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番外編1 余白の部屋、再建中
夫になった翌朝、俺は見知らぬ天井を見ていた。
いや、正確にはもう見知らぬ天井ではない。
玻璃宮側が用意した新しい部屋。
余白の部屋が燃えた夜、白いマグと青いマグと、蓮太の絵と、煙の匂いが残るメモ帳を抱えて逃げ込んだ場所。
会見前に手を握った場所。
初めて「愛してる」と言い合った場所。
式のあと、夫として戻ってきた場所。
だからもう、知らない部屋ではない。
けれど、まだ「ただいま」と言うには少し硬い。
壁が綺麗すぎる。
家具が整いすぎている。
空気に、俺たちの言葉の跡が足りない。
燃えた余白の部屋には、もっと生活の匂いがあった。
インスタントコーヒー。
安いメモ帳。千歳の高そうな作戦ノート。俺の雑な字。
白と青のマグ。
触れていい理由。
触れない約束。
怖いまま信じる、と書いた夜。
そういうものが、壁に染みていた。
「……余白、育成中って感じだな」
俺が呟くと、隣から声がした。
「朝から何を言っている」
千歳だった。
白いシャツに、薄いカーディガン。
昨日の礼服とは違う、柔らかい格好。
髪も少し乱れている。
寝起きの玻璃宮千歳。
いや。夫。
夫になった玻璃宮千歳。
頭の中でその言葉を繰り返した瞬間、心臓が変な音を立てた。
千歳が眉を寄せる。
「顔がうるさい」
「顔に音量ある?」
「君はある」
「夫への第一声がそれ?」
千歳は白いマグを持ち上げた。
「夫だから言う」
朝から強い。
しかも自然に言った。
昨日まで「夫なので」を武器みたいに使っていた男が、今日は普通に「夫だから」と言っている。
危険度が上がっている。
かなり。
「コーヒー」
千歳が青いマグを差し出した。
「俺が淹れた」
「え」
「何だ」
「いや、鏡味さんじゃなく?」
「インスタントなら俺にもできる」
真面目な顔だった。
俺は起き上がり、青いマグを受け取る。
その瞬間、指先が触れた。
ほんの一瞬。
でも、昨日の式で握った手の熱を思い出すには十分すぎた。
白い花の下で、未来へ行く合図として握った手。
その同じ手が、今は朝のコーヒーを渡している。
戦うためでも、止めるためでも、逃げないためでもない。
ただ、朝にここにいると確かめるための接触。
「……熱っ」
俺が言うと、千歳が少し焦った顔をした。
「コーヒーが?」
「いや」
「では?」
「手」
千歳の耳が、ほんの少し赤くなった。
「不可抗力だ」
「不可抗力にしては効果高いな」
「記録するか?」
「朝から危険物ページを増やす気か」
「必要なら」
「やめとけ。今日一日もたない」
俺は青いマグを両手で包んだ。
千歳の指が触れたところが、まだ少し熱い気がする。
コーヒーは普通のインスタントだった。
少し薄い。
でも、妙にうまい。
千歳が真剣に俺の反応を見ている。
「どうだ」
「最高」
「大げさだ」
「本気」
千歳は目を伏せた。
「なら、次も淹れる」
また、心臓に来ることを言う。
「約束?」
俺が聞くと、千歳は少しだけ笑った。
「約束する」
その言葉は、もう俺たちの間で軽くない。
何度も積み重ねて、何度も守ってきた言葉だ。
テーブルの横には、鏡味さんが届けてくれたらしい朝食が置いてあった。
トースト。卵。サラダ。
きちんと並べられた皿。
「料理はまだ鏡味さんか」
「当然だ」
「そこは即答なんだ」
「無理をして初日に事故を起こすより賢明だ」
「財閥の危機管理」
「生活の危機管理だ」
俺は笑った。
夫夫になった翌朝。
もっと映画みたいな、甘くて濃くて、何もかも特別な朝になるのかと思っていた。
実際は、インスタントコーヒーと、鏡味さんの朝食と、寝起きの軽口だった。
マグを渡す時に指が触れて。
それだけで二人とも少し黙る。
そんな朝だった。
