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第20話 ホストの復讐

朝になっても、燃えた匂いは鼻の奥に残っていた。 実際には、もう余白の部屋にはいない。 玻璃宮側が用意した新しい部屋。 白いマグも、青いマグも、蓮太の絵も、メモ帳も、作戦ノートも無事にここへ運び込んだ。 けれど、部屋の空気はまだ違う。 あの場所みたいに、俺たちの言葉が壁に染み込んでいない。 千歳が「触れてほしい」と言った夜も。 俺が「恥にしない」と言った夜も。 燃える窓を前に、初めて後ろから千歳を抱きしめた夜も。 全部、持ってきたつもりなのに。 どうしても、足りない。 「纏」 白いマグを持った千歳が、俺を見た。 「何」 「顔が怖い」 「今日は優しい顔できない」 「しなくていい」 「またそれか」 「必要ない時に笑うな」 胸の奥が、少しだけ痛くなる。 千歳は、俺が笑顔で逃げようとするのを、もう止める。 それがありがたくて、少し怖い。 俺は青いマグをテーブルに置いた。 「狗飼錆人を引きずり出す」 千歳は頷いた。 「そのためには、まず証拠を集める」 「灯庭舎の件」 「そうだ」 黒い作戦ノートが開かれている。 ページの上には、千歳の綺麗な字でこう書かれていた。 ーー 狗飼錆人/過去の資金詐欺/白蝶会/灯庭舎/編集映像 ーー その下に、俺の汚い字で追加する。 ーー 復讐するなら二人で。 ーー 千歳が横から見て、少しだけ目を細めた。 「読める」 「そこ褒めるところか?」 「成長だ」 「子供扱いするな」 「君は褒めると分かりやすい」 「……嬉しそう?」 「している」 悔しい。 こんな朝でも、千歳に褒められると少し救われる。 でも今日は、すぐに甘い方へ逃げたくなかった。 俺は資料を指で叩いた。 「灯庭舎の詐欺の証拠は、院長先生の書類だけじゃ足りない」 「相手が狗飼本人だと結びつける必要がある」 「黒い石の指輪、偽名の犬飼、支援団体、関連投資会社」 「まだ線だ。鎖にするには足りない」 千歳の言い方は冷静だった。 ただ、目の奥が燃えている。 余白の部屋を燃やされた怒り。 鏡味を傷つけられた怒り。 母の場所を踏みにじられた怒り。 そして、俺の怒りを一緒に持つと決めた男の目。 「俺、動く」 俺が言うと、千歳がすぐに顔を上げた。 「一人で?」 「違う。ちゃんと報告してるだろ」 「行き先は」 「Club Perigee」 千歳の眉が少し動く。 「店か」 「ああ。狗飼は夜の世界に近い。女を囲う。金で縛る。逃げ道を焼く。そういう男の噂は、うちの方が早い」 千歳は黙った。 俺は続けた。 「それに、俺が助けた子たちがいる」 「美緒里さんたちか」 「うん。あの人たちの中には、狗飼に近い場所にいた子もいるかもしれない」 「危険だ」 「分かってる。だから無理には聞かない」 「本当に?」 「本当に」 千歳はじっと俺を見た。 疑っているというより、俺が自分を雑に使わないか見ている顔だ。 俺はちゃんと言葉にする。 「約束する。誰かの傷を、俺の復讐の道具にしない」 千歳の目が、少しだけ柔らかくなった。 「なら、俺も行く」 「は?」 「俺も行く」 「Club Perigeeに?」 「そうだ」 「御曹司様、また夜の世界に?」 「君の場所だろう」 「そうだけど」 「俺は、君が怒りの中でどう動くか見ておきたい」 「監視?」 「半分」 「残りは?」 千歳は白いマグを置いた。 「君の復讐を、君一人のものにしたくない」 言葉が、まっすぐ胸に落ちた。 本当に、この男は。 朝からそういうことを言う。 「……高くつくぞ」 「君が?」 「俺が」 千歳は少しだけ笑った。 「知っている」 Club Perigeeに千歳を連れて行くのは、二度目だった。 一度目は、甘やかし攻略だった。 俺の場所で、千歳を休ませるため。 そして俺の方が落ちた日。 今度は違う。 