホストの仕事を、そんなふうに。俺を、そんなふうに。 「買いかぶりすぎだって」 「そうか?」 「俺は別に、誰かを救いたくてホストやってるわけじゃない」 「では、なぜ助ける?」 「……放っておくと、寝覚めが悪いから」 「それを優しさと言うんだろう」 「違う」 「では何だ」 「……癖」 千歳は少し笑った。 「頑固だな」 「お前に言われたくない」 「それはそうだ」 二人で少し笑った。 その瞬間、VIPルームの扉がノックされた。 入ってきたのは螢だった。 「失礼しまーす。マトイ、ちょっといい?」 「何」 「外、ちょっと面倒な客」 「俺の?」 「いや、店の。だけどさっきから御曹司さんのこと見てる」 千歳の表情がすっと変わった。 休んでいた顔から、玻璃宮千歳の顔へ。一瞬で。 俺はそれを見て、胸の奥が少し痛んだ。 そんなに早く戻らなくていいのに。 「誰だ」 螢が小声で言う。 「白蝶会の関係者っぽい。名前は分からない。受付でやたら探ってる」 千歳は立ち上がろうとした。 俺は手で制した。 「座ってろ」 「纏」 「甘やかしコース中」 「ふざけている場合か」 「ふざけてない」 俺は千歳を見た。 「今日は俺の場所だ。ここでまで、お前が全部背負う必要ない」 千歳の目が、わずかに揺れた。 「君に任せろと?」 「そう」 「危険かもしれない」 「ホストクラブでの揉め事なら、俺の方が慣れてる」 螢が頷く。 「それは本当」 「お前は黙ってろ」 千歳はしばらく俺を見た。そして、ゆっくり座り直した。 「分かった」 たったそれだけ。 でも、俺には分かった。千歳が任せた。少しだけ。俺に。 「螢、ついてこい」 「はいよ」 俺は部屋を出る前に振り返った。千歳は静かにこちらを見ていた。 「すぐ戻る」 「逃げるなよ」 「甘やかすんだろ?」 千歳は一瞬、言葉を失った。それから、ほんの少し笑った。 「……では、待っている」 店のフロアには、確かに見慣れない男がいた。 白蝶会の関係者かどうかは分からないが、服装と立ち方が場に馴染んでいない。 客のふりをしているが、視線が客ではない。店ではなく、人を探っている。 俺は笑顔で近づいた。 「いらっしゃいませ。お楽しみいただけてますか?」 男は俺を見た。 「玻璃宮千歳様がこちらに?」 「申し訳ありません。当店ではお客様の情報は」 「いるんだろう」 「さあ」 俺は笑ったまま、男の前に立つ。 「もしどなたかをお探しでしたら、受付を通していただけますか」 「ホスト風情が」 その言葉に、周囲の空気が少し冷える。 螢が一歩横へ出た。俺は手で制した。 「はい。ホストです」 笑顔のまま言う。 「だから、お客様の楽しい時間を邪魔する方は、丁寧にお帰りいただくのも仕事なんです」 男が舌打ちした。 「玻璃宮様に伝えろ。白蝶会が挨拶したがっていると」 白蝶会。やっぱり。 俺は笑みを深くした。 「伝言、確かに」 「それと」 男は俺に顔を寄せた。 「ホストが財閥に首を突っ込むと、溺れるぞ」 俺は一瞬、千歳の声を思い出した。溺れているのは、たぶん俺の方だ。 まだ言われていないはずの言葉が、未来から来たみたいに響く。 俺は男に笑いかけた。 「ご心配どうも」 「分かっているのか」 「水商売なんで、溺れ方は慣れてます」 男は鼻で笑い、店を出て行った。 螢が隣で低く言う。 「今の、危なくない?」 「危ないな」 「御曹司に報告?」 「する」 「お前、顔怖い」 「そうか?」 「店の女の子逃げるから、その顔やめろ」 俺は息を吐いて、笑顔を戻した。けれど、胸の奥は冷えていた。 白蝶会が動いている。この店まで探りに来た。千歳を追って。 いや、俺と千歳の関係を探って。 最初はただの仕事だったはずなのに、少しずつ現実が重くなっていく。 VIPルームへ戻ると、千歳は立っていた。座っていろと言ったのに。 「座ってろって言っただろ」 「待っていた」 「立って?」 「落ち着かなかった」 その一言が、妙に刺さった。 千歳が、俺を待って落ち着かなかった。 そんなことがあるのか。 「何があった」 俺は簡単に説明した。 白蝶会の関係者らしき男。挨拶。