でも、それが妙に俺たちらしい。
「この部屋」
千歳が白いマグを見ながら言った。
「まだ、ただいまと言うには硬いな」
俺は驚いて千歳を見る。
「同じこと考えてた」
「君も?」
「うん」
「では、育てるか」
「部屋を?」
千歳は白いマグを置く。
「帰る場所を」
胸に、静かに言葉が落ちた。
帰る場所。
余白の部屋は燃えた。
でも、余白は持ち出した。
なら、この部屋も育てればいい。
ただいま、と言える場所に。
「今日の予定は?」
俺が聞くと、千歳は端末を手に取った。
「午前中、灯庭舎の保全計画会議」
「結婚翌日に?」
「斎門叔父上が、やる気を出しすぎている」
「元気だな」
「父も参加する」
「さらに面倒だな」
「かなり」
千歳は小さく息を吐いた。
「午後は狗飼錆人関連の手続き確認。ただし、夜は空けた」
「夜は?」
「この部屋を育てる」
やめてほしい。
朝から殺し文句を出してくるのは反則だ。
「……それ、軽い口で言うなよ」
「軽くない」
「分かってる」
「では、困れ」
「もう困ってる」
千歳は少しだけ笑った。
その笑顔が、朝の光に溶けていく。
昨日、式をした。
でも、世界が突然全部穏やかになったわけではない。
灯庭舎の計画は続く。
白蝶リゾート構想の再設計もある。
狗飼錆人の後始末もある。
瑠璃香の件も完全には終わっていない。
玻璃宮玄理は相変わらず勝手に段取りを組む。
斎門さんは戻り道の先で張り切りすぎている。
それでも、朝、千歳がいて、白と青のマグがあって。
俺たちが同じ予定表を見ている。
それだけで、何かが決定的に違った。
****
灯庭舎に着くと、子供たちが全力で走ってきた。
「マトイ兄ちゃん!」
「千歳さん!」
「夫の人!」
最後の呼び方で、俺はむせた。
千歳も一瞬固まる。
蓮太が胸を張っていた。
「昨日、夫になったんだろ?」
「……まあ、そうだけど」
「じゃあ夫の人じゃん」
千歳は少し考えてから言った。
「間違ってはいない」
「認めるのかよ」
「事実だ」
事実が強すぎる。
院長先生が遅れて出てきた。
「朝からごめんなさいね」
「いえ」
千歳は丁寧に頭を下げる。
「昨日はありがとうございました」
「こちらこそ。とても素敵なお式でした」
院長先生は、俺を見た。
「纏くん、よかったわね」
たったそれだけで、目の奥が熱くなった。
やばい。本当にやばい。
この場所で「よかったわね」と言われると、子供の頃の俺が顔を出す。
灯庭舎を守りたいと思った俺。
金が必要だと思った俺。
ホストになって、逃げ道を作る側になった俺。
その全部が、一瞬で戻ってきそうになる。
千歳はすぐ気づいた。
「纏」
「何」
「手」
短い。
でも、分かった。
千歳は俺の横に立ったまま、そっと手を差し出した。
人目はある。子供たちもいる。院長先生もいる。
でも、見せつけるためではなかった。
「確かめていいか」
千歳が低く聞く。
「理由は?」
「君が、ここに戻ってきていると確かめるため」
胸が詰まった。
俺は、ゆっくりその手を握った。
「許可する」
千歳の指が、少しだけ強くなる。
「ここにいる?」
「いる」
「俺もいる」
「知ってる」
「なら、よし」
たったそれだけ。
でも、それで涙は引っ込んだ。
代わりに、胸の奥がじんわり温かくなった。
院長先生が微笑んでいる。
見られている。
かなり恥ずかしい。
でも、嫌ではなかった。
****
会議は灯庭舎の古い食堂で行われた。
大きなテーブルに資料が並ぶ。
斎門さん。玄理さん。
千歳。俺。院長先生。
地域の建築士。行政の担当者。
そして、なぜか冴。
「何で冴がいるんだよ」
「話が迷子にならないようにする係」
「会議にそんな係いる?」
「いる。財閥と行政と建築士が話すと、普通の人間が遭難するの」
「山かよ」
「似たようなものよ」
千歳が資料をめくりながら言う。