俺の場所で、俺の復讐の手がかりを集める。 店に入った瞬間、螢が目を丸くした。 「御曹司、再来店」 「変な言い方をするな」 俺が言うと、螢はにやっと笑った。 「いらっしゃいませ、玻璃宮様。本日もマトイをご指名で?」 千歳は涼しい顔で答える。 「今日は、指名というより監視だ」 「うわ、言い方がガチ」 「半分は監視です」 「残りは?」 千歳は俺を見た。 「共犯」 螢が、数秒固まった。 それから、顔を手で覆った。 「……マトイ」 「何だよ」 「御曹司、強すぎない?」 「知ってる」 「これ、勝てる?」 「とっくに負けてる」 言ってから、千歳と目が合った。 しまった。 口が勝手に。 千歳の耳が、少し赤い気がした。 螢が無言でガッツポーズをしている。 殴りたい。 だが、今日はそれどころじゃない。 俺たちは開店前のVIPルームに入った。 螢も同席する。 冴にも連絡していたが、彼女は後から来るらしい。 「狗飼錆人」 螢はスマホを操作しながら言った。 「夜の界隈だと、名前出すだけで嫌な顔されるタイプ」 「知ってるのか」 「本人を直接知ってるわけじゃない。でも、昔から女の子を“逃げられないようにする”男の噂がある」 千歳の目が細くなる。 「逃げられないように?」 「金を貸す。仕事を紹介する。家を用意する。そうやって親切ぶって囲う。でも最後には、その全部が鎖になる」 俺の腹の奥が熱くなる。 狗飼錆人。 纏の暗い鏡。 千歳が前に言ったことがある。 俺は逃げ道を売る男。 狗飼は逃げ道を焼く男。 本当に、その通りだ。 「灯庭舎にしたことと同じだな」 俺が低く言うと、螢が頷いた。 「善意の顔で近づいて、頼らせて、最後に逃げ道を潰す」 千歳は静かに言った。 「証言者はいるか」 「探せる。でも危ない。狗飼に近かった子は、まだ怖がってる可能性が高い」 「無理には聞かない」 俺はすぐに言った。 「こっちの復讐に巻き込まない」 螢が俺を見た。 「マトイ、成長したな」 「うるさい」 「前なら一人で全部聞きに行ってた」 「……」 言い返せない。 千歳が少しだけこちらを見る。 怒ってはいない。 ただ、見ている。 俺が約束を守るかどうか。 俺は息を吐いた。 「まず、美緒里さんと沙月に連絡する」 「沙月さん?」 千歳が聞く。 「前に悪い男から逃がした子。狗飼本人じゃないけど、似た筋にいた」 「俺も同席するか」 「最初は俺だけが聞く。千歳さんがいると緊張する」 「そんなに怖いか?」 螢が即答した。 「怖いというか、綺麗すぎて情報飛ぶと思います」 「君まで言うのか」 「顔面が財閥」 「意味が分からない」 「でも分かる」 千歳は少し嫌そうに眉を寄せた。 その横顔を見て、少しだけ空気が緩んだ。 でも、すぐに重くなる。 俺はスマホを取り出し、美緒里に連絡した。 短く、慎重に。 『相談したいことがある。 昔、悪い男や投資話で困っていた人を知っていたら、話を聞きたい。 無理はしなくていい。 危険なら断って』 返信は、思ったより早かった。 『狗飼錆人のこと?』 俺は息を止めた。 千歳が隣で画面を見ている。 螢も顔を強張らせた。 俺は返信する。 『知ってる?』 少し間があって。 『私は直接ではない。でも、友達が昔、あの人の関係者に囲われかけた。 マトイくん、また誰かを助けようとしてるの?』 俺は、しばらく画面を見つめた。 違う。 助けたいだけじゃない。復讐したい。 灯庭舎を壊された怒りもある。 余白の部屋を燃やされた怒りもある。 鏡味を傷つけられた怒りもある。 綺麗な理由だけではない。 だから、正直に返した。 『助けたい。 でも、今回は俺も怒ってる。 だから無理はさせたくない』 返信。 『じゃあ、私から声をかける。 マトイくんに助けられた子、他にもいるから。 今度はこっちが助ける番だと思う』 喉が詰まった。 俺は画面を見たまま動けなかった。 千歳が静かに言う。 