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第19話 俺たちの場所が燃えた夜
余白は、燃えやすい。
差出人不明のその一文を見た瞬間、余白の部屋の空気が変わった。
昨日までここは、逃げない場所だった。
白いマグと青いマグが並んで、蓮太の絵が本棚の横で笑っていて、安いメモ帳には俺たちの汚い本音と、千歳の綺麗すぎる字が残っていた。
ーー
偽装恋人。
触れない約束。
怖いまま、信じる。
復讐するなら二人で。
触れてほしい。理由、戻りたい。
ーー
その全部が、この部屋に積もっていた。
だからこそ、燃えやすい。
狗飼錆人は、分かっている。
俺たちが何を大事にし始めたのか。
どこを潰せば、一番痛いのか。
「持てるものだけ持つ」
千歳の声は低かった。
震えてはいない。
でも、震えないように固めている声だった。
「メモ帳、作戦ノート、灯庭舎の資料、鏡味の件の証拠、蓮太くんの絵」
「マグは?」
「当然持つ」
即答だった。
こんな時なのに、その即答で少しだけ胸が熱くなる。
俺は白と青のマグをタオルで包み、紙袋に入れた。
千歳は作戦ノートと資料を鞄に詰めている。
動きは速い。
無駄がない。
でも、蓮太の絵を外す手だけが少し慎重だった。
「破れるぞ」
俺が言うと、千歳は短く答えた。
「破らない」
「分かってる」
「これは、灯庭舎から預かったものだ」
「うん」
「君が、俺に見せてくれたものだ」
胸が詰まった。
千歳は絵を丁寧に丸め、筒状のケースへ入れた。
その横で、俺は安いメモ帳を手に取った。
ページをめくると、今までの言葉が目に入る。
ーー
余白の部屋。逃げない場所。
好きだと言えるまでは、勢いでキスしない。
ーー
怖いまま、信じる。
俺も選ぶ。
余白の部屋は守られた。
まだ、守られていた。
今この瞬間までは。
「纏」
千歳が呼んだ。
「何」
「ぼうっとするな」
「悪い」
「全部は持てない」
その言葉が痛かった。
全部は持てない。
分かっている。
でも、ここに置いていくものは、ただの物じゃない。
この部屋で笑った時間。
怒った時間。
触れなかった時間。
初めて触れてほしいと言われた夜。
正面から抱きしめたあと、何もなかったみたいに水を飲んだ深夜。
全部持っていきたい。
でも、持てない。
「大事なものから持つ」
千歳は言った。
「うん」
「物より、人だ」
「分かってる」
「君もだ」
俺は顔を上げた。
千歳は俺を見ていた。
「君も、持っていく側ではなく、守る対象に入っている」
「……こんな時にそういうこと言うなよ」
「こんな時だから言う」
反則。
本当に、この男は。
余白の部屋を出ようとした時、廊下の向こうで小さな音がした。
何かが落ちる音。
続いて、焦げた匂い。
俺と千歳は同時に顔を上げた。
「もう来てる」
俺が言うと、千歳は鞄を肩にかけた。
「裏階段へ」
「正面は?」
「使わない」
「了解」
玄関を出る前に、千歳が一瞬だけ部屋を振り返った。
その目を見て、俺は息が詰まった。
千歳は、ここを見ていた。
白い壁。ソファ。テーブル。本棚。
何でもない部屋。
でも、玻璃宮千歳が少しだけ千歳でいられた場所。
俺がホストでも餌でもなく、ただ纏として言葉を置けた場所。
「千歳」
俺は呼んだ。
「何」
「また作る」
千歳の目が揺れた。
「……」
「逃げない場所、また作る。ここが駄目になっても」
千歳は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「約束か」
「約束」
「なら、行く」
俺たちは部屋を出た。
廊下にはすでに薄い煙が流れ込んでいた。
火災報知器は鳴っていない。
不自然だ。