「実際、冴さんの整理は有用だ」
「千歳まで」
「事実だ」
「出た、事実」
冴が得意げに胸を張った。
会議そのものは、思ったより短かった。
いや、実際には二時間近くあったけれど、要点ははっきりしていた。
灯庭舎をただ保存するのではなく、未来へ続く場所にする。
子供たちの生活動線を守る。
古い水路と澪標の丘の自然を保全する。
地域に開かれた学習スペースを作る。
孤児院を「かわいそうな場所」として残さない。
その中で、俺に意見を求められた。
「子供たちに必要な場所について、架橋くんの考えを聞きたい」
斎門さんが言った。
俺は資料を見た。
立派な図面。
綺麗な線。
専門用語。
正直、難しい。
「えっと」
言葉が詰まる。
その瞬間、千歳が横から静かに言った。
「いつもの言葉でいい」
俺は千歳を見る。
「難しく言う必要はない。君が見てきた灯庭舎を、そのまま言えばいい」
それだけで、肩の力が抜けた。
夫夫連携。
冴が絶対にそういう顔をしている気がしたので、見ない。
俺は息を吸った。
「子供たちの逃げ場を作ってほしいです」
建築士が聞く。
「逃げ場?」
「はい。大きな広場とか、立派なホールだけじゃなくて。ちょっと一人になれる窓際とか、誰かと二人で話せる小さい部屋とか、怒られたあとに隠れられる階段の踊り場みたいな」
院長先生が、少しだけ目を伏せた。
たぶん、俺が子供の頃にそういう場所へ逃げていたことを覚えている。
「子供って、みんなの中にいるのがつらい時があるんです。でも完全に一人は怖い。だから、誰かの気配はあるけど、少し息ができる場所がいる」
千歳が静かに頷いた。
「余白だな」
そう言ったのは斎門さんだった。
俺は少し驚いて見る。
斎門さんは、図面にメモをしていた。
「空きスペースではなく、余白として設計する。機能を詰め込みすぎない場所」
玄理さんが頷く。
「水緒が好みそうだ」
千歳の表情が、少しだけ揺れた。
母の言葉が、この会議の中で生きている。
澪標の丘だけではなく。
灯庭舎の中にも、余白ができる。
「架橋くん」
斎門さんが言う。
「その具体案を、あとでまとめてほしい」
「俺が?」
「現場を知っているのは君だ」
「字、汚いですけど」
「読解は千歳くんに任せる」
千歳が即答した。
「慣れています」
「慣れられた」
冴が笑いをこらえている。
玄理さんも笑っている。
会議は短めに終わった。
でも、必要なことは決まった。
灯庭舎には、余白を作る。
子供たちが息をできる場所。
逃げるためではなく、戻ってくるための場所。
****
会議後、俺は庭に出た。
子供たちが走っている。
蓮太が千歳にまとわりついていた。
「千歳さん、札束ハンカチ持ってきた?」
「持ってきていない」
「えー」
「普通のハンカチならある」
「普通なの?」
「普通だ」
「金持ちなのに?」
「金持ちも普通のハンカチを使う」
「へえー!」
蓮太の学びは、相変わらず独特だ。
千歳は真面目に答えている。
その光景が面白くて、また泣きそうになった。
千歳が、俺の育った場所にいる。
子供たちの中にいる。
当たり前みたいに、灯庭舎の未来の話をしている。
それが、たまらなく嬉しい。
「纏くん」
院長先生が隣に来た。
「はい」
「幸せ?」
直球だった。
俺は少し笑った。
「かなり」
「なら、よかった」
「院長」
「何?」
「灯庭舎、守れると思う」
院長先生は、少しだけ空を見た。
「そうね」
「俺一人じゃ無理だったけど」
「一人じゃなくなったものね」
胸が熱くなる。
俺は千歳を見る。
ちょうど千歳も、子供たちに囲まれながらこちらを見た。
目が合う。
千歳は少しだけ眉を上げる。
何だ、という顔。
俺は小さく笑って、首を振った。
何でもない。
でも、全部だ。
****
夕方、新しい部屋へ戻ると、テーブルの上に小さな封筒が置かれていた。
白いマグと青いマグの間。