「よかったな」 「……うん」 「君が作った逃げ道が、戻ってきた」 「そういう言い方するな」 「軽くない」 「分かってる」 美緒里だけではなかった。 沙月からも返信が来た。 狗飼の名前、聞いたことある。 女の子を“商品”みたいに扱う人。 私、証言できる範囲ならする。マトイさんが昔、私にしてくれたこと、忘れてないから。 また一つ。 別の女性からも。 そのまた知人からも。 小さな糸が、次々につながっていく。 狗飼錆人は、過去に何人もの女性を金で縛り、投資話や住居契約、紹介料で逃げ道を塞いでいた。 一部は、白蝶会の社交の場に流されていた。 貴族筋や旧家の娘もいた。 みんな、表に出るのを恐れていた。 家名。恥。スキャンダル。 狗飼は、そこを利用していた。 千歳は無言で記録をまとめていた。 顔は冷静だ。 でも、目は冷えている。 「最低だな」 俺が言うと、千歳は頷いた。 「彼は、人の逃げ道を焼く」 「お前が前に言った通りだ」 「君と正反対だ」 「俺だって、綺麗な男じゃない」 「知っている」 「おい」 「だからこそ違う」 千歳は俺を見る。 「君は金を取る。嘘も使う。軽口も叩く。だが、最後に逃げ道を残す」 「……」 「狗飼は、最初に逃げ道を与える顔をして、最後に焼く」 胸の奥が熱くなる。 怒りと、何か別のもの。 千歳にそう見られていることが、苦しいくらい嬉しい。 「今日は、褒めすぎじゃないか」 「褒めている?」 「全部?」 「全部」 本当に困る。 でも、今は照れている場合じゃない。 その時、冴がVIPルームに入ってきた。 「はい、女の敵を潰す会場はここですか?」 「言い方」 俺が言うと、冴は俺を無視して千歳に軽く頭を下げた。 「玻璃宮さん。今日は、纏の暴走止め役ですね」 千歳は真顔で答える。 「はい」 「即答」 「必要な役割です」 「うん、分かってる」 冴は俺の隣に座り、スマホを出した。 「私の方でも聞いてみた。狗飼錆人、やっぱり女性界隈では名前を出したくないタイプ。特に“支援者ぶる男”として有名」 「支援者ぶる」 「夢がある子、家と揉めてる子、金に困ってる子、男から逃げたい子。そういう子に近づく」 「灯庭舎と同じ手口か」 「そう。相手が施設か女性かの違いだけ」 冴は資料をテーブルに置いた。 「あと、狗飼が瑠璃香を裏切る気配がある」 千歳の目が動いた。 「根拠は?」 「狗飼の周辺が、白蝶リゾート構想の利権を別口座に流そうとしてる。女の子たちに渡してた契約書や投資話の中に、同じ関連会社の名前が出てくる」 千歳が資料を取る。 一枚、二枚。 彼の目が速く動く。 「これは使える」 「だろ?」 冴がにっと笑った。 「瑠璃香さんは、狗飼を愛人兼実行役として使ってるつもり。でも狗飼は、その瑠璃香さんも食い物にする気」 「裏切り者を、裏切らせる」 千歳が低く言った。 「いや」 俺は首を振った。 「違う」 二人が俺を見る。 「犬は最初から飼われてない。餌のある場所にいただけだ」 千歳の目が、少しだけ細くなる。 「では、それを瑠璃香に見せる」 「どうやって?」 冴が聞く。 千歳は静かに資料を置いた。 「パーティーがある」 「また?」 俺が言うと、千歳は頷く。 「白蝶会主催ではないが、瑠璃香も狗飼も来る。斎門叔父上も、おそらく距離を測りに来る」 「そこで?」 「狗飼が瑠璃香を裏切ろうとしている証拠を、瑠璃香本人の耳に入る形で流す」 「仲間割れ狙い」 「そうだ」 「俺は?」 千歳は俺を見る。 少しだけ迷った顔をした。 「君には、狗飼の前に立ってもらうことになる」 空気が少し重くなる。 俺は自分の中に、黒いものが浮かぶのを感じた。 狗飼錆人。 灯庭舎を壊したかもしれない男。 余白の部屋を燃やした男。 鏡味を傷つけた男。 女たちの逃げ道を焼いた男。 「立つ」 俺は言った。 千歳の目が揺れる。 「冷静でいられるか」 「分からない」 正直に言った。 