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番外編2 南国のせいにして

新婚旅行の行き先を決めたのは、俺ではない。 千歳でもない。 玻璃宮玄理でもない。 ……いや、正確に言うと、玄理さんが候補を三十七件ほど送りつけてきた時点で、俺たちは一度すべてを閉じた。 「見なかったことにする」 「いつもの流れだな」 「父の提案は、まず疑う」 「夫、学習してる」 「夫だからな」 そんな会話をしていたら、冴が 「はいはい、仕事と親族と財閥から物理的に引き離すなら南国一択」 と言い、螢が 「マトイさん、白い砂浜で御曹司に日焼け止め塗ってもらえば?」 などと余計なことを言い、鏡味さんが 「お二人には、何もなさらない時間が必要かと」 と静かに決定打を放った。 結果。 俺と千歳は、南国にいた。 **** 海が青い。空が広い。太陽が近い。 白い砂浜と、風に揺れる椰子の木。 波の音が、ずっと耳の奥でやわらかく鳴っている。 ホテルは海沿いのヴィラだった。 玄理さんが「控えめな場所を」と言って手配したらしいが、門を入った時点で俺は思った。 控えめとは。 広いテラス。 プライベートプール。 海へ直接続く小道。 天蓋つきのベッド。 窓を開ければ、部屋ごと海風に包まれる。 完全に、逃げ場のない新婚旅行仕様だった。 「……父さん」 千歳が低く呟いた。 「これは控えめではありません」 俺は隣で荷物を置きながら笑った。 「でも、綺麗だな」 千歳は少し黙った。 それから、海を見た。 「……それは、そうだな」 風が吹く。 千歳の薄いシャツが揺れる。 白に近いリネンのシャツ。 髪も少し柔らかく乱れている。 いつものスーツ姿と違って、肩の力が抜けている。 いや、抜けきってはいない。 この男は南国に来ても、姿勢がいい。 でも、光が違う。 東京のビルの中で見る千歳でも、澪標の丘で見る千歳でもない。 海の青を背負った千歳は、やけに眩しかった。 「何を見ている」 千歳がこちらを見る。 「南国の御曹司」 「変な分類をするな」 「いや、似合う」 「褒めている?」 「全部」 千歳の耳が少し赤くなる。 南国のせいか。 たぶん違う。 でも、今日はそういうことにする。 チェックインを済ませたあと、俺たちはテラスで冷たい飲み物を飲んだ。 グラスには、南国っぽい果物が刺さっている。 色が派手。 味も甘い。 俺は一口飲んで、眉を上げた。 「甘い」 「かなり」 千歳もグラスを見ている。 「これ、何味?」 「分からない」 「御曹司様でも分からないものあるんだな」 「果物の分類をすべて把握しているわけではない」 「安心した」 「何に」 「人間味」 千歳が俺を見る。 「君は時々、失礼だな」 「夫なので」 「便利に使うな」 「お前も使うだろ」 「夫だからな」 二人で笑った。 テラスの向こうには海。 空は濃く青い。 波の音が、会話の隙間を埋める。 何もしない時間。 本当に、何もしない時間だった。 灯庭舎の会議もない。 白蝶会の資料もない。 狗飼錆人の後始末もない。 玄理さんからの追加資料も、斎門さんからの修正案も、今日は開かないと決めている。 千歳の端末は、部屋の金庫に入れた。 本人は最後まで抵抗した。 「緊急連絡が」 「鏡味さんに任せたろ」 「だが」 「新婚旅行だぞ」 「それは」 「夫命令」 「命令?」 「願い」 千歳は、その言葉に弱い。 結局、端末は金庫に入った。 俺もスマホを必要最低限にした。 だから今、俺たちは本当に二人だけだった。 「静かだな」 俺が言うと、千歳はグラスを置いた。 「静かだ」 「落ち着かない?」 「少し」 「俺も」 千歳がこちらを見る。 「君も?」 「うん。何もしなくていいって、逆に慣れない」 「それは分かる」 「俺たち、ずっと何かしてたからな」 「敵を落としたり、父を怒ったり、式を挙げたり、新居を決めたり」 「並べると濃いな」 「濃すぎる」 二人で少し笑った。 そのあと、少し沈黙した。 でも、怖い沈黙ではなかった。 波の音。 風の音。 