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番外編3 過去から届いた、よろしくお願いします
日常は、案外すぐに戻ってきた。
いや、戻ってきたというより、前とは違う形で始まった。
千歳は会社へ行く。
玻璃宮グループの会議に出て、澪標の丘の再設計案を確認して、斎門さんと静かに火花を散らし、玄理さんから届く「良かれと思って」の提案を淡々と差し戻す。
俺はClub Perigeeへ行く。
ホストとして席につき、客の話を聞き、螢にからかわれ、店長に小言を言われ、閉店後には灯庭舎の資料を開く。
夫夫になっても、仕事はある。
会議もある。指名もある。請求書もある。
ただ、ひとつだけ前と違う。
帰る場所を、二人で育てている。
白いマグと青いマグ。
蓮太の絵。
鏡味さんのカード。
煙の匂いがほとんど消えたメモ帳。
千歳が淹れる、少し薄いインスタントコーヒー。
俺が雑に置いたネクタイ。
それを見て、千歳が眉を寄せる顔。
そういうものが、新しい余白の部屋に少しずつ増えていた。
****
朝。
千歳は鏡の前でネクタイを選んでいた。
濃紺。灰色。深い緑。
三本を並べて、真剣な顔をしている。
「今日は緑」
俺がベッドの端から言うと、千歳が鏡越しにこちらを見た。
「なぜ」
「似合うから」
「理由が雑だ」
「でも本気」
千歳は少しだけ黙った。
それから、深い緑のネクタイを取った。
「採用する」
「素直」
「似合うと言われたからな」
朝から心臓に悪い。
俺は立ち上がり、千歳の背後に回った。
「結ぶ?」
「自分でできる」
「知ってる」
「ではなぜ聞く」
「やりたいから」
千歳は鏡越しに俺を見た。
少しだけ耳が赤い。
「理由は?」
「夫のネクタイを結ぶ朝、やってみたかった」
千歳は、深く息を吐いた。
「……許可する」
俺は笑いながら、千歳のネクタイを取った。
近い。
朝の匂い。
洗いたてのシャツ。
千歳の髪。
結び目を整える指先が、少しだけ緊張する。
「下手だな」
「うるさい」
「でも、悪くない」
「褒めてる?」
「半分」
「残りは?」
「慣れろ」
「夫婦っぽい」
「夫夫だ」
「訂正が早い」
千歳は、ほんの少しだけ笑った。
俺も店用の服を整えた。
黒いシャツ。
細いアクセサリー。
少しだけ華やかなジャケット。
千歳がこちらを見て、眉を寄せる。
「今日は帰りが遅いのか」
「少し。指名が二件」
「無理はするな」
「そっちこそ」
「俺は会社だ」
「会社の方が危ない時あるだろ」
「否定できない」
千歳は白いマグを持ち上げた。
俺は青いマグを持つ。
軽く触れ合わせる。
小さな音。
それが、朝の合図みたいになっていた。
「今日は午後、灯庭舎へ寄る」
千歳が言った。
「俺も?」
「いや、院長先生から俺だけ呼ばれた」
「千歳だけ?」
「そうだ」
「何だろ」
「分からない。ただ、声の感じは悪い話ではなさそうだった」
「なら安心か」
「君は?」
「俺は店の前に少しだけ外回り。夜はClub Perigee」
「帰る時は連絡」
「はい」
「はいは一回」
「はい」
軽口を叩いて、出かける。
それだけなのに、昔よりずっと満ちていた。
****
午前中、千歳は会社で会議をこなした。
澪標の丘の保全計画。
灯庭舎の改修案。
白蝶リゾート構想の再設計。
斎門さんは、戻り道の先でやる気を出しすぎていた。
「この水路沿いの動線は、子供たちの通学路と重なる」
斎門さんが図面を示す。
「安全柵を設けるべきだ」
「柵で囲いすぎると、景観と余白が死にます」
千歳が即答する。
「ではどうする」