「だから、お前も隣にいろ」 千歳は、ほんの少しだけ息を呑んだ。 それから頷く。 「いる」 冴が俺たちを見て、少しだけ笑った。 「いいね」 「何が」 「復讐の仕方が、ちゃんと二人になってる」 俺は何も言えなかった。 千歳も黙っていた。 でも、否定はしなかった。 その日の夜、余白ではない新しい部屋に戻ると、俺たちは集めた証言と資料を整理した。 美緒里。 沙月。 他の女性たち。 螢の夜の人脈。 冴の知り合い。 鏡味が療養しながら送ってきた追加調査。 斎門からも、短い連絡があった。 白蝶会側の資金資料を一部送る。 狗飼錆人について、私も調べる。 千歳はそのメッセージを見て、少しだけ目を伏せた。 「叔父さん、動いたな」 「完全に信用はできない」 「でも戻ってきてる」 「……そうだな」 千歳は白いマグを持った。 「戻り道は、無駄ではなかった」 「だろ」 「君のおかげでもある」 まただ。今日は褒めてくる。 やめてほしい。嬉しすぎて、復讐心が少し丸くなる。 いや、丸くなっていいのかもしれない。 怒りは必要だ。 でも、怒りだけで進むと狗飼と同じ場所へ行く。 俺は青いマグを握った。 「千歳」 「何」 「俺、狗飼を見たら、たぶんかなり汚いこと言う」 「言えばいい」 「止めないのか」 「言葉で殴るのは、あとで一緒にやろうと言っただろう」 「覚えてたのか」 「覚えている」 「全部?」 千歳は俺を見る。 「君の言葉は、だいたい覚えている」 本当に、やめろ。 心臓が持たない。 「……そういうの、復讐前に言うな」 「なぜ」 「俺が落ち着く」 「落ち着いた方がいいだろう」 「そうだけど」 千歳は少しだけ笑った。 「君は怒っている時ほど、俺に甘い言葉を言われると止まる」 「分析するな」 「止めるためだ」 「ずるい」 「使えるものは使う」 「御曹司様、悪い男になってきたな」 「君の影響だ」 二人で少し笑った。 笑えたことに、少し救われた。 それから俺は安いメモ帳を開いた。 燃えた部屋から持ち出した、煙の匂いが少しするメモ帳。 今日のページに書く。 ーー 狗飼錆人の証拠集め開始。 美緒里さん、沙月、他の女の子たちが助けてくれる。 俺が作った逃げ道が、戻ってきた。 狗飼は逃げ道を焼く男。俺は、あいつとは違う。違うと証明する。 ーー 千歳は横で読んだ。 「読める?」 「読める」 「今日も本気の字?」 「そうだな」 千歳はペンを取った。 その下に綺麗な字で書く。 ーー 復讐は、怒りではなく証明にする。 ーー 俺はその一文を見て、息を止めた。 「千歳」 「何かな」 「それ、かなりいい」 「褒めている?」 「全部」 千歳が少しだけ笑う。 俺はその文字を見ながら、胸の中にある怒りの形が変わっていくのを感じた。 復讐は、怒りではなく証明にする。 狗飼錆人が焼いた逃げ道を、俺たちがもう一度開く。 灯庭舎の名誉を取り戻す。 傷つけられた女性たちの声を、恥ではなく証拠に変える。 余白の部屋を燃やされた意味を、俺たちの言葉で取り返す。 それが、俺の復讐だ。 ただ殴るより、ずっと難しい。 でも、千歳とならできる気がした。 そう思ったのに。 **** 深夜、俺は目を覚ました。 ソファで仮眠していたはずなのに、目だけが冴えている。 新しい部屋は静かだった。 千歳は隣室で休んでいる。 触れない約束を守るため。 それでも何かあればすぐ分かるように、扉は少しだけ開けてある。 テーブルには、白と青のマグ。 蓮太の絵。メモ帳。作戦ノート。 全部、ここにある。 でも、俺の胸の中だけが落ち着かない。 狗飼錆人。 その名前が、頭から離れない。 あいつが笑っているところを想像する。 灯庭舎へ善人面で入り込んだ顔。 女の子に支援者の顔をした顔。 鏡味を傷つけた時の顔。 余白の部屋を燃やした後、俺たちの写真を見て笑った顔。 全部、想像だ。 なのに、腹の底が熱くなる。 スマホが震えた。 螢からだった。 