警告。ホストが財閥に首を突っ込むと溺れる。 千歳の顔が、どんどん冷えていく。 「君を巻き込んだ」 「まだそれ言う段階じゃないだろ」 「だが」 「俺が来たんだよ」 千歳が黙る。 「お前の世界に、俺が足突っ込んだ。今日はお前が俺の店に来た。だったら、もう片方だけが巻き込んだとかじゃない」 「……」 「それとも、俺はまだ客扱い?」 千歳の目が揺れた。 「君は」 「何」 「本当に、面倒な男だ」 「褒めてる?」 「半分」 「残りは?」 「頼もしい」 その一言で、何かが胸の奥に落ちた。 頼もしい。 玻璃宮千歳に、そう言われた。今日、俺は千歳を甘やかすつもりだった。休ませるつもりだった。 でも、今の一言で、俺の方が救われた気がした。 「……そういうの、軽い口で言うなよ」 千歳は目を細めた。 「君の真似だ」 「似てねぇよ」 「では、もう一度言おうか」 「やめろ」 「照れたな」 「照れてない」 「顔が赤い」 「照明のせいだ」 「ここも間接照明だ」 「店全体がだいたい間接照明なんだよ」 千歳が笑った。今度は声が少し漏れた。 俺は、白蝶会の不穏な影を忘れそうになった。忘れてはいけない。 でも、この一瞬は覚えていたい。千歳が俺の店で笑った。 それだけで、今日の攻略は勝ちだと思った。 **** 閉店後、俺は千歳を途中まで送った。約束通り。 店の裏口から出ると、夜の空気は冷たかった。 千歳はコートの襟を少しだけ寄せる。 俺はそれを見て、自然に言った。 「寒い?」 千歳がこちらを見る。 「また聞くのか」 「聞くよ」 「黙って何かするのがホストでは?」 「お前相手には確認する」 「なぜ」 「大事にしたいから」 言ってから、足が止まりそうになった。 やばい。今日の俺は本当に口が勝手に動く。 千歳も足を止めた。夜の街の裏路地。看板の光。遠くの車の音。 その中で、千歳は静かに俺を見る。 「それは」 「……」 「甘やかしコースの範囲か?」 逃げ道をくれた。 たぶん。今なら、そうだと笑える。裏メニューなので、と茶化せる。 でも、俺はそれを選ばなかった。 「途中から違う」 千歳の呼吸が、わずかに変わった。 「そうか」 「うん」 「では、困る」 「知ってる」 「知っていて言うのか」 「困らせに来たんで」 千歳は小さく笑った。 「君は本当に、悪いホストだな」 「今さら?」 「今さらだ」 少し歩く。指定された車寄せまで、あと数分。 そこで別れる。その前に、千歳が言った。 「今日は、楽だった」 「店が?」 「君の隣が」 俺は返事ができなかった。 それは反則だろ。そんなことを、さらっと言うな。 千歳は続ける。 「騒がしくて、眩しくて、落ち着かない場所だった」 「悪口?」 「半分」 「残りは?」 「でも、君がいたから休めた」 呼吸が止まる。 甘やかすつもりだった。攻略するつもりだった。御曹司を自分の場所で少し休ませる。 それが今回の作戦。 だけど、そんなふうに言われた瞬間、作戦だったことが全部どうでもよくなった。 「……それはよかった」 やっと出た声は、かすれていた。 千歳はそんな俺を見て、少しだけ満足そうに笑う。 「君は、褒めると分かりやすい」 「褒められ慣れてないんで」 「嘘だ」 「本当だよ」 「客から毎日褒められるだろう」 「それとこれは違う」 言ってしまった。千歳が黙る。 「俺からだと違う?」 「……質問がずるい」 「答えは?」 俺は夜空を見た。星なんて見えない。歌舞伎町に近い夜は明るすぎる。 それでも、なぜか逃げられなかった。 「違う」 千歳は目を伏せた。 「そうか」 嬉しそうだった。いや、たぶん。ほんの少しだけ。 車が来た。 鏡味静臣が運転席から降りて、丁寧に頭を下げる。 「お迎えにあがりました」 「ありがとう、鏡味」 千歳は車に乗る前、俺を振り返った。 「纏」 「何」 「今日は、甘やかしコースだったな」 「そうですね」 「延長は?」 俺は固まった。千歳は涼しい顔で言う。 「検討すると言っただろう」 「……御曹司様、そういうのどこで覚えるんですか」 「君の店で」 「教育に悪い店だな」 「悪くない」 千歳は少し笑った。 