グラスの氷が小さく鳴る音。 千歳が、ゆっくり息を吐く。 「纏」 「何」 「こういう時間も、必要だったんだな」 「うん」 「何も守らず、何も戦わず、ただ隣にいる時間」 俺は千歳を見た。 横顔がやわらかい。 少し眠そうにも見える。 「戻ったら忙しいぞ」 俺が言うと、千歳は頷いた。 「分かっている」 「灯庭舎の計画も、新居の準備も、仕事もある」 「君の店もな」 「うん」 「だから、今だけだ」 千歳はそう言った。 今だけ。 その言葉が、少し寂しく聞こえた。 俺はグラスを置いて、千歳の方へ身体を向けた。 「今だけじゃなくてもいいだろ」 千歳の目が動く。 「何が」 「何も戦わず、ただ隣にいる時間」 「……」 「毎日は無理でも、作ればいい」 千歳は少し黙った。 「余白か」 「そう」 「南国でまで余白の話をするのか」 「俺たちらしいだろ」 千歳は、少しだけ笑った。 「そうだな」 **** 夕方、俺たちは海辺を歩いた。 裸足で砂浜に降りると、砂が温かかった。 千歳は最初、少し戸惑っていた。 「靴を脱いで歩くのは、久しぶりだ」 「御曹司様、砂浜経験少なめ?」 「ないわけではない」 「でも、慣れてない」 「君は慣れているのか」 「いや、俺もそうでもない」 「では、なぜ偉そうなんだ」 「夫なので」 「それは禁止にする」 「夫禁止?」 「便利用法が多すぎる」 波打ち際まで来ると、千歳が足を止めた。 白い波が寄せて、足元を濡らす。 千歳が少しだけ驚いた顔をした。 「冷たい」 「海だからな」 「知っている」 「今の顔、かなりかわいい」 「言うな」 「南国のせい」 千歳がこちらを見る。 「何でも南国のせいにする気か」 「する」 「便利だな」 「今日は便利に使っていい日」 「誰が決めた」 「俺」 「勝手だな」 「夫なので」 「禁止と言っただろう」 俺が笑うと、千歳も少し笑った。 波がまた寄せる。 今度は、二人同時に足を濡らした。 その瞬間、千歳が少しバランスを崩した。 俺は反射的に手を取る。 「触れる」 言ってから、もう触れていることに気づいた。 千歳も気づいた。 俺たちは一瞬、顔を見合わせる。 「理由は?」 千歳が聞いた。 律儀だ。 南国でも律儀。 「転びそうだったから」 「それは妥当だ」 「あと」 「あと?」 「手、つなぎたかった」 千歳の耳が赤くなる。 夕陽のせいか。 いや、これは南国のせいだ。 「それは」 「保留?」 「……今日は、南国のせいにする」 俺は笑った。 「許可?」 「許可する」 俺たちは、そのまま手をつないで歩いた。 夕陽が海に沈みかけている。 空が橙から紫へ変わっていく。 波の音が近い。 千歳の手は、最初少し冷たかった。 でも、歩くうちに温かくなった。 「纏」 「何」 「新婚旅行というのは」 「うん」 「こういうものなのか」 「知らない。俺も初めて」 「そうか」 「千歳は?」 「当然、初めてだ」 「まあ、そうだな」 「当然だろう」 少し強めに返された。 俺は笑った。 「何で怒った」 「怒っていない」 「嫉妬?」 千歳が立ち止まった。 「君は」 「何」 「そういう余計なことを言う」 「悪い」 「だが」 「うん」 「……少し、そうだ」 胸が鳴った。 千歳は視線を海へ逃がしている。 「俺が?」 「君が、今まで誰かとこういう時間を過ごしていたとしても、それは過去だと分かっている」 「うん」 「分かっているが、面白くはない」 心臓に悪い。 南国、危険。かなり危険。 「千歳」 「何」 「俺、こういう旅行は初めてだよ」 千歳が少しだけこちらを見る。 「本当に?」 「本当に」 「客と旅行は?」 「仕事絡みはあった。でも、こういうのはない」 「こういうの?」 「何もしないで、ただ好きな人と海見てるやつ」 千歳の手が、少しだけ俺の手を握り返した。 「そうか」 「うん」 「なら、いい」 「かわいい」 「言うな」 「南国のせい」 「便利すぎる」 **** 日が落ちる頃、俺たちはヴィラへ戻った。 テラスには小さな灯りがともっていた。 ホテルのスタッフが用意してくれたらしい夕食が並んでいる。 魚。果物。