『狗飼の下っ端、今夜まだ動いてる。 港区のバー裏。黒い石の指輪の男、確認。 ただし、行くなら絶対一人で行くな』 最後の一文を見て、俺は笑った。 みんな同じことを言う。 一人で行くな。 分かっている。 分かっているのに。 今行けば、何か掴める気がした。 狗飼本人ではなくても、黒い指輪の男なら。 余白の部屋に火をつけた奴かもしれない。 鏡味を傷つけた奴かもしれない。 俺はスマホを握った。 千歳を起こすべきだ。 分かっている。 約束した。 一人で行かない。 復讐するなら二人で。 でも、千歳は疲れている。 昨日からずっと、余白の部屋の火災、鏡味の件、斎門のこと、証言者の整理。 あいつだって限界だ。 俺一人で確認するだけなら。 近づかない。見るだけ。証拠を取るだけ。すぐ戻る。 そう思った時点で、もう駄目だった。 俺は上着を取った。 音を立てないように玄関へ向かう。 靴を履く。 ドアノブに手をかける。 その瞬間。 背中に、温度が触れた。 「一人で行くな」 千歳の声が、耳元で落ちた。 低くて、静かで、でも怒っていた。 俺は動けなかった。 背後から、千歳の腕が俺の胸元に回っている。 強くはない。 でも、確かに止めている。 後ろから抱きしめられていた。 前は、俺が千歳の背中を支えた。 今度は、千歳が俺の背中を止めている。 「千歳」 「触れる」 千歳は、俺の背中に額を寄せるような距離で言った。 「理由は、あとからでもいいと言ったな」 息が止まる。 触れない約束、更新。 壊れそうな時は触れていい。 理由はあとから言う。 俺たちが、燃えた夜に決めたこと。 「今、言える」 千歳は続けた。 「理由は、君が一人で自分を壊しに行こうとしているから」 「俺は」 「見るだけだと言うつもりか」 何も言えなかった。 千歳の腕に、少しだけ力が入る。 「君は、すぐ自分を使い捨てる」 胸が痛い。 「違う」 「違わない」 「証拠を取るだけだ」 「それを一人でやろうとしている時点で、違わない」 千歳の声が震えていた。 怒りだけではない。 怖さが混ざっている。 「俺が眠っている間に、君が狗飼のところへ行ったら」 「……」 「俺が目を覚ました時、また何かが燃えていたら」 心臓が止まった。 前に千歳が言った。 また、目を覚ました時に何かが燃えていたら怖い。 その何かに、俺自身が入っていたのだと、今さら気づいた。 千歳の腕が、俺を後ろから包んでいる。 守りたい。支えたい。 背中を折らせたくない。 それは、俺が千歳にした抱擁と同じ意味で、でも違う。 今度は、俺が止められている。 「千歳」 「何」 「離せ」 「離さない」 「命令か?」 「願いだ」 胸が詰まる。 「俺は、君の復讐を止めない」 千歳は言った。 「君の怒りも否定しない。狗飼を潰したいと思うことも、分かる」 「……」 「だが、君が自分を壊してまで進むなら、俺が止める」 背中越しに、千歳の呼吸が伝わってくる。 いつもより少し早い。 「俺のものを、勝手に壊すな」 その言葉に、身体が固まった。 千歳も、自分で言った言葉の重さに気づいたのか、少しだけ腕の力を緩めた。 でも、離れなかった。 「所有するという意味ではない」 「分かってる」 「君を物扱いしたいわけではない」 「分かってる」 「ただ」 千歳の声が、少しだけ掠れた。 「大事なものを、君自身の手で壊されるのは嫌だ」 何も言えなくなった。 大事なもの。 俺が。千歳にとって。 今まで何度も、言葉の近くまでは来ていた。 君が必要だ。 君が隣にいると楽だ。 君を雑に使わせる気はない。 でも、今の言葉はもっと直接だった。 「俺は」 声が詰まる。 「俺は、狗飼が許せない」 「うん」 「灯庭舎を壊した。女の子たちを縛った。鏡味さんを傷つけた。余白の部屋を燃やした」 「うん」 「お前を傷つけた」 千歳の腕が、少し強くなる。 「それが一番許せない」 言ってしまった。 