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第21話 裏切り者たちの舞踏会

パーティー当日。 俺はClub Perigeeの控室で、鏡の前に立っていた。 黒いスーツ。白いシャツ。細いタイ。派手すぎず、地味すぎず。 夜の男としての色気は残しつつ、財閥の場にいても浮きすぎないように。 そんな注文をつけてきたのは、もちろん玻璃宮千歳だ。 「ホストらしさは残せ。ただし、狗飼錆人と同じ種類の下品さには落ちるな」 と、あの御曹司は涼しい顔で言った。 失礼すぎる。でも、言いたいことは分かる。 今夜の舞台には、狗飼錆人が来る。 凍蝶院瑠璃香の隣で、愛人の顔をして。 そして、その裏で瑠璃香を裏切り、白蝶リゾート構想の利権を自分のものにしようとしている男として。 俺はそいつの前に立つ。 怒りを持って。証拠を持って。 逃げ道を焼かれた人たちの声を背負って。 鏡の中の俺は、いつもの俺より少しだけ怖い顔をしていた。 「マトイさん」 仁科螢が控室のドアにもたれながら言った。 「顔、復讐者」 「今日のテーマに合ってるだろ」 「合いすぎると御曹司に止められるよ」 「止めてもらうために隣にいてもらう」 「うわ」 螢が顔をしかめる。 「何だよ」 「堂々と惚気るようになったなって」 「惚気てない」 「はいはい。まだ恋人ではない共犯者さん」 俺は振り返った。 「それ、どこで聞いた」 「冴さん」 「あとで締める」 「やめとけ。冴さんには勝てない」 それはそう。 悔しいがそう。 螢はふっと笑ったあと、少しだけ真面目な顔になった。 「女の子たちの証言、全部まとめて千歳さん側に渡してる」 「ああ」 「でも、今日表に出すのは一部だけでしょ?」 「本人たちに危険が及ばない範囲だけだ」 「うん。それでいい」 螢は腕を組む。 「マトイさん」 「何」 「狗飼のこと、殴るなよ」 「分かってる」 「本当に?」 「本当に」 「じゃあ、言葉で殺すくらいにしといて」 「言い方」 「御曹司仕込みで上品にね」 上品な言葉で狗飼錆人を殺せる気はしない。 でも、殴るより効くやり方を、千歳は用意している。 俺たちの復讐は、怒りではなく証明にする。 そう決めた。 だから今夜は、狗飼錆人の嘘を暴く。 「行ってくる」 俺が言うと、螢が軽く手を振った。 「勝ってきて」 「おう」 「あと、千歳さんの隣から逃げんなよ」 俺は少し笑った。 「逃げない」 会場は、都心の旧迎賓館だった。 高い天井。 古いシャンデリア。 磨かれた床。 壁には白い花の装飾。 夜会という言葉が似合う場所。 白蝶会の関係者も多い。 古い家名を持つ人間たち。 財界人。文化人。 そして、凍蝶院瑠璃香。 彼女は白いドレスを着ていた。 白蝶の名にふさわしい、完璧に計算された白。 その隣に、狗飼錆人がいた。 黒いスーツ。整えた髪。人好きのする笑み。 けれど、目の奥は濁っている。 あの目だ。 逃げ道を焼く男の目。 俺の腹の奥で、怒りが静かに燃えた。 その瞬間、隣に立つ千歳が低く言った。 「呼吸」 俺は息を吸った。 吐く。 「顔に出ている」 「出てるか」 「かなり」 「悪い」 「悪くはない。だが、今はまだ早い」 千歳は濃紺のスーツだった。 派手ではない。 けれど、誰よりも目立つ。 白蝶会の白い空気の中で、千歳だけが静かな夜の色をしていた。 「千歳」 「何かな」 「両手になったら止めろ」 「カップか?」 「俺の拳」 千歳は一瞬だけ俺を見る。 そして、ほんの少し笑った。 