「低い植栽と足元照明で誘導する。触れる場所は残し、落ちる危険だけを減らす」
「なるほど。可愛げはないが、案は良い」
「褒め言葉として受け取ります」
「半分は嫌味だ」
「では半分だけ受け取ります」
会議室に微妙な沈黙が落ちる。
けれど、以前のような敵意はなかった。
玄理さんは画面越しに参加していた。
そして、なぜか楽しそうだった。
『親子だな』
「父さん」
千歳の声が冷える。
「叔父上と俺をまとめないでください」
『私も含めている』
「なお悪いです」
会議室に小さな笑いが起きる。
千歳は少しだけ目を伏せた。
仕事は忙しい。
責任も重い。
それでも、充実していた。
戦うための仕事ではなく、守った場所を未来へ繋ぐための仕事だった。
****
その午後、千歳は灯庭舎へ向かった。
院長先生は、古い応接室で待っていた。
食堂の奥にある、小さな部屋。
かつて纏が叱られたあと、ふてくされて座っていた場所だと聞いたことがある。
千歳が入ると、院長先生は少し緊張したように笑った。
「お忙しいところ、ごめんなさいね」
「いえ。纏のことでしょうか」
「ええ」
院長先生は、古い封筒を両手で持っていた。
少し黄ばんだ紙。
角が丸くなっている。
でも、大切にしまわれていたものだと分かる。
「これは、纏くんが小学生の頃に書いた作文です」
千歳の指が、わずかに動いた。
「作文」
「将来の夢、という題でした」
院長先生は、懐かしそうに目を細めた。
「纏くんは昔から、あまり自分のことを書きたがらない子でした。明るくて、人の輪に入るのは上手なのに、自分の寂しさは隠す子で」
千歳は黙って聞いた。
院長先生は封筒から、一枚の紙を取り出した。
子供の字。
今の纏の字より、少しだけ丁寧だった。
その事実だけで、千歳は少し笑いそうになった。
しかし、最初の一文で笑えなくなった。
ーー
ぼくのしょうらいのゆめ
ぼくは、大きくなったら、たくさんの人がしあわせになれるような人になりたいです。
ーー
千歳の視線が止まる。
今の纏が、ホストとして客の話を聞く姿が浮かんだ。
誰かの寂しさを、冗談の裏で拾う男。
自分の寂しさは隠すくせに、他人の寂しさにはすぐ気づく男。
ーー
かなしい人がいたら、にげてもいいよと言える人になりたいです。
ーー
ひらがなの「にげてもいいよ」で、千歳の指が止まった。
狗飼に縛られかけた女性たち。
美緒里。
沙月。
灯庭舎。
そして、余白の部屋で「逃げ道」を何度も作ろうとした纏。
子供の頃から、纏は纏だった。
ーー
ひとりでこまっている人がいたら、こっちに道があるよと教えたいです。
ーー
千歳は息を呑んだ。
自分もまた、その「ひとりでこまっている人」だったのだと、今なら分かる。
玻璃宮の中で迷子になっていた。
完璧な顔で立ち尽くしていた。
そこへ纏が来た。
軽い顔で。
最低な始まり方で。
それでも、こっちに道がある、と何度も言った。
ーー
それから、ぼくといっしょに同じ道を歩いてくれる人と、けっこんしたいです。
ーー
千歳の喉が詰まった。
同じ道。
結婚。
子供の纏は、まだ玻璃宮千歳を知らない。
ホストになる未来も、余白の部屋が燃える夜も、白い花の下でキスをする日も知らない。
それでも、その願いは今の二人に届いてしまった。
ーー
その人は、ぼくがまちがえた時に、だめだと言ってくれる人がいいです。
ーー
千歳は、ここで完全に動けなくなった。
纏が一人で狗飼の手掛かりを追おうとした夜。
自分が背後から抱きしめて止めた。
「俺のものを、勝手に壊すな」
と言った。
あれは、この子供の纏が望んでいた人の役割だったのかもしれない。
そう思うと、胸が痛くなった。
ーー