煙の匂いがほとんど薄れたメモ帳の横。
「何だこれ」
俺が手に取ると、千歳が言った。
「鏡味からだな」
封筒を開けると、カードが入っていた。
鏡味さんの綺麗な字。
『新しい余白の部屋へ。お二人が戻る場所として、少しずつ育ちますように』
俺は、しばらく言葉を失った。
千歳も黙っていた。
白いカード。
短い言葉。
でも、そこには鏡味さんの全部があった。
余白の部屋の場所を守り抜いた人。
千歳の子供の頃を知っている人。
燃えた場所の意味を、俺たちと同じくらい分かっている人。
「……鏡味さん、泣かせに来てるな」
「本人は無自覚だ」
「いや、これは分かってやってる」
「否定できない」
千歳はカードを見つめていた。
その横顔が、少しだけ崩れそうに見えた。
「千歳」
「何」
「泣く?」
「泣かない」
「じゃあ、後で泣け」
千歳がこちらを見る。
少し怒ったような顔。
でも、本気で怒ってはいない。
「夫は面倒だな」
「夫なので」
今日はここで使う。
千歳が一瞬固まって、それから小さく笑った。
「便利に使うな」
「使える時は使う」
「君の悪影響だ」
「お前もだいぶ使ってるだろ」
千歳は否定しなかった。
俺たちは、鏡味さんのカードを蓮太の絵の隣に立てた。
新しい部屋に、またひとつ本当が増えた。
ただの小物ではない。
余白を育てるもの。
****
夜。
千歳は端末を閉じた。
「今日は、もう仕事をしない」
「本当に?」
「父と叔父上には、明日以降に回すと伝えた」
「すごい進歩」
「君は俺を何だと思っている」
「仕事しすぎ御曹司」
「否定できない」
千歳はソファに座り、少しだけ肩の力を抜いた。
俺はその隣に座る。
まだ少し距離がある。
触れるかどうか迷った時点で、千歳に見抜かれた。
「触れる?」
「理由は?」
「それは君が言う側だろう」
「隣に座りたい」
「もう座っている」
「もっと」
千歳の耳が少し赤くなる。
「許可する」
俺は、少しだけ千歳の肩に寄った。
抱きしめるほどではない。
ただ、肩が触れる距離。
千歳は逃げなかった。
むしろ、少しだけこちらへ重心を寄せた。
白いマグと青いマグの間に、メモ帳がある。
蓮太の絵。
鏡味さんのカード。
作戦ノート。
灯庭舎の資料。
千歳のカーディガン。
俺が雑に置いたネクタイ。
この部屋には、もう少しずつ俺たちのものが増えている。
「余白の部屋は、育つと思うか」
千歳が聞いた。
「育つ」
「なぜ」
「今日、コーヒー淹れたから」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
俺は部屋を見回す。
「もう、だいぶ俺たちのものが増えてる」
千歳も部屋を見る。
「そうだな」
「焦げた匂いは消えても、燃えた夜のことは消えない。でも、それでいいと思う」
「うん」
「あの部屋は燃えた。でも、余白は持ち出した」
千歳は、静かに頷いた。
「ここで育てる」
「うん」
「灯庭舎にも作る」
「うん」
「これから住む場所にも」
俺が言うと、千歳は少しだけこちらを見た。
「住む場所」
「夫夫だろ」
千歳の頬が少し赤くなる。
「そうだな」
「いつか、ここにただいまって言えるかな」
「ここに?」
「ここか、次の家か分からないけど」
千歳は白いマグを見た。
「ただいま、か」
「まだ少し硬い?」
「硬い」
「じゃあ、育てるか」
「帰る場所を?」
「そう」
千歳の目が、柔らかくなる。
「二人で?」
「二人で」
その沈黙は甘かった。
何もしなくても、甘い。
でも、千歳は少し考えてから言った。
「この部屋には、まだ少し足りないものがある」
「何」
「甘さ」
心臓が跳ねた。
「甘さ?」
「余白を育てるには、必要だと思う」
その言い方は真面目だった。
真面目なのに、破壊力が高い。
「千歳」
「何かな」
「それ、どうやって置くの」