「分かった。拳が両手になったら止める」 「片手でも止めていい」 「緊急時特例だな」 「そういうこと」 少し笑えた。 それだけで、怒りが形を持つ。 暴れる火ではなく、刃になる。 会場の奥で、斎門が俺たちを見つけた。 少し距離を置いて立っている。 白蝶会の輪には入っていない。 完全にこちら側とも言えない。 けれど、以前とは違う。 彼はもう、瑠璃香の隣に当然のようには立っていなかった。 千歳が小さく言う。 「叔父上は来たな」 「味方?」 「まだ、戻り道の途中だ」 「じゃあ、こっちが道を照らす番か」 「君は時々、妙に詩的なことを言う」 「ホストなんで」 「逃げたな」 「今は許せ」 「許す」 千歳がそう言った時、瑠璃香がこちらへ歩いてきた。 狗飼を伴って。 会場の空気が、わずかにざわつく。 御曹司と後妻。その愛人。 そして、御曹司の隣にいるホスト。 白蝶会が作りたかった醜聞の中心人物が、一か所に揃った。 瑠璃香は美しく微笑んだ。 「千歳さん。今夜もお綺麗ね」 「ありがとうございます」 千歳は涼しい顔で返す。 「最近、ずいぶんとお忙しそう。そちらの方と」 瑠璃香の視線が俺へ向く。 白く細い手袋の奥に、毒がある。 「架橋纏です」 俺は軽く会釈した。 「存じていますわ。夜の世界で大変人気の方だとか」 「おかげさまで」 「千歳さんも、ずいぶん熱心に通われているようで」 狗飼が横で薄く笑う。 「いやあ、若いっていいですね。立場ある方が、夜の男に溺れる。物語としては実に分かりやすい」 千歳の目が冷える。 俺はその前に笑った。 「分かりやすい物語しか読めない人には、そう見えるかもしれませんね」 狗飼の笑みが一瞬止まる。 「口の立つホストだ」 「仕事ですから」 「人を気持ちよくさせるのが仕事では?」 「相手によります」 瑠璃香が小さく笑う。 「まあ。怖い」 「怖がっていただけたなら光栄です」 千歳が隣で、ほんの少しだけ息を吐いた。 笑いをこらえたらしい。 こんな場で笑うな。 いや、少し救われるからいい。 瑠璃香は扇子を開いた。 「今夜は楽しんでいってくださいな。せっかくですもの。秘密の部屋を失った夜の後ですから、少しでも慰めが必要でしょう?」 空気が凍った。 余白の部屋。 燃えた場所。 俺たちの逃げない場所。 瑠璃香の言葉は、白い手袋で傷口を撫でるようだった。 千歳の指がわずかに動く。 俺は一歩前に出た。 「ご心配なく」 瑠璃香が俺を見る。 「俺たちは、持っていくものは全部持ってきたので」 「まあ。何を?」 「燃やされても残るものです」 狗飼の目が細くなる。 俺はそちらを見た。 「あなたには分からないでしょうけど」 狗飼は笑った。 「逃げ道を売る男が、ずいぶんと綺麗なことを言う」 胸の奥が、冷たく燃えた。 こいつは、知っている。 俺が何をしてきたか。 俺がどんな女たちを逃がしてきたか。 その上で、笑っている。 「逃げ道を焼く男よりはましです」 狗飼の笑みが、今度こそ消えた。 瑠璃香の扇子も止まる。 千歳が隣で、静かに言った。 「纏」 「大丈夫」 俺は小さく返した。 「まだ殴ってない」 「そこは褒めない」 「厳しい」 その短いやりとりで、狗飼の目がさらに歪む。 俺と千歳が、彼の想定よりずっと近いことが気に入らないのだろう。 いい。 今夜は、それも餌だ。 けれど、その直後だった。 狗飼が一歩だけ俺へ近づいた。 「逃げ道ねえ」 その声は、耳障りなほど柔らかかった。 「君が逃がした女たちは、本当に救われたと思っているのかな。