ぼくも、その人がかなしい時に、だいじょうぶと言える人になりたいです。
ーー
余白の部屋が燃えた夜。
纏は、自分の背中を後ろから支えた。
「燃えたのは部屋であって、余白ではない」と、あとでメモ帳に書いた。
医療施設の廊下では、怒りで壊れそうな自分を正面から抱きしめた。
大丈夫、と言うだけではなく、本当に支えた。
ーー
そういう人と、毎日ただいまとおかえりを言いたいです。
ーー
千歳は、そこで息を止めた。
ただいま。
おかえり。
まだ新しい部屋では言い慣れていない言葉。
これから二人で育てようとしていた言葉。
それを、子供の纏が書いていた。
千歳は作文から目を離せなかった。
院長先生が静かに言う。
「纏くんは、たぶん忘れていると思います」
「……でしょうね」
千歳の声は、少しかすれていた。
「でも私は、ずっと覚えていました」
院長先生は千歳を見た。
「架橋纏は、昔から誰かの逃げ道になりたがる子でした。でも本当は、自分も誰かと一緒に歩きたかったんです」
千歳は、紙を握りしめないように、慎重に指を添えた。
「玻璃宮さん」
「はい」
「改めて、纏くんをお願いします」
院長先生は、深く頭を下げた。
「明るく見えて、無理をします。人のためなら自分を雑に使います。寂しい時ほど笑います。けれど、どうか」
声が少し揺れた。
「どうか、あの子が帰る場所でいてあげてください」
千歳は、長い間何も言えなかった。
やがて、ゆっくり頭を下げた。
「はい」
短い返事。
けれど、軽くはなかった。
「約束します」
灯庭舎を出たあと、千歳はすぐ車に乗れなかった。
庭の隅に立ち、作文をもう一度開いた。
ーー
いっしょに同じ道を歩いてくれる人と、けっこんしたいです。
ーー
千歳は、その一文に指先で触れた。
「……纏」
誰もいない庭で、千歳は小さく呟いた。
心の中だけではなく、声に出した。
「君は、昔から俺を困らせるようなことを書いていたんだな」
風が吹いた。
灯庭舎の庭の木が揺れる。
千歳は作文を胸に抱くようにして、目を閉じた。
「お願いします、か」
その言葉が、胸の奥に深く落ちる。
頼まれた。
院長先生に。
子供の纏に。
未来をまだ知らなかった小さな纏に。
「俺が」
千歳は声に出した。
「君の帰る場所になる」
それは、誓いに近かった。
****
同じ頃。
俺も妙な呼び出しを受けていた。
Club Perigeeの開店準備中。
螢が妙な顔でスマホを持ってきた。
「マトイさん」
「何」
「玻璃宮玄理さんから連絡」
「何で俺に直接来る」
「夫の父だからじゃない?」
「言い方」
スマホを見ると、短いメッセージがあった。
『少し時間をもらえるかな。千歳には内緒で』
嫌な予感しかしない。
でも、無視できる相手でもない。
俺は店長に少しだけ抜けると告げて、指定されたホテルのラウンジへ向かった。
玄理さんは、当然のように窓際の席にいた。
高そうなスーツ。
余裕のある笑み。
コーヒー。
全部が似合いすぎていて腹が立つ。
「来てくれてありがとう、架橋くん」
「千歳には内緒って、何ですか」
「警戒が早いな」
「あなた相手なので」
「正しい判断だ」
玄理さんは笑った。
やっぱり面倒くさい。
でも、今日の笑みはいつもより少し静かだった。
「今日は、君に渡したいものがある」
「俺に?」
「ああ」
玄理さんは、革のケースから一通の封筒を取り出した。
古い封筒。
けれど、とても綺麗に保存されている。
表には細い字でこう書かれていた。
ーー
千歳と結婚する人へ
ーー
俺は、その文字を見た瞬間、息を止めた。
「これは」
「水緒が書いたものだ」
千歳の母親。
玻璃宮水緒さん。