見たことのない野菜。香辛料の匂い。 全部、色が鮮やかだった。 「すごいな」 俺が言うと、千歳は頷いた。 「父が絡んでいないことを願う」 「無理じゃない?」 「やめろ」 食事はうまかった。 甘くて、辛くて、少し酸っぱくて、南国っぽい味がした。 途中で出てきた酒は、かなり甘かった。 千歳は一口飲んで、眉を寄せた。 「甘い」 「さっきも言ってた」 「この島は、全体的に甘い」 「人のせいみたいに言うな」 「では、南国のせいだ」 お。千歳が使った。 俺はにやっとした。 「今、言ったな」 「何を」 「南国のせい」 「君の悪影響だ」 「採用?」 「今日だけ」 「今日だけが増えすぎてる」 「在庫処分だ」 「懐かしい」 二人で笑った。 酒のせいか、海風のせいか、いつもより距離が近い。 テーブル越しに視線が絡むだけで、胸が熱くなる。 千歳の唇が、グラスの縁に触れる。 それを見てしまう。 見てしまったことを、千歳に見つかる。 「何を見ている」 「夫」 「知っている」 「唇」 千歳が固まった。俺も、言ってから固まった。 南国、危険。本当に危険。 「……今のは」 千歳が低く言う。 「南国のせい」 「逃げたな」 「逃げた」 「では」 千歳はグラスを置いた。 ゆっくり立ち上がる。 テーブルを回って、俺の隣へ来る。 海風でシャツの裾が揺れる。 灯りが、千歳の輪郭を柔らかく照らしている。 「俺も、南国のせいにする」 「何を」 「君にキスしたいことを」 終わった。 完全に。 俺の心臓が、南国の海に沈んだ。 「……千歳」 「理由は?」 自分で聞いた。 たぶん、習慣だ。 千歳は少しだけ笑う。 「南国のせい」 「それ、理由になる?」 「今日だけはなる」 「許可?」 「俺にも、君にも」 「じゃあ」 俺は手を伸ばした。 「許可する」 千歳が俺の隣に座る。 近い。 夜の海が見える。 波の音がする。 遠くで、何か南国の楽器みたいな音が聞こえる。 千歳の顔が近づく。 初キスの時のような震えは、もう少し少ない。 式の時のような祝福の拍手もない。 新居候補での慣れたキスよりも、少しだけ熱い。 南国の夜のせいだ。 そういうことにする。 唇が触れた。 甘い酒の味がした。 果物の甘さ。海風の塩。千歳の息。 短く触れて、離れる。 でも、すぐには離れきれない。 千歳の指が、俺のシャツの胸元に触れる。 俺は彼の腰を支える。 「……これ」 俺が小さく言う。 「何」 「かなり南国のせい」 「そうだな」 千歳の声が低い。 少し甘い。 「東京では、もう少し冷静だ」 「本当に?」 「……戻ったら、いつも通りだぞ」 釘を刺された。 でも、その耳が赤い。 頬も赤い。 目も少し潤んでいる。 説得力がない。 かなりない。 俺は笑いそうになって、でも笑う前に千歳がもう一度キスしてきた。 今度は、少し長かった。 唇が重なって、ゆっくり角度が変わる。 千歳が息を吸う。 俺も、合わせて息をする。 何度もしたキスではない。 まだ数えるほどだ。 でも、少しずつ分かってきた。 千歳が照れる時の呼吸。 もっと近づきたい時の指の力。 自分から来たくせに、途中で恥ずかしくなる瞬間。 その全部が、可愛い。 言ったら怒られる。 でも、思うのは自由だ。 キスの合間、千歳が額を俺の肩に寄せた。 「……甘い」 「酒?」 「君が」 「南国のせいだな」 「そうだ」 「俺のせいじゃない?」 千歳が俺の肩に額をつけたまま言う。 「半分は君のせいだ」 「半分?」 「残りは南国だ」 「責任分散」 「妥当だ」 俺は笑った。 千歳も小さく笑った。 その笑いが、近すぎて胸に響く。 俺は千歳の髪に少しだけ触れた。 「触れる。理由は、甘やかしたい」 千歳が顔を上げる。 「今さら律儀だな」 「大事だろ」 「大事だ」 「許可?」 「許可する」 指先で、風に乱れた髪を整える。 千歳は目を細めた。 猫みたいだ。 言ったら絶対に怒られる。 だから言わない。 南国でも、命は大事だ。 「纏」 「何」 「こういう毎日が」 千歳は、少し言葉を探した。 「これからも、あるんだな」 胸が、静かに温かくなった。 