夜の男に助けられたなんて、結局別の鎖に繋がれただけでは?」 拳が動きかけた。 本当に、ほんの一瞬。 指が折れるほど握られ、爪が掌に食い込む。 次の瞬間、千歳の指が俺の手首に触れた。 強くない。 けれど、確かに止めていた。 「片手でも止めていい、と言ったな」 低い声。 俺だけに聞こえる声。 俺は奥歯を噛んだ。 「……言った」 「今だ」 「分かってる」 千歳の指が手首から少しだけ下がり、俺の指に触れた。 握りはしない。 ただ、俺の拳をほどくために、指先で触れる。 戦う前の合図。 戻れ、ではなく。まだだ、という合図。 俺は息を吐いた。 拳をほどく。 「助かった」 小さく言うと、千歳も小さく返した。 「まだ序盤だ」 「怖い御曹司だな」 「君ほどではない」 狗飼は、その接触を見ていた。 目がわずかに歪む。 俺を怒らせるより、千歳が俺を止めたことの方が気に入らないらしい。 いい。 それも餌だ。 パーティーが進むにつれ、千歳は静かに人と会話を重ねた。 斎門とも短く話した。 俺はその隣で、必要な時だけ軽口を挟む。 白蝶会側の人間たちは、こちらを観察している。 狗飼も、瑠璃香も。 彼らは、俺たちが自分たちの火事で怯え、動揺し、守りに入ると思っていたのだろう。 でも、違う。 俺たちは今夜、攻めに来た。 会場の中央で、チャリティーオークションが始まった。 美術品や希少な工芸品が並ぶ。 その中に、一つの小さな箱があった。 古い水路の記録を収めた写本。 澪標の丘に関係する資料の一部。 千歳が事前に手配したものだ。 司会者が説明を終えると、狗飼が笑いながら手を挙げた。 「では、私が」 ざわめき。 瑠璃香が満足そうに微笑む。 澪標の丘に関わるものを、白蝶会側が買い取る。 象徴的な嫌がらせ。 千歳が動こうとした。 その前に、斎門が手を挙げた。 「その倍で」 会場が揺れた。 狗飼が斎門を見る。 「斎門様?」 斎門は涼しい顔で言う。 「地域再生に必要な資料だ。白蝶会ではなく、玻璃宮の管理下に置く」 瑠璃香の微笑みが、ほんの少し崩れた。 千歳は何も言わなかった。 ただ、少しだけ目を伏せた。 戻り道は、無駄ではなかった。 狗飼は笑みを戻し、さらに金額を上げた。 斎門も上げる。 周囲がざわめく。 その時、俺は一歩前へ出た。 「俺も乗ります」 会場の空気が止まった。 「君が?」 狗飼が笑う。 「ホストの財布で?」 「俺個人じゃ無理ですね」 俺は笑った。 「でも、寄付者を募ることはできます」 俺が合図を送ると、美緒里が会場の一角から手を挙げた。 続いて、沙月。 さらに数名の女性たち。 彼女たちは今夜、表立って狗飼を告発するためではなく、まずこの一手のために来ていた。 「澪標の丘と灯庭舎の保全基金として、共同で出します」 美緒里が静かに言った。 「私も」 沙月が続く。 「私も」 その声が、会場に広がる。 狗飼の顔が変わった。 知っている顔があったのだろう。 かつて自分が囲いかけた女。 逃げ道を焼こうとした女。 金で縛ろうとした女。 彼女たちが、今は自分の前に立っている。 俺の背筋が震えた。 怒りではない。 誇りに近いものだった。 千歳が、俺の横で小さく言った。 「君が作った逃げ道が、戻ってきた」 「……言うなよ」 「なぜ」 「泣きそうになる」 千歳は何も言わなかった。 ただ、ほんの少しだけ俺の袖に触れた。 理由は聞かなかった。 今は分かる。 確認。 ここにいる。 俺も、ここにいる。 結局、写本は斎門と保全基金の共同名義で落札された。 