澪標の丘を余白と呼んだ人。
千歳がずっと守ろうとしていた人。
「亡くなる少し前にね」
玄理さんの声が、少しだけ柔らかくなった。
「本人は冗談のように書いていた。千歳は気難しいから、将来相手が困るだろうと」
「……」
「私は、渡す日が来るとは思っていなかった」
玄理さんは封筒を俺へ差し出した。
「君に渡すべきだと思った」
俺は、両手で受け取った。
封を開ける指が、少し震えた。
中には一枚の便箋が入っていた。
綺麗な字だった。
千歳の字と少し似ている。
でも、千歳より柔らかい。
ーー
千歳と結婚する方へ。
こんな手紙を残すなんて、少し気が早いでしょうか。
でも、あの子はきっと、自分の大切なことほど言葉にするのが遅い子になる気がします。
ーー
俺は、その一文で千歳を思い出した。
初めて「触れてほしい」と言った医療施設の廊下。
「好き」は俺が先に言い、「愛している」は二人の時まで取っておいた千歳。
本当に、大切なことほど遅い人だ。
ーー
千歳は、少し気難しい子です。
ーー
「知ってます」
思わず声に出た。
玄理さんが少し笑った。
俺は続きを読んだ。
ーー
すぐに考えすぎます。
ーー
余白の部屋の作戦ノート。
触れる理由。
許可。
危険度。
効率よく見えて、全部を抱え込みすぎる千歳。
ーー
本当は寂しいのに、平気な顔をします。
ーー
余白の部屋が燃えた夜の背中を思い出した。
炎を見つめながら、「折れていない」と言った千歳。
あの背中は、今にも折れそうだった。
でも、平気な顔をしていた。
ーー
本当は優しいのに、効率や理屈のふりをします。
ーー
叔父の斎門さんに戻り道を作った千歳。
鏡味さんを傷つけられて、怒りで壊れかけても、最後には救う道を選んだ千歳。
効率だ、利用価値だと言いながら、本当は切り捨てられない人。
ーー
甘えたい時ほど、きっと難しい顔をするでしょう。
ーー
南国の夜。
「戻ったら、いつも通りだぞ」と言いながら、手を離さなかった千歳。
キスのあとで、額を俺の胸に預けた千歳。
甘え方が下手すぎて、難しい顔をする夫。
胸が苦しくなった。
ーー
でも、心の奥はとても優しい子です。
ーー
知っている。
誰より知っている。
ーー
誰かの痛みに気づける子です。
ーー
会見前、俺の拳が固まっただけで、そっと指を触れた。
灯庭舎で泣きそうになった俺の手を握った。
気づかないふりなんて、できない人だ。
ーー
自分が傷ついても、大切なものを守ろうとする子です。
ーー
鏡味さん。
澪標の丘。
灯庭舎。
余白の部屋。
そして、俺。
千歳はいつも、守ろうとしていた。
ーー
親ばかで申し訳ありません。
ーー
ここで、少し笑ってしまった。
「親ばかですね」
俺は声に出した。
玄理さんは、静かに頷いた。
「そうだな」
ーー
けれど、どうか覚えておいてください。
あの子は、愛されることが下手なだけで、愛せない子ではありません。
ーー
俺は、そこで何も見えなくなった。
視界がぼやける。
千歳が初めて「俺も、ずっと我慢していた」と言った夜を思い出した。
袖を掴んで、離れるなと言った指。
「君を愛しているから」と、震えながら許可した声。
愛せない子じゃない。
そんなこと、俺はもう知っている。
でも。
母親の字でそう書かれていると、胸の奥が壊れそうだった。
ーー
もし、あなたが千歳の隣に立ってくださる方なら。
どうか、ふつつかな息子ですが、末永くよろしくお願いします。
ーー
最後の行で、俺は完全に黙った。
玄理さんも黙っていた。
いつもの余裕ある笑みはない。
「水緒は、千歳のことをよく分かっていた」
「はい」
「私より、ずっと」