「あるよ」 「東京に戻れば、仕事がある」 「うん」 「会議もある」 「うん」 「父もいる」 「それはまあ、いる」 「斎門叔父上も、鏡味も、冴さんも、螢くんも、灯庭舎の子供たちも」 「うん」 「忙しい。きっと面倒も起きる」 「起きるだろうな」 「でも」 千歳は俺を見る。 「帰る場所があって、君がいて、白と青のマグがあって」 「うん」 「時々、こうしてキスできる」 言い方。 破壊力。南国、完全に危険。 「千歳」 「何」 「その言い方、ずるい」 「事実だ」 「最近、事実で殺しに来るよな」 「君は死にすぎだ」 「お前が殺すから」 「物騒だな」 「南国のせい」 千歳は少しだけ笑った。 「では、仕方ない」 俺は、彼の手を取った。 「ありがとな」 「何に」 「こういう毎日があるって、思わせてくれて」 千歳の目が揺れる。 「それは、俺の台詞だ」 「じゃあ、二人の台詞」 「そうだな」 夜の海を見ながら、二人で黙った。 もう戦っていない。 誰も追ってこない。 映像を切り取られない。 恥だと言われない。 ただ、夫と夫が、南国のテラスで甘い酒を飲んで、キスをしている。 それだけ。 それが、たまらなくありがたかった。 しばらくして、千歳が立ち上がった。 「少し歩くか」 「夜の海?」 「危ないか?」 「手つないでれば大丈夫」 「君はすぐそういうことを言う」 「嫌?」 「嫌ではない」 「なら行こう」 **** 夜の砂浜は、昼よりずっと涼しかった。 月が海に道を作っている。 波が白く光る。 遠くのヴィラの灯りが、星みたいに並んでいる。 俺たちは手をつないで歩いた。 もう、理由は聞かなかった。 必要ない時もある。 必要なら、あとで言えばいい。 俺たちはそれを知っている。 「戻ったら」 千歳が言う。 「うん」 「いつも通りだぞ」 「さっきも言った」 「大事だから二度言う」 「何がいつも通り?」 「朝は起きる。仕事へ行く。会議に出る。灯庭舎の計画を見る。君は店にも行く。生活する」 「うん」 「南国のように、一日中甘い空気に流されるわけにはいかない」 「そうだな」 「キスも」 「キスも?」 千歳の耳が赤い。 月明かりでも分かる。 「……節度を持つ」 俺は笑いをこらえた。 「節度」 「何だ」 「いや、夫、真面目だなって」 「大事だろう」 「大事だけど」 「戻ったら、いつも通りだ」 「うん」 「分かったな」 「分かった」 俺は頷いた。 ちゃんと頷いた。 でも、心の中では思った。 むりだし。絶対むりだし。 だって今、千歳は俺と手をつないでいる。 南国の夜に照れている。 キスに慣れてきたとか、時々こうしてキスできるとか、自分で言うようになっている。 戻っていつも通り? いや、無理だ。 絶対、前のいつも通りには戻れない。 俺たちはもう、白い花の下でキスをした。 新居候補の平屋でキスをした。 南国のテラスで、甘い酒の味がするキスをした。 そんな二人が、普通の顔で「いつも通り」に戻れるわけがない。 でも、千歳が真面目な顔をしているので、俺は言わなかった。 「何だ」 千歳がこちらを見る。 「何が」 「顔がうるさい」 「顔に音量ある?」 「君はある」 「何も考えてない」 「嘘だな」 「ちょっとだけ」 「何を」 俺は笑った。 「南国のせいって便利だなって」 千歳は目を細めた。 「それだけか?」 「それだけ」 「本当に?」 「半分」 「残りは?」 「戻っても、たぶん俺はお前にキスしたくなるだろうなって」 千歳が立ち止まった。 耳が赤い。 頬も赤い。 月明かりではごまかせない。 「……だから、節度を」 「持つよ」 「本当に?」 「たぶん」 「たぶん?」 「夫なので」 「便利に使うな」 「でもさ」 俺は千歳の手を少し引いた。 「東京でも、新居でも、灯庭舎の帰りでも、仕事で疲れた夜でも」 「うん」 「こういう毎日があるって、今日分かっただろ」 千歳は黙った。 「南国のせいにできなくても、俺たちのせいにすればいい」 千歳の目が揺れた。 「俺たちのせい?」 「うん」 「それは」 「責任重大?」 