消されているか、まだ検知されない場所で火をつけられたか。
計画的。
本当に性格が悪い。
裏階段へ向かう途中、エレベーターホール側から足音が聞こえた。
一人ではない。
「追手?」
俺が小声で言うと、千歳は頷いた。
「おそらく」
「どうする」
「降りる」
「戦わない?」
「今日は守る日だ」
その判断ができる千歳に、少しだけ安心した。
でも、すぐに背後から声がした。
「逃げるんですか、玻璃宮様」
聞き覚えのある声。
黒い石の指輪の男だった。
俺は振り返りそうになったが、千歳に腕を掴まれた。
「見るな」
「でも」
「挑発だ」
分かっている。
分かっているのに、腹が立つ。
男の声は続く。
「せっかくの愛の巣なのに。燃やすには惜しい部屋でしたね」
千歳の指が、俺の腕を握る。
力が強い。
怒っている。
俺も怒っている。
でも、止まるな。
ここで止まったら相手の思う壺だ。
「行くぞ」
俺が言うと、千歳は頷いた。
だが次の瞬間、男が笑った。
「ちなみに、置き土産はいただきましたよ。仲睦まじいお二人の記録をね」
足が止まりそうになった。
記録。何を。まさか。
余白の部屋。鏡味の救出後。
千歳が「触れてほしい」と言った夜。
医療施設の廊下。
カフェ。レセプション。
あちこちで撮られていた映像。
それをつなげれば、いくらでも作れる。
男同士の破廉恥なスキャンダル。
ホスト狂いの御曹司。
白蝶会が欲しがっていた材料。
千歳が低く言った。
「相手にするな」
「分かってる」
「本当に?」
「今、かなり殴りたい」
「奇遇だな」
「御曹司様も?」
「かなり」
こんな状況なのに、少しだけ笑いそうになった。
俺たちは裏階段へ飛び込んだ。
階段は煙が少ない。
千歳が先に降り、俺が後ろから続く。
途中、千歳が足を止めた。
「何」
「メモ帳」
「持ってる」
「蓮太くんの絵は」
「お前が持ってる」
「マグは」
「俺」
「作戦ノートは」
「お前」
「君は」
「いる」
千歳は、一瞬だけこちらを見た。
「確認した」
「俺まで持ち物リストに入れるな」
「重要物だ」
「……あとで怒る」
「あとで聞く」
その短いやりとりで、怖さが少しだけ遠のいた。
でも、階下へ近づくほど、焦げた匂いは強くなる。
地下側ではなく、上階のどこかで火が回っているらしい。
余白の部屋そのものが燃えているかは分からない。
でも、戻れない。
今は戻れない。
裏口から出た時、夜の空気が肺に入った。
冷たい。苦い。
でも、外だった。
建物の裏手には、千歳が呼んだ別動の車が来ていた。
運転手が扉を開ける。
その直前、上階の窓のひとつが赤く光った。
炎。
余白の部屋のある階だった。
千歳の動きが止まる。
俺も、息を止めた。
窓の内側で、橙色の光が揺れている。
あの部屋か。隣か。
分からない。
でも、分かってしまう。
俺たちの場所が燃えている。
白いマグと青いマグはここにある。
メモ帳も、絵も、資料もある。
でも、部屋そのものは持ってこられない。
「千歳」
俺は呼んだ。
返事がない。
千歳は炎を見ていた。
目を逸らさずに。
綺麗な顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「千歳」
もう一度呼んだ。
「……俺たちの場所が」
声が、かすれていた。
「うん」
「燃えている」
「うん」
「守れなかった」
違う。
そう言いたかった。
でも、言葉を選ばなければいけない。
ここで雑に否定したら、千歳の痛みを奪うことになる。
俺はゆっくり言った。
「場所は、燃えた」
千歳が俺を見る。
「でも、全部は燃えてない」
俺は紙袋を持ち上げた。
白と青のマグ。メモ帳。
蓮太の絵。作戦ノート。
「ここにある」
千歳はそれを見た。