その声には後悔があった。
でも、それだけではなかった。
水緒さんへの愛情。
千歳への不器用な祈り。
「架橋くん」
「はい」
「私は、千歳を一人にした」
「……」
「その過去は消えない。私が謝っても、千歳がすぐに許せるものでもない」
「はい」
「だから、君に頼むのはずるいと分かっている」
玄理さんは、まっすぐ俺を見た。
「それでも、頼ませてほしい」
父親の顔だった。
「千歳を、よろしくお願いします」
俺は、手紙を握りしめないように気をつけた。
水緒さんの字が、胸に刺さっている。
ーー
愛されることが下手なだけで、愛せない子ではありません。
ーー
「はい」
声は震えた。
でも、はっきり言った。
「俺が、千歳を幸せにします」
玄理さんの目が、ほんの少し細くなった。
「頼もしいな」
「ただ」
俺は顔を上げた。
「俺一人で幸せにするんじゃなくて、千歳と二人で幸せになります」
玄理さんは少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「いい答えだ」
****
ホテルを出たあと、俺はすぐ店に戻れなかった。
人通りの少ない歩道に立ち、もう一度手紙を開く。
千歳と結婚する人へ。
それは俺宛てだった。
水緒さんは俺を知らない。
俺の名前も、顔も、ホストになったことも、灯庭舎のことも知らない。
でも、手紙は確かに俺に届いた。
千歳の隣に立つ人間として。
「……水緒さん」
俺は、声に出した。
心の中だけではなく。
ちゃんと声に出した。
「こちらこそ」
夕方の街の中で、俺は手紙を胸に当てた。
「ふつつかな俺ですが、千歳をよろしくお願いします」
言ってから、少し笑った。
逆だ。でも、たぶんそれでいい。
千歳を頼まれた。
そして、俺も千歳に頼りたい。
二人でよろしくお願いします。
それが、俺たちらしい。
****
その夜。
俺は予定より早くClub Perigeeを上がった。
店長には「新婚だからな」と肩を叩かれた。
螢には「今日は顔が夫」と言われた。
顔が夫とは何だ。
分からない。
でも、多分、出ていた。
千歳も、いつもより早く帰ってきた。
玄関で顔を合わせた瞬間、分かった。
様子が違う。
千歳も、俺を見て少し目を細めた。
「君も、何かあったな」
「お前もな」
「顔に出ている」
「お互い様だろ」
「そうだな」
俺たちは、少し黙った。
新しい余白の部屋。
白いマグと青いマグ。
蓮太の絵。
鏡味さんのカード。
メモ帳。
いつもの部屋なのに、今日は少し違って見えた。
過去から二通の「よろしくお願いします」が届いたせいで、部屋の空気が深くなったみたいだった。
千歳は白いマグを手に取った。
俺は青いマグを手に取った。
でも、どちらも飲まなかった。
千歳の手元が、ほんの少し落ち着かない。
いつもならマグの取っ手を一度だけ触るのに、今日は二度触れた。
俺はそれを見てしまう。
千歳も、俺が手紙を入れた内ポケットを一瞬見た。
互いに気づいている。
でも、すぐには聞かない。
「今日」
俺が言いかけると、千歳も同時に口を開いた。
「今日」
二人で黙る。
変な間。
少しだけ笑ってしまった。
「夫夫そろって涙腺弱い日?」
俺が言うと、千歳が小さく息を吐いた。
「昨日まで戦いすぎた」
「それはそう」
「それに、今日のこれは」
「うん」
「少し、重い」
「かなり」
でも、嫌な重さではなかった。
抱えたい重さだった。
千歳が白いマグを置く。
「話す?」
俺が聞くと、千歳は少し目を伏せた。
「話したい」
「うん」
「でも、すぐに全部話すと、崩れそうだ」
「俺も」
千歳は俺を見る。
「今夜は」
「うん」