会場の空気は明らかに変わった。 白蝶会側の優位が崩れた。 瑠璃香の表情から、余裕が消え始めている。 そして、狗飼錆人は笑っていなかった。 ここからが本番だった。 千歳が、会場中央へ進んだ。 俺も隣に並ぶ。 周囲の視線が集まる。 白蝶会関係者。財界人。美緒里たち。斎門。 瑠璃香。狗飼。 千歳は静かに言った。 「皆様。今夜、この場で一つ訂正しておきたいことがあります」 会場が静まる。 「最近、俺と架橋纏さんについて、いくつかの噂が出ています」 俺の心臓が跳ねた。ここで来るのか。 千歳は続ける。 「男に溺れた。夜職の男に狂った。秘密の部屋で密会していた。忠臣を巻き込んだ」 瑠璃香の目が細くなる。 狗飼は警戒している。 千歳は、まったく怯まなかった。 「編集された写真や映像も、いずれ出るでしょう」 ざわめきが起きる。 その直前、千歳の指が、俺の手の甲に触れた。 本当に、わずかに。 誰にも見えないくらいの距離で。 俺は横目で千歳を見る。 千歳は前だけを見ていた。 「確かめていいか」 聞こえないほど小さな声。 俺だけに向けられた声。 「何を」 「君が、ここにいることを」 胸が熱くなった。 俺は答える代わりに、千歳の指を握った。 見せつけるためじゃない。 誰にも気づかれないように。 けれど、確かに。 「いる」 千歳の指が、一度だけ握り返してきた。 行くぞ。 そう言われた気がした。 俺も握り返す。 行こう。 そう返した。 千歳は、手を離さないまま言った。 「先に言っておきます。俺は、架橋纏さんと親しくしています」 息が止まった。 「彼と二人で会いました。彼の言葉に救われたこともある。彼が俺を止めてくれたこともある」 会場が、さらにざわめく。 俺は千歳を見た。 彼は前を向いている。 逃げない。まっすぐ。 手だけが、俺を確かめていた。 「しかし、それは恥ではありません」 胸が熱くなった。 昨日、俺たちが決めた言葉。 恥にしない。 千歳はそれを、公の場で言った。 「彼との関係を、誰かの都合のいい醜聞として扱わせるつもりはありません」 瑠璃香の顔が強張る。 狗飼が口を開こうとした。 その前に、俺は一歩前に出た。 千歳の手が離れる。 でも、完全には遠くならなかった。 指先が最後まで俺の指に残って、そこから送り出された気がした。 行け。 俺は息を吸った。 「俺からも言います」 自分の声が、思ったより静かだった。 「俺はホストです。金も取ります。嘘も使います。綺麗な男じゃありません」 千歳が、少しだけ俺を見る。 俺は続けた。 「でも、俺はこの人に近づいたことを、恥だと思っていません」 会場の空気が止まる。 「俺は、玻璃宮千歳に本気です」 言った。 好きだ、ではない。 でも、ほとんど同じ場所にある言葉。 千歳の横顔が、わずかに揺れた。 「この人の隣に立つことを、醜聞にされる気はありません」 狗飼が笑った。 「美しいですねえ。ホストの純愛ごっこですか」 「ごっこに見えるのは、あんたが本物を知らないからだろ」 俺は狗飼を見た。 「逃げ道を焼く男に、誰かを守るための嘘は分からない」 狗飼の顔が冷える。 「何の話かな」 「灯庭舎」 その名前を出した瞬間、会場の一部がざわついた。 千歳が端末を操作する。 会場のスクリーンに資料が映し出された。 灯庭舎の過去の出資詐欺。 偽名、犬飼。 黒い石の指輪。 関連投資会社。 白蝶リゾート構想の土地取得計画。 狗飼錆人の関連法人。完全な裁判資料ではない。 