千歳は白いマグを置いた。
そして、俺を見る。
逃げない目。
でも、照れている。かなり。
「触れる」
「理由は?」
「この部屋を、俺たちの場所にするため」
胸の奥が静かに熱くなる。
「それ、キスの理由?」
「なるだろう」
「御曹司様、強引」
「今は夫だ」
二回目。
ここで来た。
俺は笑いそうになって、でも胸が詰まって、うまく笑えなかった。
「許可は?」
千歳が聞く。
俺は頷いた。
「許可する」
千歳が近づく。
白いマグと青いマグの間で、俺たちはキスをした。
初めての時ほど震えなかった。
式の時ほど、祝福の拍手もなかった。
ただ、二人だけの部屋。
インスタントコーヒーの匂い。
蓮太の絵。
鏡味さんのカード。
煙の匂いが薄れたメモ帳。
そこに、唇が触れる小さな音だけが落ちた。
甘い。
でも、濃すぎない。
日常に溶ける手前の甘さ。
千歳の指が、俺の袖を少しだけ掴んだ。
俺はすぐに離れようとした。
今日のキスは、設置。
この部屋に甘さを置くためのキス。
深くしすぎると、たぶん二人とも戻れなくなる。
でも、離れようとした瞬間、千歳の指が袖を掴む力をほんの少しだけ強くした。
「千歳?」
「……今日は」
千歳は、目を伏せたまま言った。
「設置だけだ」
「うん」
「だから」
「うん」
「もう少しだけ」
死んだ。
完全に死んだ。
でも生きる。
夫なので。
俺は笑わず、もう一度だけ唇を重ねた。
短く。けれど、さっきより少し甘く。
千歳の息が、ほんのわずかに乱れる。
俺も乱れる。
でも、そこで止めた。
離れると、千歳はまだ俺の袖を掴んでいた。
自分で気づいたのか、少し遅れて手を離そうとする。
俺はその手を取った。
「離さなくていい」
「……」
「設置だけにしては、効果高いな」
千歳の耳が赤い。
「記録しておけ」
「危険物ページ?」
「余白育成記録だ」
「名前を変えたな」
「必要に応じて更新する」
俺は笑った。
千歳も少しだけ笑った。
キスの余韻を、抱きしめるほど強くしない。
でも、離さない。
俺たちは手を重ねたまま、肩を寄せた。
それだけで、部屋の空気が少し変わった気がした。
この部屋は、さっきより俺たちの場所になった。
俺はメモ帳を引き寄せた。
煙の匂いは、ほとんど消えている。
でも、ページには確かに、これまでの全部が残っている。
新しいページに、ゆっくり書いた。
ーー
結婚式の翌日。
朝、千歳が青いマグでコーヒーを淹れた。指が触れた。理由:朝にここにいる確認。効果:高い。
この部屋は、まだただいまと言うには硬い。だから、帰る場所を育てる。
灯庭舎の保全計画会議。子供たちの逃げ場、余白を作る話をした。
会議で言葉に詰まった時、千歳が“いつもの言葉でいい”と言った。助かった。
灯庭舎で泣きそうになった。千歳が手を握った。理由:俺がここに戻ってきたと確かめるため。
鏡味さんからカード。新しい余白の部屋、育成開始。千歳は泣かなかった。でも後で泣いていい。
夜、甘さを設置した。キスした。今日は設置だけ。たぶん。
肩を寄せた。余白の部屋、再建中。
ーー
千歳が横から読んでいた。
「今日の字は、かなり丁寧だな」
「本気だからな」
「いつも本気では?」
「今日は特別」
千歳はペンを受け取った。
少し考えてから、綺麗な字で下に書いた。
ーー
灯庭舎に余白を作る。
纏が育った場所に、これからの子供たちの逃げ道を残す。
手を握った。纏は泣かなかった。だが、泣いてもよかった。
鏡味のカードは反則。
この部屋は、まだ完成していない。だから戻ってこられる。
甘さ、設置済み。ただし完成予定は未定。二人で育てる。
ーー
俺は、その文字を見てしばらく黙った。
「……千歳」
「何かな」
「最後、かなりいい」
「褒めている?」
「全部」
千歳は少しだけ目を伏せた。
耳が赤い。
「完成予定は未定、か」
俺が言うと、千歳は白いマグを持った。