「かなり」 「じゃあ、二人で持つ」 千歳は、長く黙った。 それから、小さく笑った。 「君は本当に」 「何」 「俺を甘やかすのが上手くなった」 「夫なので」 「それは禁止だと言った」 「南国では有効」 「戻ったら?」 「……善処する」 「約束ではないのか」 「そこは善処で」 千歳が呆れたように笑う。 その顔を見たら、もう駄目だった。 俺は手を引いて、千歳を少し近づけた。 「触れる」 「理由は?」 「今、キスしたい」 千歳の瞳が揺れる。 「南国のせいか?」 「半分」 「残りは?」 「お前が好きだから」 千歳は、少しだけ息を吐いた。 「それは、保留ではないな」 「許可?」 「許可する」 夜の砂浜でキスをした。 波の音が近い。 月明かりが、千歳の白いシャツを淡く照らしている。 テラスの時より、少し静かなキスだった。 でも、甘かった。 南国の果物の味はもうしない。 ただ、千歳の体温と、海の匂いと、夜風だけ。 唇が離れると、千歳は俺の胸元に軽く額を寄せた。 「……戻ったら」 「うん」 「いつも通りだぞ」 まだ言う。 かわいい。 「分かった」 「本当に?」 「本当に」 心の中では、もう一度思った。 むりだし。 絶対むりだし。 こんな千歳を知ったあとで、いつも通りなんて無理だ。 でも、たぶん。 千歳も少しは分かっている。 だって、額を俺の胸に預けたまま離れない。 手もつないだまま。 戻ったらいつも通りだぞ、なんて言いながら、今この瞬間を手放す気がない。 俺はその矛盾ごと、どうしようもなく愛しかった。 少し歩くと、浜辺の先に小さな岩場があった。 波は穏やかで、月の光が海面に細い道を作っている。 千歳はそこで足を止めた。 前を向いたまま、しばらく黙っていた。 海を見ている。 背中が、夜風の中で静かに立っている。 もう折れそうな背中ではなかった。 余白の部屋が燃えた夜みたいに、今にも崩れそうな背中ではない。 それでも、俺はその背中を見て思った。 守りたい。 支えたい。 これからも、後ろにいたい。 今、何も壊れていなくても。 敵がいなくても。 泣いていなくても。 そう思ってしまった。 俺は、千歳の背後に立った。 「触れる」 千歳の肩が、ほんの少し揺れた。 「理由は?」 俺は一瞬、笑った。 誤魔化すなら、今しかない。 「南国のせい」 「却下」 即答だった。 早い。 かなり早い。 「まだ何もしてない」 「その理由は却下だ」 「厳しい」 「大事な接触を、便利な言葉で済ませるな」 胸の奥を刺された。 本当に、この男は。 俺が逃げようとすると、すぐ分かる。 俺は、ゆっくり息を吐いた。 「じゃあ、本当の理由」 「言え」 「これからも、後ろにいるって言いたくなった」 千歳は黙った。 俺は続ける。 「お前が前を向いてる時も。仕事してる時も。父親と話す時も。灯庭舎のことを考える時も。疲れてるのに平気な顔してる時も」 波の音がする。 「俺が、後ろにいる」 千歳の指が、少しだけ動いた。 「倒れていない」 「知ってる」 俺は、あの時と同じ言葉を返した。 余白の部屋が燃えた夜。 あの夜、俺は千歳の背中を初めて後ろから抱いた。 でも、今は違う。 千歳は倒れそうじゃない。 だから、言葉を少し変える。 「倒れてなくても、支えたい」 千歳の呼吸が、少しだけ揺れた。 「……それなら」 「うん」 「許可する」 俺は、そっと千歳を後ろから抱きしめた。 強くはしない。 閉じ込めるためじゃない。 止めるためでもない。 ただ、背中に自分の胸を重ねる。 腕を回す。 千歳の前には海がある。 俺は、千歳の後ろにいる。 それだけでよかった。 千歳の体が、最初少し硬くなった。 それから、ゆっくり力が抜けた。 彼の指が、俺の腕に触れる。 確かめるように。 「……南国のせいではないな」 「うん」 「君のせいだ」 「俺?」 「君が、そういうことを言うから」 「悪い?」 「悪くない」 千歳の指が、俺の腕に重なる。 「むしろ、かなり良い」 俺は、抱きしめたまま笑った。 「最高評価は?」 「戻ってからも続けられたら」 「後ろハグを?」 「後ろにいることを」 胸が熱くなった。 