復讐の中核。 灯庭舎も。女の子たちも。鏡味も。余白の部屋も。 全部、本当に許せない。 でも、その奥にある。 千歳を傷つけたことが、許せない。 千歳はしばらく黙っていた。 それから、背中越しに言った。 「俺も」 「何」 「君を傷つけられたことが、許せない」 胸が熱くなる。 苦しい。 「だから、二人でやるんだろ」 千歳は言った。 「君が狗飼の前に立つ時、俺は隣にいる。君が怒りで前へ出すぎるなら、俺が止める。俺が冷たくなりすぎたら、君が止める」 「……」 「復讐は、怒りではなく証明にする」 さっき、千歳がメモ帳に書いた言葉。 それを、背後から抱きしめられたまま聞く。 効かないわけがなかった。 「纏」 「何」 「ここにいる?」 反復の言葉。 手を握る時の言葉。 でも、今は後ろから抱きしめられたまま聞かれている。 俺は、ゆっくり息を吐いた。 「いる」 「一人で行かない?」 「行かない」 「約束?」 「約束する」 千歳の腕の力が、少しだけ抜けた。 でも、まだ離れない。 「……離す?」 俺が聞くと、千歳は少し黙った。 「少し待て」 「どっちだよ」 「俺にも分からない」 その言い方が、こんな時なのに千歳らしくて。 俺は笑いそうになった。 でも、笑うと泣きそうだったから、やめた。 「分かるまで待つ」 俺が言うと、千歳の額が一瞬だけ俺の背中に近づいた。 触れたかどうか、分からないくらい。 でも、温度はあった。 「君の背中は」 千歳が言った。 「思ったより、危なっかしい」 「何だそれ」 「前を向いているようで、すぐ一人で崖へ行く」 「……」 「だから、後ろにいる」 胸が、全部持っていかれた。 前に俺は千歳に言った。 この背中、今日は俺が見てる。 今度は、千歳が俺の背中を見ている。 守られる側だった男が、俺を守る。 止められる側だった男が、俺を止める。 俺たちは、いつの間にか対等になっていた。 「千歳」 「何」 「俺、たぶん今かなり」 好きだ。 そう言いそうになった。 喉まで出た。 でも、飲み込んだ。 まだだ。 この言葉は、狗飼の怒りで揺れている今じゃない。 勝った時に言う。 恥じゃないと証明した後で言う。 「かなり、何だ」 千歳が聞く。 「……止められてよかった」 少し逃げた。 でも、嘘ではない。 千歳は、それを見抜いたのかもしれない。 でも追わなかった。 「そうか」 「うん」 「なら、今夜は成功だ」 「何が」 「暴走止め役として」 「監視、ちゃんと仕事したな」 「半分は監視だからな」 「残りは?」 千歳は、背後から俺を抱いたまま、静かに言った。 「共犯だ」 俺は目を閉じた。 「強いな、共犯」 「便利な言葉だ」 「恋人未満の言い訳にもなるしな」 千歳が少しだけ息を止めた。 それから、低く言う。 「いずれ訂正すると言っただろう」 本当に、この男は。 こんな夜に。 玄関先で。 俺を後ろから抱きしめたまま。 そういうことを言う。 「覚えてる」 「なら、急ぐな」 「急いでるのは俺?」 「君の背中が」 「背中?」 「今にも言いそうだった」 見抜かれている。 最悪だ。 いや、最高に困る。 「背中まで読むな」 「君は分かりやすい」 「ホスト失格だな」 「俺の前では、そうだな」 千歳はようやく腕をほどいた。 離れた背中が、少し寒い。 でも、落ちなかった。 俺は振り返った。 千歳は薄い部屋着の上に羽織をかけているだけだった。 髪も少し乱れている。 寝ていたところを起きて、俺を追いかけてきたのだと分かった。 「寒いだろ」 俺が言うと、千歳は少しだけ眉を上げる。 「君が出て行こうとしたからだ」 「悪かった」 「本当に」 「うん」 「では、戻る」 「命令?」 「命令」 「はい」 「はいは一回」 「はい」 俺たちは部屋に戻った。 玄関に残った外の冷気が、少しずつ消えていく。 テーブルには、白と青のマグ。 メモ帳。作戦ノート。 俺はスマホを千歳へ渡した。 