「特別にしたい」
心臓が、静かに鳴った。
「奇遇だな」
「君も?」
「俺も」
俺たちは、白いマグと青いマグをテーブルに置いた。
二つのマグが並ぶ。
その間に、まだ開かれていないメモ帳。
でも今日は、すぐには書かない。
記録するより先に、感じたいものがあった。
「触れる」
千歳が言った。
「理由は?」
俺は聞いた。
いつものように。
でも、今日は声が少し低くなった。
千歳は、まっすぐ俺を見る。
「今夜、君を確かめたい」
息が止まった。
「千歳」
「言葉だけでは足りない日がある」
千歳の声は静かだった。
けれど、甘く震えていた。
「今日は、そういう日だ」
俺は、ゆっくり頷いた。
「俺も」
「理由は?」
「俺も、千歳を確かめたい」
千歳の目が揺れる。
「許可する」
俺は千歳の手を取った。
朝のマグ越しの手とは違う。
灯庭舎で俺を戻してくれた手とも違う。
式で未来へ行く合図として握った手とも違う。
今日は、もっと静かで、もっと深い。
過去から託されたものを、二人で受け取るための手だった。
「ここにいる?」
千歳が聞く。
「いる」
「俺もいる」
「知ってる」
「今夜は」
「うん」
千歳の指が、俺の手を少し強く握った。
「心の中だけにしまわない」
その言葉で、胸が締めつけられた。
たぶん千歳も、今日どこかで声に出したのだ。
俺も出した。
ありがとうございます。
よろしくお願いします。
その言葉を、心の中だけにしまわなかった。
「俺も」
俺は言った。
「しまわない」
千歳の手を引き寄せる。
唇が触れる前に、千歳が小さく息を吸った。
「キスする」
俺が言うと、千歳は目を伏せた。
「理由は?」
「今夜は、特別だから」
「それだけか」
「それと」
俺は千歳の頬に触れた。
「愛してるから」
千歳の睫毛が震えた。
「許可する」
唇を重ねた。
何度もしたキスのはずなのに、今日は違った。
南国の甘さとも違う。
式の祝福とも違う。
今日は、過去から届いた願いを、二人の体温で受け止めるためのキスだった。
千歳の指が、俺のシャツを掴む。
俺はその背に手を添える。
深くしすぎないようにと思った。
でも、無理だった。
千歳が離れなかった。
俺も離れたくなかった。
唇が一度離れても、すぐにまた近づく。
息が重なる。
名前を呼びかけて、飲み込む。
千歳の額が俺の肩に触れる。
「……纏」
「何」
「今日は、いつもより」
「うん」
「甘くしていい」
心臓が壊れた。
「千歳」
「今夜は特別だと言った」
「言った」
「だから」
千歳は、俺の背に腕を回した。
正面から。
ゆっくり。
でも、逃げずに。
「抱きしめてほしい」
俺は、返事の代わりに千歳を抱きしめた。
強く。
けれど、壊さないように。
千歳も俺を抱き返す。
胸が重なる。
呼吸が近い。
心臓の音が、どちらのものか分からなくなる。
「俺」
声が少し震えた。
「今日、玄理さんに呼ばれた」
千歳の腕が少し止まる。
「父さんに?」
「うん」
「何を」
「水緒さんの手紙をもらった」
千歳が息を止めた。
「母さんの?」
「千歳と結婚する人へ、って」
千歳の体が、腕の中で硬くなった。
俺は、すぐに続けた。
「千歳は気難しいけど、本当は心が優しくて、いい子だって」
「……」
「親ばかで申し訳、って」
千歳の呼吸が震えた。
「ふつつかな息子だけど、末永くよろしくお願いしますって」
千歳は、しばらく何も言わなかった。
それから、俺の肩に額を押しつけた。
「……母さんは」
「うん」
「余計なことを」
声が震えていた。
俺は千歳の背を撫でた。
「余計じゃない」
「……」
「俺、よろしくお願いしますって言われて、嬉しかった」