目が揺れる。
「でも」
「うん。部屋は痛い。俺も痛い」
俺は炎を見る。
「腹も立つ。殺したいくらい」
千歳の目が、少しだけ俺に戻る。
「でも、狗飼に取られたわけじゃない」
「……」
「燃やされたなら、また作る。奪われたなら、取り返す。撮られたなら、逆に利用する」
言いながら、自分でも怒りが燃えているのが分かった。
でも、それは暴れる怒りではない。
前へ進むための怒りだ。
「千歳」
「何」
「今日はここを離れる。生きて、次を作る」
長い沈黙。
千歳は、炎を見た。
それから、俺を見た。
「……分かった」
たったそれだけ。
でも、その一言で、彼は戻ってきた。
そう思った。
そのはずだった。
けれど、車に乗り込む直前、千歳の足がまた止まった。
炎に照らされた背中が、あまりにも細く見えた。
実際には、細くなんてない。
千歳は強い。
立っている。
折れていない。
それでも、今、その背中は今にも音を立てて崩れそうだった。
白蝶会の挑発にも耐えた。
鏡味の時にも耐えた。
ここまで逃げ切った。
大事なものも持ち出した。
それでも、余白の部屋が燃えている。
千歳が初めて「怖い」と言った場所。
俺が「逃げない場所」と書いた場所。
二人で触れる理由を決めた場所。
その場所が、燃えている。
俺は紙袋を運転手に預けた。
そして、千歳の背後に立った。
「触れる」
千歳の肩がわずかに揺れる。
「……理由は」
声が、ひどくかすれていた。
俺はゆっくり息を吸った。
「お前の背中が、今にも折れそうだから」
千歳は、炎を見たまま言った。
「折れていない」
「知ってる」
俺は静かに答えた。
「でも、支えたい」
千歳は黙った。
拒まない。逃げない。
でも、振り返りもしない。
それが許可だった。
たぶん、今の千歳には、それが精一杯だった。
俺は、背後から千歳を抱きしめた。
初めてだった。
正面からではない。
手でも、肩でもない。
後ろから。
千歳の背中に、自分の胸を重ねる。
腕を回す。
強くはしない。
閉じ込めるためじゃない。
逃がさないためでもない。
ただ、背中を支える。
倒れそうなら、後ろにいる。
前を向けないなら、俺が少しだけ支える。
その意味で、抱いた。
千歳の体が、一瞬だけ硬くなった。
それから、ゆっくり息を吐いた。
深い、長い息。
「……これは」
千歳が言った。
「後ろから、だな」
「うん」
「ルールでは」
「倒れそうな背中を支える時」
千歳の指が、俺の腕に触れた。
袖を掴むのではなく、そこにあるか確かめるように。
「倒れていない」
「知ってる」
俺はもう一度言った。
「でも、支えたい」
千歳の指が、俺の腕に少しだけ力を込めた。
炎の赤が、夜のガラスに揺れている。
サイレンの音が近づいてくる。
遠くで誰かが叫んでいる。
でも、その一瞬だけ、世界が静かになった。
千歳の背中が、俺の胸の中で少しずつ呼吸を取り戻していく。
「纏」
「何」
「ここが燃えるのを、見たくない」
「うん」
「でも、目を逸らしたくない」
「うん」
「俺が、ここを大事にしたことまで、燃えたことにしたくない」
胸が痛くなる。
俺は、腕を少しだけ強くした。
「燃えてない」
「……」
「お前がここを大事にしたことは、燃えてない」
千歳の指が、俺の腕を掴む。
「君も?」
「俺も」
「君も、この部屋を」
「好きだった」
千歳の呼吸が、震えた。
「俺もだ」
その言葉が、後ろハグの中で落ちた。
好き。
部屋のことだ。
分かっている。
でも、その響きだけで、胸の奥が熱くなる。
今は、まだ言わない。
人に向ける好きは、まだ。
けれど、燃える余白の部屋を前にして、俺たちは初めて同じものへ「好きだった」と言えた。
それが、どうしようもなく痛くて、どうしようもなく大事だった。