「螢から。黒い指輪の男が港区のバー裏にいるって」 千歳は画面を見た。 「今から行く必要はない」 「分かってる 「明日、こちらの人間を使って確認する」 「うん」 「君は寝ろ」 「眠れるかな」 「眠れなくても横になれ」 「御曹司様、厳しい」 「今夜は厳しくする」 千歳は白いマグに水を注いだ。 俺にも青いマグを渡す。 指先が少し触れた。 ほんの一瞬 でも、今日の接触の後では、その一瞬すら妙に熱い。 「今のは?」 俺が聞くと、千歳は涼しい顔で言った。 「不可抗力」 「便利に使うな」 「夫ではないので、まだ理由にできない」 水を吹きそうになった。 「お前な」 「何かな」 「それ、今言う?」 「眠気覚ましだ」 「逆効果だろ」 千歳は少しだけ笑った。 その笑顔で、俺の怒りがまた少しだけ形を変えた。 狗飼への復讐は消えない。 でも、ただ燃えるだけの怒りではなくなっていく。 新しい部屋のメモ帳に、俺は今日の続きを書いた。 ーー 深夜、狗飼の手掛かり。俺、一人で行こうとした。 千歳に止められた。 初めて、千歳が後ろから抱きしめた。理由:俺が一人で自分を壊しに行こうとしていたから。 俺のものを、勝手に壊すな。 復讐は、怒りではなく証明にする。もう一度。 ーー 千歳はその文字を見た。 そして、俺からペンを受け取り、下に書く。 ーー 纏の背中を止めた。効果:高。危険度:俺にとっても高。 守られるだけではなく、守る。 次は、隣で戦う。 ーー 俺はその文字を見て、胸が痛くなった。 「危険度、高?」 「高い」 「何が」 「離したくなくなる」 息が止まる。 本当に、やめてほしい。 今夜はもう十分だ。 「千歳」 「何かな」 「それ、かなり危険」 「だから書いた」 「正直すぎる」 「逃げない場所にするんだろう」 新しい部屋は、まだ余白の部屋ではない。 でも、少しずつ育っている。 この会話も。 このメモも。 白と青のマグも。 そして、背中に残った千歳の腕の温度も。 全部、この部屋に積もっていく。 「パーティーの日程は?」 俺が聞くと、千歳が端末を見た。 「三日後」 「早いな」 「向こうも、こちらを揺さぶった直後で油断している」 「狗飼も来る?」 「来る。瑠璃香の隣で」 「なら、そこで落とす」 千歳が目を細める。 「君が?」 「俺たちが」 千歳の表情が柔らかくなる。 「そうだな」 「まだ恋人ではない共犯者さん」 俺が言うと、千歳は少しだけ耳を赤くした。 「いずれ訂正すると言っただろう」 「覚えてる」 「なら、急かすな」 「急かしてない」 「背中が急かしている」 「背中に責任押しつけるな」 「君の背中は雄弁だ」 「最悪だ」 いつもの軽口。 でも、その奥に、もう確かな約束がある。 まだ言わない。 でも、逃げない。 三日後、俺は狗飼錆人の前に立つ。 怒りを持って。 証拠を持って。 逃げ道を焼かれた人たちの声を背負って。 そして、隣には千歳がいる。 いや、隣だけじゃない。 必要なら、後ろにもいる。 俺が一人で崖へ行かないように。 俺の背中を見ている。 俺は青いマグを持ち上げた。 千歳も白いマグを持つ。 何となく、乾杯みたいになった。 「何に?」 千歳が聞く。 「復讐に」 「物騒だな」 「じゃあ、証明に」 千歳は少しだけ笑った。 「それならいい」 白と青のマグが、軽く触れた。 小さな音がした。 その音が、新しい部屋に初めてちゃんと響いた気がした。 ここはまだ、逃げない場所にはなりきっていない。 でも、少しずつ育っている。 俺たちの言葉と、怒りと、約束で。 そして、背中を止める腕の温度で。 次はパーティー。 裏切り者たちの舞台。 狗飼錆人を引きずり出す夜。 俺の復讐は、ようやく形を持ち始めた。 そしてその復讐は、もう俺一人のものではなかった。

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