千歳の腕に力がこもる。
「俺も」
「うん」
「今日、院長先生から」
「作文?」
千歳が顔を上げる。
驚いたように俺を見る。
「何で」
「何となく」
本当は、勘だった。
千歳の目があまりに優しかったから。
俺の過去を、何か受け取ってきた顔をしていたから。
千歳は小さく息を吐いた。
「君が子供の頃に書いた作文をもらった」
「……何書いてた?」
聞くのが怖い。
千歳は、少しだけ微笑んだ。
「たくさんの人が幸せになれるような人になりたい、と」
「うわ」
「悲しい人に、逃げてもいいよと言える人になりたい、と」
「うわあ」
「それから」
千歳は俺を見る。
目が濡れている。
「一緒に同じ道を歩いてくれる人と、結婚したいと」
俺は、完全に固まった。
「……俺、そんなこと書いてた?」
「書いていた」
「恥ずかしい」
「恥ではない」
千歳の声は、柔らかかった。
「君は昔から、君だった」
それは、反則だった。
本当に。
俺は千歳を抱きしめ直した。
「院長先生に」
千歳が言う。
「君をお願いします、と言われた」
俺の胸が詰まる。
「千歳」
「俺は、約束した」
「何を」
「君の帰る場所になると」
駄目だった。
もう、無理だった。
俺は千歳の髪に顔を寄せた。
「俺も」
「うん」
「水緒さんに、約束した」
「何を」
「千歳と二人で幸せになるって」
千歳の呼吸が震える。
「二人で?」
「二人で」
千歳は、長く目を伏せた。
それから、ゆっくり顔を上げた。
「纏」
「何」
「託されたから、君に触れたいわけではない」
胸が鳴った。
「うん」
「母の願いを叶えるためだけでもない」
「うん」
「院長先生に頼まれたからでもない」
「うん」
千歳は、俺の手を取った。
「俺が、君を選んだからだ」
その言葉で、息が詰まった。
俺も、千歳の手を握り返した。
「俺も」
「うん」
「院長先生のためじゃない」
「うん」
「子供の俺の夢を叶えるためだけでもない」
「うん」
「水緒さんに頼まれたからだけでもない」
「うん」
俺は千歳を見た。
「今の俺が、千歳といたい」
千歳の目が揺れた。
「では」
「うん」
「今夜は、その選択を二人で受け取る日だな」
「うん」
「言葉だけではなく」
「うん」
「手でも、キスでも、抱擁でも」
千歳の頬が赤い。
でも、逃げない。
「感じたい」
静かな言葉だった。
直接的ではない。
でも、十分すぎるほど深い。
俺は千歳の手を取った。
「新しい余白を」
「うん」
「少し、埋める?」
千歳の目が揺れる。
「埋めるというより」
「うん」
「触れて、確かめて、二人で形にしたい」
胸が熱くなる。
「千歳らしいな」
「君は?」
「俺は、もっと単純」
「何と?」
「千歳を感じたい」
千歳の指が、俺の手を強く握った。
「……許可する」
「俺も」
俺は、千歳の額にキスをした。
次に、頬。
それから、唇。
千歳は目を閉じる。
腕を俺の背に回す。
部屋の灯りが、少しだけ柔らかく見える。
白いマグと青いマグ。
蓮太の絵。
鏡味さんのカード。
メモ帳。
まだ書かれていない今日のページ。
それらが見守る中で、俺たちはもう一度キスをした。
深く。
でも、焦らずに。
急がなくていい。
今夜は、奪われた意味を取り返す夜ではない。
敵に勝つ夜でもない。
過去から届いた願いを、二人の現在で受け止める夜だ。
千歳が、小さく名前を呼ぶ。
「纏」
「何」
「嬉しい」
「うん」
「怖い」
「うん」
「でも、君となら」
「うん」
「この先も、歩ける」
俺は、千歳を抱きしめた。
「歩こう」
「同じ道を?」
「同じ道を」
千歳が少し笑った。
「子供の君の夢を、叶えるわけだな」