「行くぞ」
俺は言った。
「うん」
「次を作る」
「うん」
「この背中、今日は俺が見てる」
千歳は少しだけ黙った。
それから、俺の腕に指を重ねたまま言った。
「許可する」
やっと、いつもの言葉が戻ってきた。
俺は腕をほどいた。
すぐ離すのが、少し惜しかった。
でも、離した。
千歳は振り返らなかった。
ただ、一度だけ、俺の手首に指先で触れた。
ありがとう、とは言わなかった。
でも、十分だった。
****
車が走り出す。
遠ざかる建物の窓に、炎が揺れていた。
千歳はずっと、後ろを見ていた。
俺は何も言わなかった。
ただ、紙袋の中のマグが割れないように、両手で抱えていた。
両手。
助けろ。
でも今は、俺の方が何かにしがみついていた。
千歳がそれに気づいた。
「纏」
「何」
「両手」
「あ」
「助ける?」
俺は少しだけ笑った。
笑える状況ではないのに、笑ってしまった。
「助けてくれ」
千歳の目が揺れた。
「どうすればいい」
「そこにいろ」
千歳は黙った。
そして、低く答えた。
「いる」
それだけで、少し呼吸が戻った。
****
車は、別の安全な場所へ向かった。
玻璃宮側が用意した予備の部屋。
でも、俺たちはそこを余白の部屋とは呼ばなかった。
まだ呼べなかった。
そこは綺麗で、安全で、設備も整っていた。
けれど、白いマグと青いマグをテーブルに置いても、蓮太の絵を壁に立てかけても、何かが違った。
まだ、空気がない。
俺たちの言葉が積もっていない。
逃げない場所には、まだなっていなかった。
千歳は部屋に入るなり、作戦ノートをテーブルに置いた。
でも、開かなかった。
白いマグに水を入れても、飲まなかった。
蓮太の絵の前で、じっと立っていた。
「無事だ」
俺が言うと、千歳は頷いた。
「うん」
「メモ帳も」
「うん」
「マグも」
「うん」
「お前も」
千歳がこちらを見る。
「君も」
「うん」
「鏡味も生きている」
「うん」
「なら、まだ失っていない」
千歳は、自分に言い聞かせるように言った。
俺はその言葉を否定しなかった。
でも、全部肯定もしなかった。
「失ったものもある」
俺は言った。
千歳の瞳が揺れる。
「うん」
「だから、悼む」
「悼む?」
「悲しむってこと」
「……」
「悔しがる。怒る。傷ついたって認める」
千歳は、ゆっくり椅子に座った。
その姿勢が、いつもより少し崩れていた。
「俺は」
「うん」
「部屋に、感情を持ちすぎていたのかもしれない」
「持っていいだろ」
「危険だ」
「危険でも、持ったんだろ」
千歳は黙った。
俺は隣の椅子に座る。
触れない。
今はまだ。
さっき、背後から抱きしめた温度が身体に残っている。
あれは、特別な接触だった。
何度も使っていいものじゃない。
だからこそ、今は触れない。
言葉だけで隣にいる。
「俺も持ってた」
俺は言った。
「あの部屋、好きだった」
千歳の顔が、少し歪む。
「君は、最初にマグを置いた」
「お前は高いノート置いた」
「君は字の汚いメモ帳を置いた」
「お前はそれに綺麗な字で危険物を書き足した」
「蓮太くんの絵も」
「うん」
「鏡味が、守った」
「うん」
千歳は、両手で顔を覆いかけて、途中で止めた。
「千歳」
「何」
「触れていいか」
千歳が顔を上げる。
目が赤い。
泣いてはいない。
でも、泣く手前だった。
「理由は?」
「俺も戻りたい」
千歳の息が止まった。
俺は続けた。
「お前だけじゃない。俺も今、戻りたい。余白の部屋が燃えたところから、ここに戻ってきたい」
千歳は、長く俺を見ていた。
そして、静かに頷いた。
「許可する」
俺は、千歳の手に触れた。
今度は指先だけではなかった。
ちゃんと握った。
強くしすぎないように。