「完成しきったら、余白ではないだろう」
「それ、いいな」
「足りない場所を、二人で足していく」
「帰る場所を?」
「そうだ」
胸が温かくなる。
俺はさらに一行書いた。
ーー
余白の部屋、再建中。甘さ込み。
ーー
千歳が見る。
「込み、とは」
「セット販売」
「安い」
「高級ホストなのに?」
「語彙を磨け」
でも千歳は消さなかった。
その代わり、下に一行書き足した。
ーー
なお、返品不可。
ーー
「返品不可?」
「当然だろう」
「甘さ?」
千歳は、白いマグを置いて俺を見た。
「君ごと」
三回目。
今日一番の破壊力だった。
俺は顔を覆った。
「……千歳」
「何」
「今のは強すぎる」
「本当の記録だ」
「事実で殺すな」
「生きろ」
「お前が殺してる」
「物騒だな」
いつもの会話。
でも、空気は確かに甘かった。
もう一度キスしたくなった。
でも、すぐにはしなかった。
肩を寄せたまま、少しだけ息を整える。
白いマグと青いマグ。
蓮太の絵。鏡味さんのカード。
煙の匂いが薄れたメモ帳。
千歳の書いた「返品不可」。
それだけで、この部屋は十分すぎるくらい甘かった。
少ししてから、千歳が俺の肩に額を軽く寄せた。
「眠い?」
「少し」
「疲れた?」
「かなり」
「休む?」
「このまま少し」
「許可?」
千歳は目を閉じたまま言った。
「夫だからな」
さっきより柔らかい声だった。
俺は笑った。
「便利に使うな」
「便利だからな」
俺は、千歳の肩に自分の肩を寄せ返した。
抱きしめるでもなく。
押し倒すでもなく。
ただ、肩を寄せて、同じ部屋の静けさに身を置く。
夫夫としての日常の始まりには、これくらいがちょうどいいのかもしれない。
甘さは設置済み。
でも、まだ育成中。
「明日は、少し休もう」
千歳が言った。
「できるのか?」
「努力する」
「善処じゃなく?」
「約束する」
「よろしい」
「君に言われると腹立たしいな」
「夫だからな」
千歳が笑った。
柔らかく。
本当に柔らかく。
俺は、その笑顔を見て思った。
余白の部屋は、もう育ち始めている。
完成していないから、毎日ここに戻ってこられる。
足りないところを見つけて、二人で足していける。
コーヒーの匂い。
雑に置いたネクタイ。
千歳のカーディガン。
鏡味さんのカード。
蓮太の絵。
メモ帳の新しいページ。
朝、マグ越しに触れた手。
灯庭舎で俺を戻してくれた手。
夜に置いた甘いキス。
そのあと、肩を寄せ合った時間。
全部が、この部屋を少しずつ逃げない場所にしていく。
燃えた部屋と同じにはならない。
同じでなくていい。
これは、夫になった俺たちの新しい余白だ。
****
その夜、俺たちは同じ部屋で眠る事にした。
燃えた夜みたいに怖いからではない。
会見前みたいに戦いが迫っているからでもない。
ただ、その方が自然だったから。
ソファとベッドに分かれて、という案も出た。
けれど、千歳が少しだけ考えて言った。
「今日は、同じ部屋がいい」
理由は聞かなかった。
聞かなくても分かった。
この部屋を、帰る場所にするため。
俺は頷いた。
「俺も、その方がいい」
白いマグと青いマグは、テーブルに並んでいた。
蓮太の絵と鏡味さんのカードは、壁際で静かに並んでいた。
メモ帳は、二人の間に置いた。
眠る前、千歳が小さく言った。
「纏」
「何」
「この部屋は、昨日より少し帰る場所に近づいたな」
胸が温かくなった。
「うん」
「ただいまは、まだ少し早いが」
「そのうち言える」
「二人で?」
「二人で」
千歳は目を閉じた。
「約束する」
俺も目を閉じた。
「約束する」
夜の新しい部屋に、静かな時間が落ちる。
壁に、今日の言葉が染みていく。
余白は、また少し育った。
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