だが、この場の空気を変えるには十分すぎる。 「これは」 狗飼が声を低くする。 「名誉毀損ですよ、玻璃宮様」 千歳は涼しい顔で答えた。 「では、正式な場で争いましょう」 「証拠としては弱い」 「これだけなら」 狗飼の目が動く。 千歳は続けた。 「あなたが凍蝶院瑠璃香様を裏切り、白蝶リゾート構想の利権を別会社へ流そうとしていた証拠もあります」 瑠璃香の表情が凍った。 「錆人?」 狗飼が一瞬、瑠璃香を見る。 その一瞬で十分だった。 信頼のある愛人なら、そこで笑って否定できる。 だが狗飼は、ほんの一瞬だけ計算した。 どう切り抜けるかを。 瑠璃香は、それを見逃さなかった。 千歳はさらに資料を映す。 関連会社。送金ルート。 白蝶会を通さない資金移動。 瑠璃香名義の資産を担保にした裏契約。 会場のざわめきが大きくなる。 「違う」 狗飼が言った。 「これは、凍蝶院様のために」 「わたくしのため?」 瑠璃香の声は、白く冷たかった。 「わたくしの名義を使い、わたくしの資産を裏で動かすことが?」 狗飼の笑顔が崩れる。 千歳が静かに言う。 「狗飼錆人は、瑠璃香様の愛人ではありません」 会場が静まる。 「白蝶会も、凍蝶院の名も、玻璃宮の土地も、利用できる餌として見ていただけです」 俺は狗飼を見た。 「犬は、最初から飼われてなかったんだろ。餌のある場所にいただけで」 狗飼の目が、憎悪に変わった。 「ホスト風情が」 「そのホスト風情に、逃げ道を焼かれた女たちが逃げてきた」 俺は声を低くした。 「灯庭舎も、女の子たちも、鏡味さんも、余白の部屋も。あんたが焼いたもの、全部戻ってきてるぞ」 狗飼が一歩踏み出す。 千歳が俺の隣に並んだ。 斎門も、少し離れた場所で立った。 美緒里たちも。 会場の空気が、狗飼を孤立させていく。 狗飼は瑠璃香を見た。 「瑠璃香様、これは罠です」 瑠璃香は扇子を閉じた。 「ええ。罠ね」 彼女の声は静かだった。 「でも、誰の罠にかかったのかしら。わたくし? それとも、あなた?」 狗飼の顔が歪む。 その瞬間、俺は思った。 こいつは終わった。 少なくとも、瑠璃香の隣にはもう立てない。 白蝶会の中でも、信用は崩れた。 逃げ道を焼いてきた男が、自分の逃げ道を失い始めている。 千歳が低く言った。 「狗飼錆人。あなたに関する資料は、すでに関係各所へ提出済みです」 「玻璃宮」 「逃げるなら、今のうちです」 千歳の目が冷たく光る。 「もっとも、逃げ道が残っていればの話ですが」 会場に、沈黙が落ちた。 狗飼は何も言わなかった。 ただ、俺と千歳を睨みつけた。 その目には、敗北だけではない。 まだ何かを残している男の色があった。 嫌な予感がした。 狗飼は静かに笑った。 「なるほど。美しい共犯関係だ」 声が低い。 「ですが、玻璃宮様。あなた方が恥じないと言っても、世間がどう見るかは別ですよ」 千歳の表情は変わらない。 狗飼は続ける。 「編集ではなく、もっと分かりやすいものを出しましょう。あなたがそのホストにどれほど溺れているか。世間の皆様に判断していただく」 瑠璃香が狗飼を見る。 「錆人、あなた」 狗飼はもう彼女を見ていなかった。 俺たちだけを見ていた。 「燃え残りは、よく燃える」 そう言って、狗飼は会場を出ていった。 誰も止めなかった。 いや、止められなかった。 狗飼は失脚した。 瑠璃香から切り離された。 白蝶会内の信用も落ちた。 だが、完全に終わってはいない。 次の爆弾を残していった。 千歳の横顔を見る。 彼は静かだった。 怖いほど静かだった。 