でも、離れないように。
千歳の手は冷たかった。
少し震えていた。
俺の手も、たぶん震えていた。
「ここにいる」
俺が言うと、千歳は目を閉じた。
「うん」
「燃えた」
「うん」
「腹立つ」
「うん」
「でも、俺たちは生きてる」
「うん」
「次を作る」
千歳の手が、少しだけ握り返してくる。
「……うん」
その「うん」は、今夜一番弱かった。
でも、今夜一番正直だった。
しばらく、俺たちは手を握っていた。
恋人ではない。
まだ、そう名乗っていない。
好きとも言っていない。
でも、今夜この手を離したら、どちらかが落ちる気がした。
だから握った。
理由は、戻りたいから。
二人とも。
やがて、千歳が小さく言った。
「纏」
「何」
「今日は、触れない約束を変えたい」
心臓が鳴った。
「どう変える」
「勢いでキスしない。軽く触れない。それは変えない」
「うん」
「でも、壊れそうな時は」
千歳は言葉を探した。
「理由を言えないほど壊れそうな時は、相手が見て、必要だと思えば触れていいことにしたい」
俺は黙った。
千歳は目を開ける。
「都合がいいか」
「いや」
俺は首を振った。
「必要だと思う」
「悪用しない」
「分かってる」
「君もだ」
「分かってる」
「それでも」
「うん」
「今日は、理由を言う余裕があった。だが、次は分からない」
千歳は、燃えた部屋の方向を見るように、窓の外を見た。
「次に狗飼が何を壊すか、分からない」
俺は、千歳の手を握り直した。
「じゃあ、ルール追加」
「何」
「壊れそうな時は、あとから理由を言う」
千歳がこちらを見る。
「あとから?」
「その場で言えなかったら、落ち着いてから言う。なぜ触れたのか。なぜ触れてほしかったのか」
千歳は少し考えた。
「記録するか」
「する」
「メモ帳に?」
「安い方な」
千歳は少しだけ笑った。
ようやく、ほんの少し。
「君の字で?」
「暗号化された方が安全だろ」
「有効活用だな」
「そういうこと」
俺たちは、手を離した。
少し惜しかった。
でも、離せた。
離しても、落ちなかった。
それだけで十分だった。
千歳はメモ帳を開いた。
燃えた部屋から持ち出した、安いメモ帳。
煙の匂いが少し移っている気がした。
俺はペンを取った。
手がまだ震えていた。
字は、いつも以上にひどい。
でも、書いた。
ーー
余白の部屋が燃えた。
持ち出したもの:メモ帳、作戦ノート、蓮太の絵、白と青のマグ、資料。千歳。俺。
失ったもの:部屋。あの夜の空気。逃げない場所そのもの。
でも、次を作る。
初めて、後ろから抱きしめた。理由:千歳の背中が折れそうだったから。支えたかったから。
触れない約束、更新。壊れそうな時は触れていい。理由はあとから言う。
ーー
千歳はその文字を、じっと見ていた。
「読める?」
俺が聞くと、千歳は静かに答えた。
「読める」
「珍しい」
「今日の字は、乱れているが、読ませる気がある」
「なんだそれ」
「本気の字だ」
胸が少し熱くなる。
千歳はペンを受け取り、その下に書いた。
ーー
燃えたのは部屋であって、余白ではない。
余白は、二人で持ち出した。
後ろから支えられた。効果:高。危険度:言葉にできない。
ーー
俺は、その文字を見て動けなくなった。
千歳の字は、いつもより少し震えていた。
でも、綺麗だった。
痛いくらい綺麗だった。
「……千歳」
「何」
「それは反則」
「そうか」
「うん」
「でも、事実だ」
「最近、事実が一番きつい」
千歳は、少しだけ笑った。
そして、白いマグを手に取った。
「割れなかったな」
「俺が命懸けで守った」
「そこまではしていない」
「心は命懸けだった」
「大げさだ」
「大げさじゃない」
千歳は白いマグを見つめた。