「千歳の母さんのお願いもな」
「重いな」
「重い」
「だが」
「うん」
「悪くない」
「かなり?」
千歳は、俺の首元に額を寄せた。
「かなり」
俺は笑った。
そして、千歳の手を引いて、部屋の奥へ向かった。
細かいことは、書かない。
メモ帳にも、全部は書かない。
でも、その夜のことは、きっと忘れない。
互いの体温。
呼吸。
触れる前に交わした視線。
少し震えた指。
千歳が何度も俺の名前を呼んだこと。
俺が何度も、大丈夫、と返したこと。
大丈夫じゃなくなるほど甘いのに、それでも大丈夫だったこと。
俺たちは、誰かに託されたからそうしたのではない。
夫夫だから義務みたいにそうしたのでもない。
ただ、二人で選んだ。
この新しい余白を、言葉だけではなく、体温でも少しずつ満たしていくことを。
****
夜が深くなった頃、俺たちは並んで横になっていた。
千歳は俺の腕の中にいた。
少し疲れた顔をしている。
でも、穏やかだった。
「纏」
「何」
「作文」
「うん」
「明日、一緒に読むか?」
「……読む」
「恥ずかしい?」
「かなり」
「でも、読む?」
「読む」
千歳は少し笑った。
「俺も、母さんの手紙を読みたい」
「読む?」
「読む」
「泣くかも」
「君もな」
「泣いたら?」
千歳は、俺の胸に額を寄せた。
「夫だから、受け止める」
俺は笑った。
「便利に使うな」
「今日は使っていい」
「特別だから?」
「そうだ」
俺は千歳の髪にそっと触れた。
「千歳」
「何」
「好き」
「知っている」
「愛してる」
千歳は、少しだけ顔を上げた。
「俺も、愛している」
静かな夜だった。
でも、余白の部屋は確かに満ちていた。
完成したわけではない。
むしろ、触れたぶんだけ、また新しい余白が生まれた気がした。
明日、そこにまた言葉を置ける。
作文を読んで笑える。
水緒さんの手紙を読んで泣ける。
ただいまと、おかえりを練習できる。
そうやって、少しずつ足していける。
余白は、完成しないから戻ってこられる。
眠る前に、俺たちはメモ帳を開いた。
全部は書けなかった。
でも、少しだけ書いた。
ーー
千歳は、院長先生から俺の作文をもらった。
俺は、玄理さんから水緒さんの手紙をもらった。
どちらも、よろしくお願いしますだった。
心の中だけにしまわず、声に出して受け取った。
今夜は特別。
託されたからではなく、二人で選んだ。
新しい余白を、二人で少し満たした。
ーー
千歳は、その下に書いた。
ーー
子供の纏は、同じ道を歩く人と結婚したかった。
母は、俺を愛されることが下手な子だと書いていた。
どちらも正しい。
俺たちは、同じ道を歩く。
そして、愛される練習も、愛する練習も、二人で続ける。
余白は埋めても、また生まれる。だから明日も帰ってこられる。
ーー
俺はその文字を見て、胸がいっぱいになった。
「千歳」
「何」
「余白、かなり満ちたな」
千歳は、少しだけ笑った。
「だが、まだ余白はある」
「じゃあ、また満たすか」
「二人で?」
「二人で」
千歳は、俺の手を握った。
「約束する」
俺も握り返した。
「約束する」
白いマグと青いマグが、テーブルに並んでいる。
蓮太の絵と、鏡味さんのカード。
そして、今夜からそこに加わる。
子供の俺の作文。
水緒さんの手紙。
過去から届いた、二つのよろしくお願いします。
それを抱えて、俺たちは眠った。
同じ道を歩くために。
明日、二人で泣いて、たぶん笑うために。
そしてまた、ただいまとおかえりを育てるために。
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