「千歳」 「分かっている」 「次、来るぞ」 「来るな」 「映像か?」 「おそらく」 「どうする」 千歳は、ゆっくり俺を見た。 「恥にしないと言っただろう」 「うん」 「なら、次はそれを証明する」 会場のざわめきはまだ収まっていない。 瑠璃香は狗飼に裏切られた怒りで白い顔をしている。 斎門は、こちらを見ている。 美緒里たちは、小さく頷いてくれた。 俺は千歳の隣に立っていた。 まだ恋人ではない。 でも、公の場で言った。 俺は、玻璃宮千歳に本気です。 その言葉は、もう戻せない。 戻す気もなかった。 ふと、千歳の指が俺の手に触れた。 今度は隠しきれない距離だった。 でも、見せつけるためじゃない。 戦いが終わった後に、まだ立っているかを確かめる接触だった。 「ここにいる?」 千歳が聞いた。 「いる」 俺は答えた。 「千歳は?」 「いる」 「次も?」 「隣にいる」 その言葉を聞いて、俺はようやく少し息ができた。 パーティー後、俺たちは新しい部屋へ戻った。 白いマグと青いマグ。 蓮太の絵。 煙の匂いが少し残るメモ帳。 千歳はしばらく黙っていた。 俺も黙っていた。 やがて、千歳が言った。 「今日、君は」 「うん」 「本気だと言った」 心臓が鳴る。 「言った」 「公の場で」 「言った」 「なぜ」 俺は、少し考えた。 「必要だったから」 千歳の目が少しだけ沈む。 俺はすぐに続けた。 「作戦としても。でも、それだけじゃない」 千歳は俺を見る。 「恥じゃないって、本気で言いたかった」 「……」 「狗飼にも、瑠璃香にも、白蝶会にも。俺自身にも」 胸の奥が熱くなる。 「俺は、お前の隣に立つことを恥にしない」 千歳は、しばらく何も言わなかった。 そして、静かに言った。 「なら、俺も」 「何」 「君に救われたことを、恥にしない」 それは、告白みたいだった。 でも、まだ告白ではない。 俺たちは、まだその一線を取っておいている。 言うなら、ちゃんと選んで言うために。 千歳はメモ帳を開いた。 俺が書く前に、今日は千歳が先に書いた。 ーー 狗飼錆人、瑠璃香を裏切る証拠により失脚。 纏、公の場で「本気」と言う。 恥にしない。次は証明。 ーー 俺はその下に書いた。 ーー 裏切り者たちの舞踏会。 手を握った。理由:見せつけではなく、戦う合図。 行くぞ。行こう。ここにいる。 ホストの復讐、一段階目。 逃げ道を焼く男の逃げ道を、一つ焼いた。 でも、まだ終わってない。 ーー 千歳がそれを見て言った。 「字が荒い」 「怒ってるからな」 「読める」 「本気の字?」 「そうだな」 俺はペンを置いた。 白いマグと青いマグが、テーブルの上に並んでいる。 千歳が、ふと俺を見た。 「纏」 「何」 「今日、隣にいてよかった」 胸が痛いほど熱くなる。 「俺も」 「次は、もっとひどいものが来る」 「だろうな」 「怖いか」 「怖い」 正直に言った。 「でも、逃げない」 千歳は少しだけ笑った。 「俺もだ」 その夜、狗飼錆人は逃げた。 瑠璃香の隣から。 白蝶会の輪から。 だが、最後に残した爆弾は、まだ爆発していない。 次はスキャンダル。 編集された映像。燃え残りを燃やそうとする攻撃。 でも、俺たちはもう決めている。 恥にしない。 奪われた意味は、取り返す。 ホストの復讐は、まだ終わらない。 そして俺たちの関係も、もう偽装だけでは説明できなくなっていた。

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