「このマグが、あの部屋から来たものだと分かるだけで、少し落ち着く」
「なら、持ってきてよかった」
「ありがとう」
素直な礼だった。
俺は青いマグを持ち上げた。
「じゃあ、新しい部屋でも使うか」
「ここを余白の部屋にするのか?」
「まだ違う」
千歳は頷いた。
「俺もそう思う」
「でも、候補ではある」
「候補」
「逃げない場所になるには、もう少し俺たちの字と、インスタントコーヒーと、くだらない会話がいる」
千歳は少しだけ目を細めた。
「では、育てるか」
「部屋を?」
「余白を」
その言い方が、千歳らしかった。
俺は笑った。
「育てるって、財閥っぽくないな」
「そうか?」
「うん」
「なら、悪くない」
その時、千歳の端末に通知が来た。
白蝶会筋のゴシップアカウント。
そこには、すでに新しい投稿があった。
写真は粗い。
俺と千歳がカフェで顔を寄せている写真。
レセプションで肩が触れている写真。
余白の部屋の建物から出てくるらしい、ぼやけた写真。
地下駐車場で俺が千歳の腕を掴んでいる写真。
そして、炎の前で俺が千歳を後ろから抱きしめている写真。
文面は下劣だった。
ーー
玻璃宮若当主、夜職男性に溺れる。秘密の部屋で密会か。忠臣も巻き込む異常な関係。
ーー
胸が冷えた。
編集されている。
文脈を切り取られている。
鏡味を助けるために千歳を止めた場面すら、情痴沙汰のように加工されている。
余白の部屋を燃やされた夜に、千歳の背中を支えたことまで、見世物にされている。
千歳の顔から表情が消えた。
俺は端末を見ながら、奥歯を噛んだ。
「来たな」
千歳が言った。
「ああ」
「これが、次の攻撃か」
「腹立つな」
「かなり」
「でも」
俺は画面から目を離し、千歳を見た。
「思ったより弱い」
千歳の目が動く。
「なぜ」
「だって、全部本当じゃないけど、全部嘘でもない」
俺は投稿の写真を見る。
カフェで顔を寄せた。
肩が触れた。
余白の部屋で会っていた。
地下で千歳の腕を掴んだ。
炎の前で、後ろから抱きしめた。
その事実はある。
意味が違うだけだ。
「意味を奪われただけだ」
俺は言った。
「なら、奪い返せる」
千歳は、じっと俺を見ていた。
「君は」
「何」
「強いな」
「今、かなり怒ってるだけ」
「それを強さと言うんだろう」
「お前に言われると照れる」
「照れている場合か」
「そうだった」
俺たちは顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく笑った。
疲れている。
傷ついている。
余白の部屋は燃えた。
でも、笑えた。
それは、狗飼錆人がまだ奪えていないものだった。
千歳は端末を置いた。
「この映像は、いずれ使われる」
「だろうな」
「俺を失脚させる切り札として」
「男に溺れた御曹司、って?」
「そうだ」
「じゃあ、先に決めとこう」
「何を」
俺は青いマグを置いた。
「俺たちの関係を、恥にしない」
千歳の目が揺れた。
「……」
「敵がどう編集しても、俺は恥だと思わない。お前と会ったことも、余白の部屋にいたことも、触れたことも、守ろうとしたことも」
声が熱くなる。
「恥じゃない」
千歳は黙っていた。
俺は続ける。
「まだ恋人じゃない。まだ好きとも言ってない。でも、少なくとも俺は、お前の隣にいたことを恥にはしない」
千歳の唇が、少しだけ震えた。
「纏」
「何」
「それを今言うのは、ずるい」
「お前に言われたくない」
「俺は」
千歳は、一度言葉を切った。
そして、静かに言った。
「俺も、恥にはしない」
その一言で、余白の部屋が燃えた痛みが、少しだけ形を変えた。
敵は、俺たちの場所を燃やした。
映像を奪い、意味を歪めた。
でも、恥にはできない。