「続ける」 「約束?」 「約束する」 「では、許可は継続だ」 「御曹司様、契約更新が早い」 「夫なので」 「便利に使うな」 千歳が少しだけ笑った。 背中越しに、その笑いが伝わってくる。 夜の砂浜で、俺は千歳を後ろから抱いたまま、海を見た。 何も壊れていない夜。 誰かを止めるためではない後ろハグ。 ただ、これからも後ろにいると伝えるための後ろハグ。 それが、今までで一番静かに甘かった。 しばらくして、千歳が小さく言った。 「纏」 「何」 「戻ったら、いつも通りだぞ」 「後ろから抱いたままで言う?」 「今は南国だからだ」 「却下されたのに?」 「これは別件だ」 「ずるい」 「夫なので」 「便利に使うな」 俺は笑った。 心の中では、もちろん思った。 むりだし。 こんなふうに腕の中で力を抜く千歳を知ったあとで、いつも通りなんて無理だ。 絶対、無理だ。 **** ヴィラへ戻ると、テラスの灯りがまだついていた。 テーブルには、飲みかけのグラス。 甘い酒。 果物。 風に揺れる薄いカーテン。 千歳は部屋に入るなり、少しだけ照れたように咳払いした。 「今日は、南国のせいだ」 「うん」 「明日も、南国だ」 「うん」 「だから」 「だから?」 千歳は少しだけ目を逸らす。 「明日までは、多少なら」 「多少なら?」 「……甘くても、許す」 言った。 この人、言った。 俺は両手で顔を覆いそうになった。 「千歳」 「何」 「それ、殺し文句」 「殺すつもりはない」 「死ぬ」 「生きろ」 「お前が殺してる」 「物騒だな」 いつもの会話。 でも、空気は南国仕様だった。 甘い。 かなり甘い。 千歳は白いシャツの袖を軽くまくり、テラスの椅子に座った。 俺も隣に座る。 肩が触れる。 千歳は離れない。 むしろ、ほんの少し寄ってくる。 「纏」 「何」 「明日は、何もしない日だ」 「仕事?」 「しない」 「観光?」 「少しだけ」 「海?」 「行く」 「キスは?」 千歳が固まる。 「君は」 「何」 「調子に乗るな」 「南国のせい」 「……明日までだぞ」 「はい」 「はいは一回」 「はい」 千歳は呆れたように、でも笑った。 その笑顔を見て、俺は胸の中でまた感謝した。 こういう毎日があることに。 敵を倒した後も、物語が終わった後も、夫になった後も。 俺たちは笑って、照れて、キスをして、また約束を増やしていける。 新婚旅行は、特別だ。 南国の空気は甘い。 でも、たぶん。 特別なのは場所だけじゃない。 千歳と一緒にいるから、どこでも少し南国みたいになるのかもしれない。 言ったら怒られそうだから、言わない。 いや、いつか言う。 戻った後、いつも通りの顔をしている千歳に、わざとこっそり言ってやる。 「南国じゃなくても甘いな」って。 きっと彼は赤くなって、こう言う。 調子に乗るな。 そして俺は、心の中で返す。 むりだし。 **** その夜、俺たちはメモ帳を開かなかった。 新婚旅行にまで持ってきていたけれど、今日は書かなかった。 書かなくても、残ると思ったから。 波の音。 甘い酒の味。 南国のせいにしたキス。 南国のせいにしようとして却下された後ろハグ。 「これからも後ろにいる」と言ったこと。 千歳が俺の腕に指を重ねたこと。 戻ったらいつも通りだぞ、と真面目に釘を刺す千歳。 そして、心の中で「むりだし」と笑った俺。 全部、たぶん忘れない。 眠る前、千歳が隣で小さく言った。 「纏」 「何」 「明日も、南国のせいにしていいか」 俺は笑った。 「いいよ」 「君も?」 「もちろん」 千歳は、少しだけ安心したように目を閉じた。 俺はその横顔を見て、静かに思った。 ありがとう。 こういう毎日が、これからも続くことに。 南国の夜は甘かった。 でも、その甘さを持って帰るのは、俺たちだ。 戻ったら、いつも通り。 千歳はそう言う。 俺もたぶん、頷く。 でも、心の中では決まっている。 むりだし。 絶対、むりだし。

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