「また呼んでくれ」 それだけ言って、車に乗った。 ドアが閉まる。車が走り出す。 俺はしばらく、その場に立っていた。 寒い。上着は着ている。でも、手のひらにさっきの千歳の体温が残っているような気がした。 店に戻ると、冴がなぜかカウンターにいた。 「おかえり」 「だからなんでいる」 「反省会」 「お前、ほんと自由だな」 螢も横にいた。 「御曹司、帰った?」 「帰った」 「顔」 「何」 「甘やかした男の顔」 冴が即座に頷く。 「負けた男の顔でもある」 「二人してうるさい」 俺はカウンターに座り、水を一気に飲んだ。 酒じゃなくて水。千歳に出したのと同じ。 冴が聞く。 「甘やかせた?」 「たぶん」 「甘えてきた?」 「……少し」 「勝ちじゃん」 「違う」 「違うの?」 「こっちが負けた気分」 冴がにっこり笑う。 「それ、相手が可愛かったってこと?」 「……言わせんな」 螢が吹き出した。 「マジか」 「お前は笑うな」 冴はメモ帳を開いた。 ーー 攻略ログ04:甘やかしは裏メニューで ーー その下に、すらすらと書く。 ーー 結果:御曹司が休んだ。ホストが落ちた。 ーー 「消せ」 「消さない」 「落ちてねぇ」 「じゃあ何?」 俺は答えられなかった。 今日、千歳は俺の店で少しだけ休んだ。 俺の用意した水を飲み、俺の選んだ菓子を食べ、俺の隣が楽だったと言った。 それが嬉しかった。心底。 「……次は?」 俺が聞くと、冴は少しだけ表情を変えた。 「次は承認欲求攻略」 「承認欲求?」 「うん。そろそろ千歳さんの芯に触れる頃」 「芯」 「表面じゃないところを褒める。顔でも金でも地位でもなく、誰にも見せない努力とか、孤独とか、責任とか」 「重くないか」 「重いよ」 冴は真面目な目で俺を見た。 「でも、あんたもう軽くは触れないでしょ」 何も言えなかった。その通りだった。 俺はもう、千歳を軽く扱えない。 店に来た千歳の疲れた目。少し休んだ顔。白蝶会の名前で一瞬冷える空気。 そして、俺の隣が楽だったと言った声。 あれを知ってしまった。 「次は、誰も見てない部分を褒める」 冴は言った。 「ただし、営業でやるとバレる。本当に見えたものだけ言いな」 「……難易度上がりすぎだろ」 「攻略不能御曹司だもん」 「その呼び方、やっぱ腹立つ」 「でも好きでしょ」 「違う」 冴も螢も、同時に俺を見た。 「何だよ」 冴が笑う。 「その違う、だいぶ弱くなったね」 俺は何も言えなかった。 スマホが震えた。千歳からだった。 『今日は楽だった。君の店は、騒がしいのに息ができる』 俺はしばらく、その画面を見つめた。 返事を考える。軽く返すなら、いくらでもある。 またお越しください、御曹司様。次回は延長料金いただきます。俺の隣、常連価格で空けときます。 でも、指は違う言葉を選んだ。 『また来い。逃げ道くらいは用意する』 すぐに既読。 少し遅れて、返信。 『では、次も甘やかしてもらおうかな』 俺は思わず笑った。 冴が覗き込もうとする。 「見せろ」 「見せない」 「デレ?」 「知らねぇ」 「デレだね」 螢が横から言う。 「マトイさん、顔ゆるいっす」 「お前らまとめて帰れ」 二人は笑った。 俺はスマホを伏せた。手のひらには、まだ千歳の体温が残っている。 グラスを渡した時、手袋越しに重なった指。 店内から戻る時、素手で触れた手。 俺の用意した逃げ道に、あいつが少しだけ体を預けたこと。全部、残っている。 まだ、手だけ。 まだ、キスでもハグでもない。 でも、手だけでこんなに残るなら。 この先、俺はどうなるんだろう。 そう思って、すぐに打ち消した。 仕事だ。攻略だ。灯庭舎のためだ。まだ、そう言える。たぶん。 でも、今日ひとつだけ分かった。 甘やかしは、相手を休ませることだと思っていた。 けれど実際は違った。 千歳が俺の前で少しだけ休んでくれたことに、俺の方が救われた。 そして、その事実を、俺はもう、冗談だけでは隠しきれなくなっていた。

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