俺たちが恥じなければ。
****
深夜、俺たちは新しい部屋で初めてコーヒーを淹れた。
インスタント。白いマグと青いマグ。味は安い。
でも、落ち着いた。
千歳は白いマグを両手で包む。
俺は青いマグを片手で持つ。
「明日から、動く」
千歳が言った。
「うん」
「余白の部屋を燃やした証拠、編集映像の出どころ、白蝶会の投稿経路、狗飼錆人の関与」
「全部洗う」
「それと、斎門叔父上にもこの件を伝える」
「味方に引き込む?」
「完全に引き剥がすなら、ここだ」
「分かった」
「君は、灯庭舎には連絡を」
「する。心配かけない範囲で」
「一人で行くな」
「行かない」
「約束」
「約束する」
約束が、また増える。
でも、今はそれが支えだった。
****
寝る前、メモ帳を閉じようとした時、千歳が言った。
「もう一行、書いていいか」
「もちろん」
千歳はペンを取り、最後に書いた。
ーー
奪われた意味は、取り返す。
俺はその下に、自分の字で書いた。
恥にしない。絶対に。
ーー
二人でページを見た。
煙の匂いが少しするメモ帳。
燃えた部屋から持ち出した、本当の記録。
それを閉じた時、俺は思った。
余白の部屋は燃えた。
でも、余白は燃えなかった。
狗飼錆人は、俺たちの場所を壊した。
でも、俺たちがそこに置いたものまでは壊せなかった。
次は、意味を取り返す。
切り取られた写真も。
歪められた距離も。
燃やされた部屋も。
全部、俺たちの言葉で取り戻す。
千歳が、白いマグを置いて言った。
「纏」
「何」
「今日は、隣で眠ってほしい」
息が止まった。
千歳はすぐに続ける。
「何もしない。触れない約束も守る。ただ、別室ではなく、同じ部屋で」
「理由は?」
俺は静かに聞いた。
千歳は、少しだけ目を伏せた。
「また、目を覚ました時に何かが燃えていたら怖い」
胸が締めつけられた。
「分かった」
俺は頷いた。
「隣にいる」
「君は?」
「俺も、その方がいい」
「そうか」
「うん」
その夜、俺たちは同じ部屋で眠った。
ソファと床に分かれて。
触れない。
でも、すぐ近くに。
白いマグと青いマグはテーブルに置かれ、蓮太の絵は壁に立てかけられ、メモ帳は二人の間にあった。
何も起きなかった。
ただ、朝まで何度か千歳が目を覚まし、そのたびに俺の名前を小さく呼んだ。
俺はそのたびに答えた。
「いる」
すると千歳は、また目を閉じた。
それを繰り返した。
****
夜が明ける頃、俺はほとんど眠れていなかった。
でも、不思議と疲れてはいなかった。
千歳が最後に目を開けた時、窓の外は薄く明るくなっていた。
「纏」
「何」
「いたな」
「いただろ」
「うん」
千歳は少しだけ笑った。
その笑顔は、燃えた夜のあとに残った、小さな朝みたいだった。
俺は思った。
好きだ。
今すぐ言いたいくらい、好きだ。
でも、まだ言わない。
言うなら、勝った時だ。
この人の隣に立って、恥じゃないと証明して、奪われた意味を取り返してから。
俺は青いマグを手に取り、言った。
「今日から反撃だな」
千歳は白いマグを持った。
「そうだな」
「まず何する?」
千歳は、少しだけ目を細める。
いつもの策士の顔。
でも、そこにもう孤独はなかった。
「狗飼錆人を、こちらの舞台に引きずり出す」
「復讐編か」
「君の復讐でもある」
「二人で?」
「二人で」
千歳は静かに言った。
「全員で」
俺は頷いた。
余白の部屋が燃えた夜は終わった。
朝が来た。
そして、俺たちはやっと理解した。
ここから先は、守るだけでは足りない。
奪われた意味を取り返すために、敵の嘘を燃やす番だった。
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